第106話 裏アカシックレコード


 その日、的矢樹まとやいつきは事務所の二階で昼休憩を取ると言ったきり、降りてこなかった。

 事務員の相模さがみくんが様子を見に行くと、的矢樹は机に突っ伏したままスヤスヤと眠っている。相模くんが声をかけても揺すっても起きない。

 なんとなく『適当なやつ』という評価を下されがちな的矢樹であるが、狩人としては任された仕事はこなすし、あからさまなさぼり行為もしない。そういう面では信頼している狩人でもあり、相模くんにとっては意外な行動に思えた。

 よくみると、手元で飲みかけのペットボトルが倒れている。

 食事中に昏倒こんとうしたのかもしれない、と気がついてゾッとした。

 あわてて支部長を呼びに行き、呼吸も脈拍も正常であるのを確認する。


「支部長、どうしましょう?」


 七尾支部長は眉をひそめた。「またか」と言いたげである。


「午後一の仕事は俺が代わっとく。あと一時間して起きて来なかったら、北海道の皆月みなづき君に連絡取ってくれ」

「来てもらうんですか?」

「たぶん電話でなんとかしてくれるだろ」


 そう言ってジャンパーを羽織はおり、出かけていってしまう。

 ひとり事務所に取り残された相模くんは心細い気持ちであった。



 その頃、的矢樹は、はらはらと雪が降りしきる真っ暗な空間にいた。


 夢にしては、やけに現実感のある夢だった。

 夢ではないかもしれない、と的矢樹は思った。

 霊や何かが就寝中、夢を介して訴えかけてくる、ということが彼にはよくある。これが自分の夢ならばまだいいが、意識ごと別の場所に運ばれたとなると厄介だ。


 天と地の別もつかない空間ではあるが、雪がほのかに白く輝いているおかげで、どうにか先のほうまで見渡せそうだ。手をのばしてみると雪はそれほど冷たくはない。手のひらに置いても溶けることはなかった。

 綿ぼこりとも違う感触のものだが、本物の雪ともまた違うのだろう。

 なんとなく、たくさん雪が降っているほうに歩いていくと、やがて雪が小山のように降り積もっている場所に出た。

 小山の頂上には白ずくめの僧侶が座禅を組んでいる。

 ひどくせて、皮と骨ばかりといった風体の人物である。

 服装は質素な袈裟で、剃髪はしておらず、真っ白で長い髪が足下まで伸びていた。

 ただしその髪は、雪の小山と一体になっている。

 ここを動くことができないのだろうと思えた。

 僧侶の頭上は円形に黒い天井が切り取られ、満天の星が輝いているのがみえた。


「すみません、ここは一体どこなんですか?」


 的矢樹が声をかけると僧侶は首をかしげ、まぶたを閉じたまま、足下に顔を向けた。


「おや、ようこそここまでいらっしゃいました。異邦の旅人よ。ここに人が来るのははじめてのことです」


 僧侶は、男にしては高く、女にしては強張った声で語りかけてくる。

 的矢樹はその声をきき、僧侶がやはり人ではないことを知った。

 だが、驚いたのはその点ではない。


「えっ、意外……。変なところに連れてかれるのはこれが初めてじゃないけど、大体どんな異世界でもけっこう人間がいるんですよね。ヒマラヤ山頂のほうが、人口密度が少ないくらいで……」


 現代人にとっては珍しい現象ではあっても、「神隠し」にあう人間の数は実は少なくない。山を歩いていたらふと、登下校中にいつのまにか、目を離した隙に消えてしまう人たちはまだまだ数多くいるし、現世とは異なる世界を求めてわざわざ旅立つ霊能力者だっている。

 もちろん、いずれにしろ、危険な現象であることは間違いない。

 神隠しにあい、異世界に連れて行かれたあげく、帰り方がわからずに戻って来れない者も数えきれないほどいるのだ。

 それなのに的矢樹がなんとなく緊迫感のない表情で言うので、僧侶はくすくすと軽い笑い声を立てた。


「それはそうでしょう。こんなところにわざわざ来たがる人間はいませんから。ここは、一言で言うなら、世界のが集積する場所でしてね」

「それ、聞いたことあるかも! アカシックレコードってやつでしょ!」


 アカシックレコードといえば——狩人免許一級試験頻出問題であるが——はるか太古の時代から、地球上で起きたすべての事象が記録されているという記憶の倉庫のことである。別名を、アカシャ年代記、世界記憶ともいう。

 アカシックレコードに辿りつくことができれば、人は過去の全ての記録や感情にアクセスし、未来のことまでもを知ることができると言われている。


「……でも、アカシックレコードにアクセスしたい人はいっぱいいると思うけどな」

「ここは、単なるアカシックレコードではありません。言うなれば、裏アカシックレコード……人々から忘れ去られた知恵が辿り着く図書館なのです」

「裏アカシックレコード……なんか凄そう……」

「ほら、みてごらんなさい」


 僧侶が指をさした場所が光り輝く。

 雪の一片がキラキラと輝きを放ち宙に浮かびあがったのだ。


「わ……っ」


 雪は流れ星となり、強い光を放ちながら勢いよく天に昇っていく。

 光が天の星になると、あたりはまた静謐な静けさで満たされた。


「あれは!?」

「あの記録レコードは……そうですね。たしか“いちぼ”です」

「いちぼ?」


 聞きなれない単語である。

 だが、しばらくして、そうでもないことに気がつき、的矢樹ははっとした。

 そう、確かあれは。駅前でナンパされて行ったお店で目にしたはずだ。


「……イチボってお肉の部位のことですよね。焼肉屋さんでよく見かけるやつ」


 僧侶はうなずいた。


「正確には“イチボって具体的にどこの部位だったっけ?”という疑問の答えになります」

「どこなんですか?」

「もも肉です」

「あ、なるほど……」

「もうお気づきでしょう。ここは“ちょっと気になるけど後で検索すればいいや”と人々がスマホを取り出すことすらめんどくさがり、結局忘れられてしまった知恵の集積所なのです」

「それはまったく予想だにしてはなかったですけど……」

「先ほどのイチボは、忘れた人が忘れていたことを思い出し、検索をかけたので、ちゃんとその方の元に戻ることができたようですね」

「…………」


 くだらない、と思ったが、さすがにそれは口にするのがはばかられた。

 それと同時に、どうりで誰もいないはずだと的矢樹は思った。

 みんなが知りたいような知識がちゃんと納められたアカシックレコードがここならば、こんなに過疎かそってるはずがない。知識を追い求める人たちの欲求は無限大だ。どんな方法でも、霊能力者に大金を払っても記録を手に入れようとするはずである。


「ほかにどんな知識があるんすか?」

「主に肉の部位ですね。なんとなく思い出しにくいうえに普段はめったに使わない用語もあります。トーテムポールとか」

「知らなくてもどうってことない知識が主ってことですね」

「気にもならないような知識はそもそも調べようとも思わないので、食品関係が多いですね。ハマチとカンパチの違いとか、結構よく落ちてくるんですよ」


 話し相手がいるからか、僧侶は楽しげだ。長い間ここにいるだろうに、そんなトリビア的知識ばかり見せられて、飽きたりしないのだろうか——これもなんとなく失礼になりそうなので、口にするのは控えた。


「……あの、ここから出るにはどうしたらいいんですかね」


 恐る恐る訊ねる。

 この裏アカシックレコードのぬしはどうみてもこの僧侶だ。彼が的矢樹を帰さないつもりならば、少々荒っぽい手段に訴えなければならない。


「先ほども言った通り、ここにある知識は、人々がその知識を再検索すれば、再び世の中に帰っていきます。君はもうすぐ出られると思うよ」


 僧侶が微笑む。

 すると、的矢樹の体が白く輝きはじめた。



 的矢樹は事務所二階の会議室で目覚めた。

 腕時計をみると昼休憩に入ってから、もう二時間くらいたっている。


「やばっ、仕事!」


 支部長がカンカンになって怒っているところを想像し、青ざめる。

 慌てて一階に下りるが、事務所に人気はなかった。

 支部長はおろか、相模くんもいない。

 そのとき、建物の外から声が聞こえてきた。


「的矢さーん! 的矢さーん!」


 相模くんの声である。

 的矢樹はさらに大慌てで事務所を飛び出した。玄関の鍵はしまっておらず、なぜかわからないが、声は屋根の上から聞こえる。

 駐車場側に回ると、事務所にあるもので一番大きな脚立が出っぱなしになっていた。

 相模くんはその脚立を使って玄関のひさしの上に上がり、踏み台を使って屋根の上に上がったようだった。

 プレハブ建屋の屋根なんて、人が歩くようにはできていない。

 かなり危険だ。


「相模さん! 俺はここです!」


 下から声をかけると、相模くんは二階の屋根の上から顔を出した。


「なんでそこにいるんですか!? 心配したんですよっ!」

「相模くんこそ、そんなところで何をやってるんですか?」

「的矢さんが目を覚まさないから、皆月さんに電話かけたんです!」


 相模くんは手にしたスマホの画面を見せた。

 『皆月夕みなづきゆう』と表示されたスマートフォンは通話中になっている。


「そしたら、屋根の上にあがって大声で名前を呼べって言われたんですよ!」


 相模くんはかつてないほどにキレていた。これは心配のあまり、というより、高いところが苦手な恐怖のあまりに……だったのだが、的矢樹は心から反省して相模くんが屋根から降りるのを手伝った。何に対しての反省かは今ひとつわからないものの、宿毛湊や茜先輩から教育を受けたため、そのへんは素直である。

 相模くんは地面に下りても、しばらく足を震わせていた。

 もともと相模くんは保守的な性格で、目立つことを率先してやることはほとんどない。怖いのに、的矢のためと思って勇気を振り絞ったのだろう。


「なんなんですか、これは!」

「えーと、“魂呼たまよばい”だと思います……」

「魂呼ばい!?」

「魂呼びとも言うんですけどね。沖縄にある習慣で、人が亡くなったとき、屋根の上に上がって名前を呼べば魂が戻ってくるっていうのがあるんです」

「それ、僕がやっても効果あるんですかね」

「今回は効果ありましたよ。それがあったから戻って来れたんだと思います。いやあ、相模さんに助けられる日が来るとはな……」

「感謝してください~!」


 屋根の上で大声を出したせいで、周辺の住民も集まってきていた。面倒事の気配を察知したのか皆月は既に通話を切断している。

 残されたふたりには騒ぎの原因を地域住民に説明して回るという厄介な仕事が待ち構えていた。

 じきの戻ってくるはずの支部長にも叱られることだろう。

 だが、的矢樹は何となくうれしげであった。


「相模くんも狩人免許取ったらどうですか? 俺が使った参考書、あげますよ」

「絶対いやです!」


 相談の結果、今回の魂呼ばいは怪異退治のために行われたという説明が地域住民になされた。とはいえ裏アカシックレコードのことは説明してもなんだか理解されなさそうだったので、未知の妖怪イチボのしわざということになっている。

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