夏みかんの日

細胞国家君主

夏みかんの日

 俺はここ一週間、毎日放課後が来るたびに数研に入り浸っていた。


「しょーこせんせー、いるー?」

「いますか、でしょー。また授業でわからないところがあったんですか?」

「そうそう、だから教えてもらおうと思って」


 俺は返事を待たず、手近な空いている椅子を紹子先生が使っている机まで引っ張ってきて座った。


「毎日質問しに来るなんて、君は勉強熱心だなあ。先生が学生の頃は遊んでばっかりでしたよ」

「えー、じゃあ俺すげ偉いじゃん。ご褒美に先生の連絡先教えて?」

「はい授業に関係ないもの出したから没収ー」

「げえ、もう学校終わってんのに」


 先生は俺がポケットから取り出したスマホをすい、と取り上げて机の反対の端に置き、可笑しそうに笑った。


「毎日毎日よく飽きないなあ」

「まあね、俺諦めない男だからね」


 紹子先生は先週から来た教育実習生で、俺のクラスの数学を担当している。長めのボブで、もう暑いのにきっちりスーツを着ていて、眼鏡が似合って、よく笑う。黒板の一番上に書くときはつま先立ちになって、文章がだんだん右下がりになるのを少し恥ずかしそうにしている。連絡先は教えてくれない。まあそりゃそうだろう、と分かってはいるけれど。


 鞄からノートと筆記用具を取り出した。正直言うと、はなから勉強する気はなかったが、質問があることになっているので一応準備はする。先生は広げていた紙類を重ねて除け、机を空けた。


「先生も勉強してたの?」

「明日の授業の準備と、あと実習レポートを書いていたんです。大学に提出しなきゃだからね」

「めんどくさ。……なんで先生になろうと思ったの?」

「んー……、高校の時の先生が面白かったから、ですかね?」

「なにそれ、めっちゃ適当じゃん」

「まあね、でも目指す理由なんて皆そんなものじゃないですか? どんなに小さくても下らなくても、きっかけはきっかけですし」

「ふーん……。——じゃあ先生は、先生になるのに教育学部? に入ってんだ」

「いえ、私は理学部の数学科ですよ」

「え、数学科って数学者になる人が行くんじゃないの?」

「そういう人もいるけど、教育課程があるところなら教員免許も取れるんです」

「それでわざわざ教師にね……」

「はい。——君は今何か進路について考えているんですか?」

「え? いや、別にそういうんじゃないけど……、でも教師になりたいと思ったことはないなあ。だって数学嫌いって言う奴多いし、生意気な学生何十人も集めて勉強させるとか、ぜってー無理だもん」 

 やべ、余計なこと言ったかな、と心配になったが、先生は悪戯っぽく笑って

「君みたいな?」

 と言った。

「はは……、言うなあ」

「まあこのくらいはね。……うーん、そりゃ大変なことだってたくさんあるだろうけど、きっとその分良いことだってあると思いますよ。今だってこのレポートはめんどうくさいけど、」

 と、言葉と同時に先生の形のいい指がとん、とレポート用紙を指した。

「でもクラスの皆がたくさん話しかけて親しくしてくれるのは、とても嬉しいです。君のような勉強熱心な生徒がいるのもね」

「へぇ……」


 不意に研究室の扉ががらりと開いた。

「あ、お疲れ様です」

 と紹子先生が声を掛けたのは数Ⅱの山沢先生だ。声も体も大きい、男子バレー部の顧問だ。

「お、どうもお疲れ様です。——なんだ、お前また来てんのかあ」

「なんだとはなんですか。勉強教えてもらいに来てる生徒を追い出しはしないでしょ?」

「実際はどうだか、まったく……。普段からそんくらい一生懸命勉強してくれりゃいいんだけどな」

「普段から頑張ってるじゃないすか、卒業はできるように」

「ふん、まあせっかく来てんだからしっかり教えてもらえ」

 そう言うと、何か取りに来ただけだったのかすぐにばたばたと出て行った。


「じゃあ、始めるか。どこがわからなかったの?」

「え、やるの?」

「やるよ。そのために来たんでしょう?」

 思わず口が滑った。渋々俺は今日の授業のページを開く。



 俺が数研に通うようになった小さくて下らないきっかけは、教育実習が始まった最初の日の出来事だった。提出期限の切れたプリントを、いい加減出せと言われて放課後に研究室まで届けに行ったのだった。


「しつれいしまーす、山沢先生いますか?」

「山沢先生なら今はいないよー」

 じゃあ机に置いて帰るか、と思い入った研究室には声を掛けてくれた紹子先生だけがいて、その時もノートに向かって作業をしていた。紹子先生の机の上には大きなビニール袋が置いてあり、すでにHRで自己紹介されていた気安さも手伝って興味心で近寄っていった。

「何が入ってんの、これ」

 覗き込むと、黄色が鮮やかな大きめのみかんが数個入っていた。

「それは夏みかんです。実家から大量に送られてきたから、先生方に挨拶代わりに持ってきたの。君にも一つあげようか」

「へー、なんかみかんって珍しいね。こういうのって普通お菓子とかじゃない?」

「そう? でもとってもおいしいんですよ。ほら、いい匂いでしょう」


 そう言うと紹子先生は、袋から一つ取り出したそれを両手で包み込み、顔の前に持ってきて深々と吸い込んだ。それから、ほら、と言って俺に手渡してくれたが、俺の目には一瞬前の紹子先生の表情が写真に切り取ったように焼き付いていて、消えなかった。

 夏みかんの匂いにうっとりと閉じられた瞼が言いようもなくエロくて、光を反射する丁寧に櫛の通った髪に触れてみたいという、どうしようもない衝動に駆られた。夏みかんを優しく包む両の指が、俺に向かって伸ばされればいいとさえ思った。


 結局もらったみかんは、家に帰ってから丸々一個一人で食べた。おかげで夕飯の時にはもうお腹いっぱいだった。その次の日から俺は、放課後の度に数研に行くようになった。俺でも分かる。こういうのはきっと、単純馬鹿というのだ。



 相変わらず、今日も俺は数研に来ていた。勉強を始めてからしばらく経った頃、不意に紹子先生が真剣な声で言った。

「——ねぇ、私の授業わかりづらい?」

「え?」

「君は毎日質問しに来てくれるけどさ、他の子も皆理解できていないんだとしたら困るでしょう。だからこういうところが分かりづらいよっていうのがあれば、遠慮なく教えてほしいと思って」

「いや、別に紹子先生の教え方が悪いとかじゃないよ。俺が単純にすげー馬鹿なだけ」

 それに教え方がよくても数学出来なくて嫌いな奴は変わらないし、という言葉は飲み込んだ。

「本当に? でも君は普段から質問に来たりはしてなかったって……」

「それは今までもろくに数学出来てなかったんだけどさ、さすがに期末も近いしやばいかなーって思って。教えてもらってるおかげでなんか分かるようになってきた気がするし」

「それならいいけど……。でもじゃあ、実習前までの分もあるから、なおさら頑張らないとね!」


 そう言って紹子先生はやたら張り切ったので、今日はたいして雑談は出来なかった。でも副次的な効果として数学が以前よりは理解できるようになっているのは確かだった。しかし、俺があまりに質問に来るから不安にさせていたのか。ただの口実だったのに。なんだか悪いことをしたと思ったが、実習期間は残り一週間を切っているし、今更数研通いを止める気にはならなかった。



 実習最終日がきた。タイミングよく今日は数学の授業があり、終わりの方の時間を使ってクラスから寄せ書きを渡したり学級長がお礼を述べたりした。全体でお別れは言ったし最終日では挨拶や片付けもあるだろうと思って、今日は数研には行かないことにした。

 言うべきか、言わざるべきか。ここ数日頭にぼんやりと浮かんでいた問題だ。ただ、この気持ちが恋かと問われると、よくわからない、というのが正直な答えだった。付き合ってほしい、という類のものではないような気がした。伝えたいとは思っていなかったし、伝えたところで叶うわけでもないというのも分かっていた。ただ、なんだか名残惜しいような気がして、明日からはもう二度と会えないという事実に踏ん切りがつかずに校門前をうろうろしていた。


「まじでなにやってんだ俺……」


 部活のない生徒も実習生も、あらかた帰ってしまったようだった。俺も帰ろう、と踵を返したが、何となく裏門までぐるりと周って帰ることにした。道を行くと、学校から少し離れた人気のない公園に、この二週間ですっかり見慣れた人影を認めた。


「あ、しょーこせんせ……」


 彼女の姿を見て、未練がましくも心が弾むのが分かった。咄嗟に声を掛けかけた俺は、紹子先生が誰かと電話しているのに気付いて、慌てて口を閉じた。

声がはっきり聞こえたわけではなかったが、実習が終わったことを報告して労ってもらっているようだ。先生は、やりきってほっとしたような、泣きたいような様子をしていた。

 電話の相手は男だ、と直感的に悟った。あの顔だ。学校では生徒にも教師にもただの一度も見せることはなかった、けれどあの日ほんの一瞬だけ垣間見せた、安心しきった無邪気な顔。絶対に俺に向けられることはないだろう、紹子 という女性の顔だった。


「あー、ばかみてぇ……」


 呟いて俺は、公園に背を向けて歩き始めた。

 所詮俺は、担当したクラスの何十人の内の一人で、実習の苦労を増やした勉強の苦手な生徒Aに過ぎなかった。まあ、分かってはいたけれど。


 たぶん俺は、これからスーパーで夏みかんを見かけるたびに買おうとしてめちゃくちゃ迷うことになるのだろう、と思った。果物コーナーから動けずにいる自分を想像したら、なんだか滑稽で、少し笑えた。

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