第6話 最終回

 まるでひどく酩酊した時のように意識はずっと揺らいだまま、ベッドの上で何度か浅い眠りを繰り返した。

 気が付かないうちに朝になっていたようで、カシャっと鳴る機械音と枕元に立つ人の気配で俺は目を覚ました。


「ひでぇもんだな……あ、起きた?」


 枕元に立っていたのは吉村で、目が合うとジャケットの内側にスマホをさっと隠した。恐らく、俺の寝姿を写真撮影していたようだった。


「おはようございます……今、何時っすか?」

「え? もう九時過ぎてるよ」

「やっば……すいません……うあっ」


 枕から頭を外すと、いつの間にか鼻と口から出血してたようで真っ白なシーツも枕カバーも真っ赤に染まっていた。それを指さしながら、吉村が静かな声で言った。


「今日最終日だけど……あそこにはもう行かなくていいからさ、病院行こう。そこで業務終了ってことで」

「えっ……病院、いいんですか?」

「いいっていうか……元々そういうつもりだったからね……まぁ顔洗って、準備しちゃって。ロビーで待ってるから」

「……はい」


 病院へ連れて行ってもらえるとは予想外だった。意識はまだふらふらとハッキリしないままだったが、昨日よりは若干マシな気がした。だが歯を磨くと歯茎がミチミチと音を立てて千切れて行くような感覚があり、吐き出すと洗面器はすぐに真っ赤に染まった。

 意識ははっきりとはしなかったものの、ダウンの内側にナイフを偲ばせて部屋を出る準備を済ませた。

 金を受け取り、別れ際になったら俺は吉村を殺す。それだけを考えながら、力を込めて立ち上がり、足を一歩を踏み出した。


 車に乗るとホテルから一時間ほど走った地方都市にある大学病院へ連れて行かれた。裏口から病院へ入ると入院患者達がよく着ているような薄い緑色のガウンに着替えさせられた。しかし、看護師や医者に症状を聞かれたりすることはなく、ましてや治療の為にここへ連れて来られた訳ではないのだとすぐに察した。


 次から次へと現れえては消える看護師や医者達はまるで物を扱うみたいに俺の身体をいじくり回し、あらゆる検査を受けた。

 出血を止める為に鼻からガーゼが突っ込まれ、逆流した血液が喉に詰まって何度も洗面器に血を吐いた。

 見た事がない灰色の丸い装置の中へ入ると、身体ひとつ分しかない狭い室内にやたら甲高い機械音が鳴り響いた。どうやら俺の身体を検査しているようだった。しかし、当然のように何を検査していたのか、どんな結果が出たのかも伝えられないまま四時間も掛けて検査は終了した。


 吉村と地下駐車場に停めてあるバンへ戻ろうと病院の裏口を出ると、吉村は俺に分厚い封筒を握らせた。


「これで仕事はおしまいだから……一週間おつかれさんだったねぇ……これ、中に一本入ってるから」

「一本って、百万すか?」

「そうだね……まぁ、頑張ってくれたしね」


 止血剤だと言う錠剤と共に封筒を受け取ってから、俺は吉村の目を見ながら嫌がらせのようにこんなことを訊ねてみた。


「俺って、これからどうなるんですかね?」

「どうもこうも……好きにしたらいいんじゃないの……まぁ、俺の知ったこっちゃないからねぇ……」

「あぁ、そうでしょうね。俺が死のうが生きようが、あんたにとっちゃ屁でもないんでしょうね」

「何言ってんだか……山上くんと俺はさ、何の関係もない赤の他人同士に戻る訳だからさ。後腐れなく行きましょうよ」

「あんた、俺がこの後どうなるか知ってるんだろ?」

「さぁ……そんな、エスパーじゃないんだから……」

「俺はこの後、あんたがどうなるか知ってるぜ」

「はぁ?」


 その時、タイミング良く吉村のスマホが鳴った。俺の横を通り過ぎて、車へ向かいながら吉村は電話に出る。こんな運がまだ俺にも残されていたのか。そう思うと、我ながら下衆な笑みが漏れた。

 吉村はガラ空きの背中を俺に見せながら、前を歩き続けている。俺はダウンの内側からナイフを取り出す。


「あー……酒井さん? この前はどうもねー……いやぁさ、そろそろ使う機会あるような感じしててね、助かりましたよ。え? まだ使ってませんけどね、いやー、そこは長年の勘ってやつです……ははは」


 呑気に喋っていられるのも今のうちだ。数秒後に、おまえはその命を落とすことになる。

 背後に近づいて行き、背中から心臓目掛けて何の躊躇もせずに刺した。そのまま前へ倒れ込んだ吉村の身体の奥へと入るよう、柄に力を込め、体重を乗せて行く。 


「かっ……はっ……」


 吉村は特に抵抗する様子も見せないまま短く呻き、身体を数回痙攣させるとうつ伏せになったまま動きを止めた。完全に死んでくれたようで、長髪を踏みつけようが顔面を蹴っ飛ばしてみようが、何の反応も見せなかった。人の命なんて実に呆気ないものだ。ざまぁみやがれ、命の前でふざけ倒した罰だ。俺は銀色のバンの傍で横たわったまま動かなくなった吉村を置き去りにし、そのまま駅へと足を運んだ。


 新幹線に乗って帰り、女の家へ「具合が悪くなったから面倒を見てくれ」と言い訳をして逃げ込んだ。遅かれ早かれサツにパクられるのは時間の問題だろうが、女にはここまでの事情を全て伏せておいた。


 逃げ込んでから三日目、女は俺の目を覗き込んで不安げな顔色を浮かべていた。


「ねぇ、なんか白目が青くなってきてない?」

「白目? いや、気のせいだろ」

「鼻血もまだ止まってないみたいだしさぁ、病院行ってきたら? タクシー呼ぶからさぁ……」

「一々うっせーなぁ……こんなの、ほっときゃ治るだろ……大丈夫だって」


 俺は自分の体調よりもサツの動きの方が気になっていた。地下駐車場で俺は間違いなく吉村を殺したのだが、どのニュース番組でもニュース記事でも何も取り上げられていなかったのだ。あんな真っ昼間に駐車場で刺し傷のある死体が転がっていたらそれなりにニュースになるはずだ。それとも、厚生労働省が絡んだ件だから秘匿捜査の対象にでもなっているのだろうか。


 苛立ちが募り、体調を心配する女につい冷たく当たってしまう。せめて気分を変えようと外へ出てみることにすると、身体はまだふらふらしていた。熱もずっと三十九度を越えていた。


 アパートの階段を下り、吸いたくもない煙草を買う為にコンビニへ向かう。思っている以上に体調が悪かったようで、気分は晴れるどころか足を一歩踏み出す度に悪くなって行く。そして鼻の奥に熱いものを感じると、ドロリとした赤い塊が鼻の穴から垂れて地面に落ちた。もう一歩足を踏み出すと視界が揺らぎ、今サツが来たら逃げられないな、と思っているうちに意識がなくなった。


 次に目を開けると真っ白で無機質な天井が意識に飛び込んで来た。どうやら市内にある大きな病院のようだった。

 鼻の横に青黒い黒子のあるオッサンの医者が俺の様子を伺いに訪れて、重たそうに口を開いた。


「山下さん、路上で倒れていた所を見つけた方が救急車を呼んでくれましてね。あ、お名前は免許証、拝見させて頂きました」

「あぁ、それは別に良いんだけど」

「その……大変申し上げ難いのですが……山下さんの今の容態だと当院では治療が出来かねます」

「どうせ助からないでしょ、分かってるんだよ」

「救える命を救う為に、より大きな病院へと大至急移送が必要になります」

「……助かるのかよ?」

「明確には言えませんが……移動の準備が済んでますから、ゆっくりで良いので車椅子に乗ってください。すぐに移動します」

「……わかったよ。あんたら、そこまでして儲けたいのかよ。だったら死ぬまで金取れよ」

「……そういうことでは……」


 気まずそうな顔を浮かべて黒子を弄り倒す医者が先導し、俺は病院の地下駐車へ向かう。

 看護師に車椅子を押してもらいながらエレベーターに乗り、地下一階の駐車場へ出る。警察を呼ばれていないってことは、やはり事件になっていないのかもしれない。ラッキーはラッキーだが、俺はもう病院の外へは出られないかもしれない。最も、出れた所でこんな身体の状態じゃ出来ることなんて立ち上がって倒れることくらいなもんだ。息をすると肺も痛くなるから草を吸う体力すら残されていなかった。


 薄暗い駐車場を奥へ奥へと進んで行くと、黒子医者が振り返って作り笑顔になった。


「あちらにお車を用意させて頂いております。すぐに移送となりますので、ご安心ください」

「分かったよ。あの車だろ……え、おい」


 地下駐車場の一番奥。そこにぽつんと一台停まっていたのは銀色のバンで、その運転席に座る男には見覚えがあった。しかもこちらを眺めながらニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。


「おい、やめろよ。やめろ! 戻せ!」

「坂下さん、患者さん興奮してるから早く乗せちゃって」

「はい!」

「違うんだよ、あいつは生きてるはずがないんだよ! おい、何するんだよ! 待ってくれよ!」

「坂下さん、ドア閉めるからどいて! 早く!」

「おい!」


 ドアが勢いよく閉められると、車の外から助手席側のドアをノックする音が三回車内に響き、ウィンドウが下りると黒子医者の声が聞こえて来た。


「それじゃあ吉村さん、お願いします!」

「はーい……了解しましたー……じゃあ行こうか、山川くん……」


 何でこいつが生きているんだ。そんなはずはない。あの時、吉村は完全に死んでいたはずなのに。俺は返事をすることも、名前を訂正する余裕もまるで無かった。死んだはずの人間が目の前にいることで、パニックに陥ったのだ。


 閉められたドアにはインナーロックもノブも何もなく、内側からは決して開けられない仕様になっている。おまけにベルトも自力で解除するのは不可能な仕様になっていた。

 なんとかベルトを外そうと焦れば焦るほど、俺の身体は体力を失くして行く。やがて力が入らなくなる。


 車は街を出て高速道路に乗った。AMラジオのジジイのDJの声だけが車内をぐるぐると回っていて、かろうじて道路の看板に目を向けると車は北へ北へと向かっている様子だった。

 身体が怠くなるにつれ、意識に突き刺さるほどの強烈な睡魔に襲われた。深く、足元から真っ暗闇の底へと落ちて行くような感覚だ。

 俺は次にいつ目を開けられるのか分からないまま、一か八かのような気持ちになって目を閉じる。そうして車が揺れるたび、俺の意識は現実から遠ざかって行った。




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そこから動くな 大枝 岳志 @ooedatakeshi

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