第107話 靴下逃走中
やつか町には海がある。
ただし、やつか町は日本を取り巻くいずれの海にも接続していない、完全な内陸部にある平凡な町である。地図上では、海があるあたりには山があり『やつか村』があったことになっているが、見た目は完全に海だ。浜辺があり、海遊びもできる。
本当はそこには別の何かがあるはずなのに、近づいてさざ波の寄せる音を聞き、潮のにおいをかぎ、そこに『海』があることを認識してしまうと、もう海しか見えなくなってしまう。
やつか町にある海は、これは300年前に突如として姿を現した怪異なのだった。
なぜそこが海になったのか、どういう性質を持つ怪異なのか、なんのために生まれたのか、それは誰にもわからないままだ。
やつかの海には、普通の海のように生命を育んでいる気配はない。
魚の一匹もなく、海藻の一本も生えていない。
常日頃は天候がどれだけ荒れたとしても穏やかに凪いでいる海なのだが、その潮位が突然変化することがあった。海面の水位がじわりと上昇し、波が砂浜を飲みこみ、やがてささやかな波が町のアスファルトや壁や建物を洗うようになってきた。
はじめはそこそこ話題になったものの、二、三日するとみんな慣れてしまい、長靴やサンダルで過ごしはじめた。
こうした海の変化について戦々恐々としているのは、海辺に住んでいる人たちくらいである。最近海辺に家を建てた宮川さんも実家に避難したようだが、おそらく気が気ではないだろう。
明け方近く、狩人の宿毛湊はコンビニ近くの交差点でぼんやり立っていた。
足元には波が迫り、長靴の底を濡らしていた。
そのとき、かすかに話し声が聞こえてきた。
「いそげっ」
「にげるぞにげるぞ~」
「長いやつはみじかいやつに手をかしてやれ!」
「気をつけろ、車にひかれてよごれると二度とはいてもらえないぞ!」
声の発生源を探すと、コンビニの駐車場の影からだった。
じっとみていると、細いモヤシのような手足が生えた靴下たちが一列になって飛び出してきた。
なぜか二つ揃っている靴下はひとつもなく、片方だけの靴下ばかりが駆けてくる。
靴下たちは交差点までくると「赤信号だ!」と言い、買い物袋を手にぼうっとしている宿毛湊の隣で、律儀に青になるのを待っていた。
この時間である。
正直なことを言えば歩いてしゃべる靴下に関わりたくはなかった。
体も疲れているし、どう考えてももう帰って寝たい。
しかし、狩人が明らかな異常を見すごすのもどうなのか。
職業倫理的にまずいのではないか。
「なんだおまえはー!」
そのとき、胸ポケットでスヤスヤ眠っていた茶色の毛玉が異常を察知して飛び出した。茶色く勇敢なマメダヌキのマメタである。
マメタはスポーツタイプの靴下にかじりついた。
「うわーーーーっ!」
「やめろよう、穴があいちゃうだろ!」
靴下たちはびっくりしながらも、仲間を救おうと駆けよる。
しかし、獣の本能を刺激されたのか、マメタはかじりついた靴下を離そうとしない。
「やめなさい、マメタ!」
「がるるるるるるる!」
「汚いかもしれないだろ、離しなさい!」
「がるるるるるるる!」
結局、宿毛湊は靴下たちを端から捕まえ、抱えられるだけ抱えてアパート海風に向かった。
*
諫早さくらは早朝のチャイムに起こされた。
早朝も早朝、ご近所中、誰も起きていないだろう時間帯である。
彼女はジャージ姿で頭がボサボサのまま玄関に向かう。
普通なら、こんな未知の時間の来訪者に対応したりはしない。
たぶんそれなりに寝ぼけていたのだろう。
アパートの扉を開けると、そこには腕いっぱいに靴下を抱えた宿毛湊が立っていた。
靴下たちにはそれぞれ手足が生え、しゃべり、うごめいている。
「うわっ、気持ちわるっ…………!」
明け方の空気が冷たかったのと、うごめく靴下たちが気持ち悪かったのもあり、一瞬で目がさめた。
宿毛湊はこめかみの傷を歪めて、諫早さくらをにらみつける。
「みてのとおり大量の、片方だけの……靴下だ……。コンビニの近くに逃げ出していた。これはお前の靴下じゃないのか?」
「なにそれ知らない! っていうか手足が生えた靴下を逃がしたことなんていまだかつてないからね!?」
「そうか。ぜんぶ片方だけの靴下だからてっきりそうかと」
宿毛湊は冷たい目つきで諫早さくらを見つめている。
「やめなさいよ。私は心を入れ替えたのよ。もう靴下や手袋を片方だけなくすなんてことはしないわ」
「洗濯機の中身を他人の家の洗濯機に捨てたことがあっただろう。魔法を使って」
「手足を生やしたわけじゃないじゃない。だいたい、その靴下たち、サイズもデザインもバラバラだし、明らかに女物じゃないのもまじってるわよ」
狩人の腕の中で蠢いている靴下たちは、確かに丈も色もまちまちだ。
「いや……だって……お前は…………」
「何よ、ちょっと、その目は。さすがの私でもメンズソックス三足セット695円みたいな靴下ははかないからね。女物のパンプスってタイトなの、分厚いソックスを履いたらサイズ感が変わるし靴が傷んじゃうでしょう。しかも子ども用靴下みたいなのもまじってるじゃない! 入らないわよ!」
「安かったらとりあえず買うだろ……?」
「買わない! 買わないから! 子ども用靴下は!」
「それに前にもこんなことがあったような」
「イヤフォンに手足を生やしたのはむしろあんたたちのほうでしょ。私にはそんな能力ないからね!」
狩人は黙りこむ。つかまえた靴下を手にアパート海風に来たのは、かつて諫早さくらがなくしたイヤフォンに生命がやどり、北海道からやつか町までやって来るという事件があったからだ。
しかし、よくよく考えてみればイヤフォンを付喪神化して手足を生やしたのは怪異退治組合知床支部の皆月おじさんである。
「こういう怪異の原因が全部わたしなわけないじゃない」
「確かにそうだ……。変な時間に騒ぎ立ててすまなかった」
「まったくよ。失礼しちゃうわ」
宿毛湊はしおらしく頭を下げ、捕まえた靴下をとりあえずダンボールにしまい、ガムテープでふさいで持ち帰った。
本人は否定したもののまだ諫早さくら犯人説は宿毛湊の中に残っていたが、その後、靴下は組合の事務所に届けられた。
そして結局持ち主がみつからなかったので遺失物扱いで警察に渡された。
それから数日後のことである。
靴下の持ち主が捕まった。
警察による逮捕である。
というのも靴下たちは、コンビニの裏手にあるまた別のアパートからやって来たと証言したのである。
しかし、アパートの部屋の住人は彼らの持ち主ではなかった。
「靴下の片方だけを盗むのが趣味という靴下窃盗犯が住んでいたらしい」
あらためて諫早さくら宅にお詫びに来た宿毛湊はそう言った。
白黒ツートンカラーのあまり謝罪に向かない頭を深々と下げている。
その頭頂部を見下ろしながら、ボサボサメガネのさくらは表情を歪めていた。困惑
しきった顔つきである。
「……は?」
「靴下の片方だけを盗むのが趣味という靴下窃盗犯が住んでいたらしい」
「なんですって?」
「あの靴下たちは、元いた家から盗みだされた被害者だったんだ。彼らに手足が生えた理由はわからないが、窃盗犯のところから逃げ出し、元の家に戻ろうとしたところで俺に捕まったということらしい。つまり諫早さくら、俺がお前を疑ったのは完全に冤罪だったということだ」
「待て待て待て、待ちなさい」
「いくら怪異事件についていくつか前科があるとはいえ、根拠も証拠もなく心を入れ替えた人間を疑うのはよくなかった。すまなかったな……」
「それはもうどうでもいいのよ。そうじゃなくて、そんな気持ちの悪い趣味の人がこの近所に住んでたってこと? やつか町に?」
「そういうことになるな」
「靴下の片方だけがなくなっていた……なぜかというと靴下の片方だけを集めたい泥棒がいたから……って雑すぎでしょ!」
「どれだけ奇妙な事実でも可能性をすべて排除したすえに導き出された結論ならばそれが真実だとかなんとかかんとか、シャーロックホームズが言っていた気がする」
「現実は小説じゃないの。それに排除すべき可能性はまだほかにもあると思うわ」
「それじゃ、俺はこれから仕事があるから」
「いや! ひとりにしないで!」
「犯人はもう捕まった」
「え~、なんかいやだ!」
しばらくのあいだ、諫早さくらは落ち着かない気持ちで過ごすこととなった。
ちなみに靴下たちが自我と手足を得た理由については、海の潮位との関係が疑われている。
犯人が住んでいたアパートは海が近く、一階が浸水被害にあったことが原因となり、その後更地になってしまった。
やつか町現代妖怪・怪異辞典 実里晶 @minori_akira
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