第5話
吉村は雑木林の前で俺を下ろし、運転席の窓を開けて間延びした声を出した。
「山際くんさぁ、何もない場所だけどさぁ……どうか夕方まで頑張ってちょうだいよ」
「山下ですよ、いい加減覚えて下さいよ」
「また間違えたなー……頭では分かってるんだけどねぇ……まぁ、あと少しだからさ、大金もらって帰りましょうよ……そんな訳で、また夕方」
「ああ……はい」
すぐに発進した銀色のバンを見送り、雑木林の中へ入る。椅子に座ると世界から取り残されたような気分になり、六日目が始まった。
この場所に来るとあまりの静けさに気が狂いそうになる。ここへ来る道中に住宅や商店もちらほら見えるのだが、人の気配が一切なかったし、人影ひとつ見たことがなかった。建物はあっても住民はいないのだろう。それどころか、鳥のさえずりひとつ聞こえて来ない。
雑木林の中から見えるのは車が一台も通らない目の前の道路と、向かいの枯れ切った畑だけだ。畑の奥には住宅が数軒と低い山が見えるが、ヘリが来た以外には何かが動くような気配もない。
オッサンを連れて行った防護服の連中と、突然送られて来た乱数表のような不可解なメール。送信元は厚生労働省のメールアドレスだった。きっとあの防護服の連中もその関係者だろう。
クスリの売人をシノギにして散々馬鹿な人生を送って来た俺でも、これがまともな「交通量調査」の仕事では無いのはとっくに感じている。吉村のあの曖昧な態度も、分かっているならわざわざ口に出すなという事なのだろう。
恐らく、俺は「検体」として何らかの実験や計画に参加している。交通量調査と言われて座ってはいるが、調査には必須アイテムとなるカウンターも台数を書き込むリストも、何も渡されていない。丸一日、何もせずにずっとここに座っているだけなのだ。しかし、それが奴らの目的なのだろう。
血を吐いて朦朧としていたオッサン。吉村は直接言葉には出していなかったが、オッサンはあの直後に死んだのだろう。オッサンのことを話す吉村の伝え方でピンと来た。あれは人の死を隠している時の伝え方だ。
それに俺の足に出来た青痣。これは間違いなくこの場所にいるから出来たのだろう。ぶつけてもなければ、変なアレルギーが出た訳でもない。
椅子に座っている間に俺の命が徐々に蝕まれているのかもしれないと思うと、心の奥から憤りを感じ始めた。
一日たった十万で消える命。それが、俺の一生の価値。ふざけるな。
考えれば考えるほど腹が立って、俺はここから抜け出してやろうと思った。
ただ座って体が蝕まれるのを待つなら、逃げて捕まって殺されるなりくたばった方がまだマシだ。そう思い、入り口から抜けて車の通らない道路へ出た。空は冷たく青く、晴れている。
さぁ、俺はここから何処へ逃げたらいいのだろう。右か、左か。辺り一面は枯れた畑で、四方は低い山に囲まれている。
とりあえず遠くに逃げよう。そう思い、前を向くと畑の向こうの住宅街で何かが動くのが見えた。目を凝らしてよく見てみると、動いていたのは人ではなく野生の鹿だった。頭を上下に激しく振りながら、住宅街をふらふらと移動している。
腹を空かせて山から下りて来たにしては動きがずいぶん奇妙だった。俺はそのまましばらく眺めてみることにしたが、鹿は頭を上下に振り続け、時折住宅の塀に身体をぶつけながら歩き続けている。
鹿は住宅街を抜けて畑の前で立ち止まると人の気配に気が付いたのか、じっと俺を眺めている様子を見せ始めた。激しく振っていた頭の動きを止め、静かにこちらの様子を伺っているかと思ったら、立ち止まったまま再び頭を上下に激しく振り始めた。そして、鹿はまるで牛のような低い声で
「ブェー」
と長い間呻いたと思ったら突然倒れてしまった。倒れたまま、全く動き出す気配も起き上がる気配もなかった。恐らく、死んだのだろうか。
その光景を見て、この場所で鳥のさえずりのひとつさえ聞こえて来ない理由が分かった気がした。聞こえて来ないのはきっと生物がこの場所で生きて行けないからなのだろう。そう思うと、どの家も商店ももぬけの殻となっている理由が理解出来た気がした。
なんでここへ来てしまったのだろう。今さらそんな事を考えても仕方がないとは分かっていても、後悔ばかりが頭を過ぎった。
すぐにでもこんな場所から逃げ出さなきゃならないと思い、足を一歩踏み出すと視界がグラッと大きく傾いた。身体が異常なくらい重く怠く感じ、手の甲を額に当ててみるとかなり熱を出している事に気が付いた。
一歩足を踏み出すたびに胃液が込み上げ、俺は雑木林の入り口で朝食べた物をすべて吐いてしまった。とにかく、気持ちが悪い。俺は何とか必死に身体を動かしてパイプ椅子へ戻ると、結局腰を下ろしてしまった。
気温はさほど寒くなかったはずなのに身体がどんどん冷えて行って、ダウンを着ていてもあまりの寒気に身体が無意識に震え始めた。あのオッサンと同じような症状だ。
次に俺を襲ったのは強烈な腹痛だった。我慢ならずに円形の隅にしゃがみ込んで用を足すと、下痢は水のような勢いで出続けた。
ラッキーだったのはパチ屋でもらったポケットティッシュがダウンのポケットにいくつか入っていた事だ。ケツが汚れなくて済むと思い、安堵しながら拭き取ってから何気なく見てみると、ティッシュは真っ赤な鮮血で染まっていた。
この瞬間に、何かただごとではない異変が身体に起きているのを実感した。
オッサンのパターンで行けば俺はこの後、口からも出血する事になる。そしたらあの真っ黒なヘリがまたやって来て、何処かへ連れて行かれるのだろうか。そしてそのまま、この命は無かった事になるのだろう。冗談じゃない。
椅子に座りながらも俺は熱に浮かされているようで、自分でもよく分からない言葉をぶつぶつと呟き続けていた。自分でその言葉を聞き取ってみると、殺す、殺す、殺す、と呻いているようだった。
昼に弁当を届けに来た吉村には何も言わなかった。言った所で「頑張って」と言われるのがオチだ。
夕方になって吉村が迎えに来たが、椅子から立ち上がって話をしても何を話しているのか全く頭に入って来なかった。ぼんやりした意識の中、吉村の影が悪夢のように揺れ続け、俺の肩を数回叩いて笑っていた。呆れたような長い溜息をついているのも感じた。熱にやられて朦朧とする意識の中、たった一つだけはっきりと感じられる事があった。それは吉村を殺してやりたいという明確な殺意だった。
吉村はある程度の事情を知っていて俺とオッサンをここへ連れて来たはずだ。
何が「大金もらって帰りましょうよ」だ。
帰れた所で、俺は恐らく長くは生きられない。
もちろん首謀者ではないだろうし、相手が違うことは分かっている。吉村は本当にただの手配師に過ぎないのだろう。殺した所で代わりになる人間なんていくらでもいるはずだ。
しかし、どうせ先が長くないならたった一瞬でいい。たった一瞬でいいから、奴らの目にものを見せてやりたかった。
幸い、護身用のナイフは持って来ている。日頃から危ない奴らを相手にシノギをして来たことが功を奏した。
ホテルへ着いて受付の前を過ぎ、狐ヅラが何か言っているのを無視して部屋へ帰る。景色は揺れ続け、体調が落ち着く様子は一切ない。一歩一歩がとにかく重たくて仕方がなかった。
ドアの前で立ち止まって鍵を開けようとかろうじて腕を伸ばすと、オレンジ色のダウンの左腕と胸元が赤く染まっていることに気が付いた。
そっと鼻に手を当てるとぬるぬると指が滑り、鉄の匂いが鼻を通り越して口の中に広がった。指を離すと雫が落ち、ダウンの胸元でぽたぽたと音を立てた。水を零したような鼻血が、とめどなく溢れていた。
続く
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