異次元の傀儡師

豚蛇

異次元の傀儡師(かいらいし) 

 私は今、人類があらゆる生命の頂点に立つ全能の存在であるなどという事は全くの偽りであり魚に喰われるミジンコの如き無能の衆であるというのが真に的を射た表現であるという事を痛切に感じている。

 私の名はジョン・ウィリアムス。人の一切通わないような道一つ無い山奥に住んでいる世捨人である。辺りは果てしなく木々が生い茂り、夜ともなれば闇の世界が家の周りを支配する。下界に下りることはほとんど無く、山中の山菜や茸をとって生活している。近くには小川が弱々しくも流れているので飲料水の心配は無い。他の者にはどうあれ、この地は私にとってはパラダイスであった。

 ある日、私は思わぬ収穫を期待し、少し奥の方の、今まで足を踏み入れた事の無い所まで茸などを取りに出かけた。しばらくすると、運良く隠された穴場を発見することが出来た。色々な茸や山菜の他にも黄イチゴやら山ブドウやらの果実も有ったので、滅多に無い収穫とばかりに夢中になってそれらをカゴに積み上げていった。

 取るのに夢中になって少し奥に行き過ぎたと思い、山と収穫物の積まれたいくつかのカゴを持ち、引き上げようとすると、前方の茂みの影に隠れて、とび出た岩壁状のものの岩肌に人が一人通れる程度の亀裂らしきものがあるのを発見した。私は好奇心を覚え、カゴをその場に置いて中を探るためにその亀裂に近づいて行った。思えばこの発見が全ての惨事の始まりだったのだ………。

 亀裂は縦に七フィート、横は最も幅の広いところで二フィート位の鋭い縦長であり、端に行くほど細くなっているので、通るのはなかなか困難である。内部の壁は湿っており、あちこちにナメクジが這っていた。多少下に傾斜しており、入ってそれほど進まぬうちに暗闇に包まれていた。私は奥がどうなっているのか分からないまま灯り無しで進むのは危険だと思い、今日はひとまず家に戻り、また明日にでも準備を整えて探検に乗り出そうと決心した。外は既に夕闇が近づきつつあった。


 次の日、私はささやかな朝食を済ませてから、ひうちと小さ目の松明を持ち、例の場所に向かった。その目は晴天で、小鳥のさえずりが私の耳に心地良く響いていた。亀裂に到着すると、私は火口箱から火口をとり出し、火打石で火をつけ、それを松明にうつした。そしてそれを左手で持ちながら中へ入って行った。

 中は相変わらずじめじめとしており、苔のようなヌルヌルしたものやナメクジがへばり付いていた。下方に傾斜している他は大した変化も無く、六ヤードほど進んだ頃だろうか、それまでの縦長の狭い進路が、急に開けて大して広くは無いが人が一人住める程度の広がりをもつ空洞が現れた。そして事実、人の住んでいた形跡があったのだった。

 そこに有ったものは、足の一本折れた正方形の小型テーブルと椅子、小物を入れる引き出し、ランタン、そして――源初の混沌たる暗黒をたたえた二つの虚ろな眼窩より私を見つめる、ボロ布をまとった不気味な白骨死体であった。

 私は思わぬその発見に驚愕し、松明を床に落としそこなった。しかし気を取り治し、再び辺りを観察した。部屋の中には先に記したものの他は大したものは無かったのだが、床やむき出しの壁、テーブルの表面などに五芒星形の模様やら意味不明の魔的な図形や文字やらが処々に描かれているところを見ると、どうやらここに住んでいた者――白骨の主――は、何やらいかがわしい邪教に手を染めていたようである。

 私は小柄の引き出しに興味を覚え、三段ある内の一番上の段を恐る恐る開けてみた。するとその中には、古くなったハンカチ等のごくありふれた日常用具が入っていただけだったので、その一段目を閉めて二段目を開けてみた。そこに入っていたのは妙なものであった。長径三インチほどの水晶球と、ボロボロになった手記の様なもの数枚が入っていた。三段目は筆記用具であった。

 私は二段目にあった水晶球と紙を家に持ち帰り調べるつもりで取り出し、それとなく古紙に書かれた文字を眺めていた。この様な訳の分からぬ文字は見た事も聞いた事も全く無い――はずであった。しかし、妙に自分はこの文字を知っているのだという考えが頭から離れない。そして最後の紙を目にした時――私は読み方が分からぬにもかかわらず、その紙の他より大きく書かれた書き途中の文字を読み上げねばならぬという激しい衝動にかられた。――そして私は気づいた時、その文を読み上げていた。

 私は怖くなり、洞窟から急いで逃げ出した。顔や手が壁にこすれて傷を作り、ナメクジのべとべとが身体のあちこちにこびり付いたが、そんな事に関わってはいられなかった。やっとの思いで外の空気を浴びた時、松明は途中でとり落としたにもかかわらず、紙束と水晶球は依然としてしっかりと手にしている自分に気付いた。

 家に着き、着替えを済ませると、私は机に向かって奇妙な収穫物を調べ始めた。既に先に私が口走った言葉は文字を見ても思い出せなかったが、自分で言った単語らしきものの中で、何回か繰り返されたものはかすかに記憶に残っていた。確か「イア」とか「ヨグ」とか「ノザーパバ」というものであり、これらの言葉はだいぶ昔に何かの本で目にした事が有るような気がしたのだが、思い出せなかった。それ以上何も分かる事が無いまま、無駄に時が過ぎていき、夕食を終えるとその日一日色々と疲れたので、いつもよりずっと早目に床についた。眠りに陥る寸前、私は前述の言葉をどこで目にしたのか思い出した。隠遁者となる前のだいぶ昔――古物蒐集家である数少ない友人の一人の家で読んだ馬鹿馬鹿しい作り話を収めた不快な書物の内に記されていたのだ。その本は……確か「エイボンの書」とかいう……。


 その夜見た夢は、非常におぞましい悪夢であった。私は上も下も無い暗黒の空間に浮かんでいて、あたりからは絶えずすすり泣きのようにも聞こえる詠唱じみた、様々な音調の弱々しい音が響いていた。右手を見ると、例の水晶球を握っていた。覗いて見ると何かが見えて来た。すぐにそれははっきりとした形をとり、果てしない灰色の砂漠と雲一つ無い紫色の空の風景となった。気付いてみると私はその風景の中に浮かんでいて、そこに――おぞましきものが現れた。

 それは、基物にへばり付き這い進むアメーバのごとくに平板で歪な形をした、絶えず輪郭を変える赤い雲の様だった。大きさは推定だが、最も長細い部分で二〇〇フィート位だろうか。そしてその表面に、大小様々の円く黄色い唇、あるいは太縄で作ったリングの様な肉厚の外縁をもつ、計十二の穴がぽかりと口を開けて散在していた。それらの穴からは、霧みたいなものがかすかに漂い出ており、それぞれに赤や青や黄など色々な色に淡く輝いていた。暗黒が口を開けているものも幾つか有った。それらの穴はそのまま反対側に貫通しているのではなく、内部にそれぞれが別個の次元を形成しているようであった。そしてそれらの中でひときわ緑色に輝いているものが私の注意を引いた。

 この生きた穴開きの染みは突如として地上二五〇フィート程の所に現れ、私の度肝を抜きつつフワフワと空中に浮き広がっていたが、やがてゆっくりと地上に舞い降りた。私は猛烈な嫌悪と恐怖に耐えながら様子を見ていたが、やがてあのひときわ眩い緑光を放つ穴――中位の大きさで、穴の中でも最も外側に位置するものの一つ――から、第二の異形のものが現れ出ようとしていた。

 一瞬、緑の光が途切れたかと思うと、歪みながらかすかに蠢く穴から、絵の具をチューブからしぼり出すように、あるものがにゅっと抜け出てきた。外に出るとそれは穴から出る為に流動状になっていた大きな体をもとの形にもどしていった。

 この様におぞましいものが存在して良いものだろうか。私は恐怖に発狂しそうになりながらもその存在から目をそらすことが出来ずにいた。そのものは多少青みがかった薄気味の悪い白色をしていて、直径約十三フィート、長さ四十~四十五フィート位の桿菌の様な輪郭をしていたが、マシュマロの様に柔かく、くねくねとうねり、伸び縮みするので数値の程は定かでない。表面は見た限り、しっとりすべすべしており、青い血管がいたる所に走っていた。六本の緑がかった水色の、先細りのミミズの様な節のある触手が、不規則な位置についていて、天に向かってくねっていた。そして、もっとも忌むべきことに、無数の穴が全身についていたのだった。それらは口内炎の如き円形や楕円形や角の丸くとり去られた多角形の様な形をしており、軽石の表面の穴のようにかなり密集していたが、それぞれの穴は他の穴と相交わることなく一直線に深く落ち込んでいた。その内壁は人間の口内の様にぬらっとした粘膜状で色も又赤かった。この怪物がのたうつごとにそれらの穴が伸びたり縮んだりと引っ張られて形を微妙に変えた。穴の直径は大体一~二フィートで、表面積の半分は穴で占められていると言って過言では無い。

 するうちにその穴に粘土質の茶色がかった灰色のものが内部より出てきて穴より少し出たところで止まった。汚らしい無数の角栓ではち切れんばかりに埋めつくされた、皮脂まみれの不潔な人皮よろしく、それぞれの穴にぴっちりと満たされたそれらの物体を見ていれば、不快にもつまったものを何とかしてしぼり出してしまいたい気も狂わんばかりの衝動にかられるものである。その不快感が耐え難い程まで高まった時、それらはこの怪物が染み状の雲より出て来た時の様にニュルリと絵の具を出す様に一斉にひり出された。地面に落ちたそれらのものを見ていると、中で無数の小さな蛆の様なものが蠢いているのが見えた。

 そして怪物は、染み状の雲をそこに残したまま、自分の産み落とした蛆共々、砂中深く二もぐり込んでいってしまった。精神がボロ布の様になっていた私は有り難い事にここで一瞬闇に包まれ、目覚める事が出来たのだった――悲鳴を上げながら。

 私は翌日の午前中ずっと何か訳の分からぬ事をわめき散らしながら家の中で暴れ回っていたらしく、正気にもどってみると、あたりには様々のものが散乱していた。それらのものをひととおり整理する時、私は例の手記と水晶球を目に見えない机の引き出しにしまい込んだ。水晶球を手にした時それが熱をもっているような気がしたが、気のせいだと心に言い聞かせた。


 それから数日間、私は手記や水晶の事を頭から追いはらおうと努力した。そしていつしかこの凶々しい出来事は私の脳裏から薄れていった。

 ある夜、窓に面した机に座って読書をしていると、外で落ち葉を踏みしめるような音がかすかに聞こえてきた。窓から覗いてみると、最初は何も見えなかったが、闇に目が慣れて来るにつれて、それが紛れも無く人間であることが分かった。しかしこんな人とて通わぬ山中を、しかも夜中に灯りももたずにいったいどうした事だろう。始めは私の家を訪れたのかと思ったが、すっと通り過ぎていってしまった。その歩き方は頼り無く虚ろなもので、まるで死人を思わせるものであった。私は何となく気味悪くなって、それからすぐに寝てしまった。

 次の夜。私は又しても音を聞き、窓から覗いてみると、昨夜とは別の人間がやはり何も持たずに虚ろな足どりで家の前を通り過ぎていった。今度は一人だけでなく、奥にまた別の人影が見えた。彼等はどうやら山頂を目指しているようだった。私は思い切って声をかけてみたが、充分に聞こえる範囲にいるはずであるのに何のいらえもなかった。

 彼等のあとをつけていくのを決心したのは、三人目を目にしてからであった。松明に暖炉の火をつけ、最後の男のあとをつけた。初めは五ヤード程離れて木影に隠れながら尾行していたが、相手が全く周りに注意を向けずにいるのでだんだん大胆になって来て、ついに相手の一ヤード後方を歩いていった。ここに来て私は相手が一種の催眠状態にあり無意識のうちに夢遊病者の様に歩いているのに気づき、更に大きな異変として背中に非常に巨大な瘤がある様にふくれ上がっているのが見えた。よく見ればその瘤は彼にだけ有るのでは無く、前方を行く二人にも同様に有るのに気が付いた。そして……それは、蠢ていた。

 山頂に近づくにつれ、より大いなる異変が起こり始めた。声が、詠唱が彼等の口から――否、少なくとも最初はそう思ったが、実際には、聞こえて来た。それは、とうてい人間とは思えぬ様な不気味な声で、とうてい人間には発音出来ぬ様な事をほざいていた。今や声は至るところから聞こえて来る。この事が山頂を目指す奇怪な人間が二、三人どころでは無く、何十人もいる事を表していた。そして急な段差を乗り越え、遂に山頂に達した。

 そこに現れた光景は、人間が絶対に知ってはならぬようなものであった。山頂は木がまばらになっており、短い草やむき出しの土がちょっとした空地を作っていた。そしてその上に横たわり蠢いていたもの―――それは、あの夢の中で砂中に没した、穴だらけの怪物であった。その生白い体からはかすかな燐光が出ていて、あたりをぼうっと照らし出していた。そして照らし出された周辺は血の海であった。その赤い液体は燐光、月光、松明の火を反射し、てらてらと不気味に輝いていた。人々は、その血の海をぴちゃぴちゃ音を立てながら、怪物に近づいていき、あるものは触手に捕えられて、又あるものは自分から、無数の穴に頭をつっ込んでいった。穴の大きさは前述の通り平均約一フィートである。穴は、人間を捕えると、その穴より大きな人間の身体をその柔軟性を利用し無理矢理の様に包み込み、収縮しまわりから強烈な圧力をかけて、吸い込んだ。その時こそ恐怖と嫌悪、嘔吐感の最高潮に達する狂気の瞬間であった。吸い込まれていく人間はその凄まじい圧力によって、骨の砕ける嫌な音と共に、体のあちこちがはじけ、その隙間から臓物がビュッと水鉄砲の如く鮮血と共に勢いよく飛び出すのだった。こうして背中の蠢く瘤もろとも喰われていくのだが、その一つが内臓と共にはじけ飛んで私の足元に転がった。私はその瘤の正体を見てしまった。そいつは巨大な、肥大した二フィート程のナメクジの様な生き物だった。ただし黒くて黄の斑紋がついており、触角のようなものは見あたらず、その代わり――嗚呼――前面に、虹彩の無いサファイアの様な目をもつ、六インチ位のデスマスクの様な白く不気味な人面がついており、私を見てにやりと笑ったのだ。人々を怪物の所へいざなった化物は、私に取り付こうと飛びかかった。私はそれを払いのけ、大声で笑いながら元来た道をかけ戻った。


 あの惨劇のショックで、私は全てを思い出した。友人の本は真実を告げていたのだ。そして、あの洞窟の白骨、あれは私だ、前世の私自身だ! 私はかつて邪悪なる神々を崇拝していた。この山に籠り、あの洞窟の中で暗黒の秘儀を極めようとしたのだ。やがて彼等の低級の使いを呼び出せるようになった。そのいきさつがあの手記だ。そして遂に、偉大なる「はいよる混沌」召喚に成功し、その崇高なる知恵を授かったのだ。

 私はドゥ=ペグルの水晶球を授かり、彼の仲間の神々の一を召喚する呪文を彼の言う通り書き写していった。しかし私は彼の発する毒気に耐えられなかった。志半ばにして私は無念にも息絶えたのだった。再び地上によみがえり、全てを成しとげる事を心に誓いながら。

 そして私は蘇り、無意識にもこの山へもどって来たのだった。そして呪文を唱えた。それに応えて偉大なる神、「十二の扉の主」ノザーパ=バは、彼の作りし不毛の世界ドゥ=ペグルより、彼の穴の中の次元の一つ、ゴンキューにすみし邪神「輝ける狂人」ゾペアキを送り出したのだ。しかし呪文は未完成だ――偉大なる神々が一柱ずつ潜んでいる、残る十一の扉を開かねばならないのだ――イア! シュブ=ニグラス! 千匹の仔を孕みし森の黒山羊!

 否、私は昔はどうあれ今は善良な人間だ――しかし……イア! ニャルラトテップ! ――今私の心の中で二つの心が錯綜している……私はこの出来事を他人に知らせるべきか、そうしないべきか分からない。だからこの手記を書き、本来人の通わぬこの家に置いておく事にする。永遠にこのままか、偶然迷った人間がこの家を見つけ、この手記を手にするか、それは神のみぞ知る事である。あの化物は時が過ぎれば呪文の効力が切れ、ゴンキューに帰るだろう。しかし私はその前に事のケリをつけるつもりだ。紙を燃やし、水晶を割り――私の現世の理性が邪悪な人格に打ち勝っているうちに、これ以上世界に恐怖をふりまかぬよう、あの化物に……いあ! んぎくんんんしふ・いあ! いあ! ノザーパ=バ……この身をささげて果てるつもりである………………


(おわり)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異次元の傀儡師 豚蛇 @osada

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ