𝄚𝄚𝄚𝄂 いろんなお花を育てよう
ボロボロと泣き腫らした顔は誰にも見られたくなかったけれど、イオに話して楽になりたかった。イオはわたしの話をずーっと聞いて、
「いつか僕がなんとかしてあげる」
とそう言ったの。なのにどうして? どうしてあなたはわたしを桃色にしたいだなんて言ったの?
※ ※ ※ ※
「アノ!!」
弦の調律を間違えたような甲高い声が、鼓膜を
気付くとわたしはなにかの上にあおむけに寝そべっていた。
「おや、起きたようだよイオくん。良かったね」
「よ、良かっ——うわぁあん」
上から降って来たのはシプスの声。どうやらわたしは彼のあぐらの上に頭を乗せているようだ。この泣き声はイオだけれど、どうして泣いているのだろう。と言うか、ここは海の上ではなかったっけ?
意識の彩度が戻ってくると、体は波の揺らめきを捉え、耳は潮騒を聞いた。
「ここは?」
「ここはボクの舟の上さ」
「一人用じゃなかったかしら?」
「最初はそうだった。でもイオくんのアイディアで三人乗れるようになった」
わたしは体を起こした。
そして目を疑う。
すぐ隣に、大きな弦があったから。それはわたしの鍵盤と同様に空と海の消失点まで伸びていた。イオにしか見えないはずのものが見えている。
「ボクの舟と同じ形のものを作った。ヴァイオリンに使うための木を使って。そして彼にだけ見えている弦の上に板を通して、二つを繋いだ」
弦を中心に翼を広げるように、二つの舟が並んでいる。
「あとは左右でそれぞれ舟を漕げば、まっすぐ前に進む。舟を増築して二人以上乗れるようにすることは難しかったけれど、もう一隻まったく同じものを作るなら存外難しくはなかった。しかし舟を操縦したこともないイオくんでは、ボクのあとを追わせることは叶わない。そこで彼の弦を導きに使ったわけさ」
わたしは弦の向こうに見えるイオの顔をまっすぐ見た。心配そうな顔でこちらを見ていたが、目が合うと笑顔になった。そのままずっと見ていると、イオは気まずそうに視線を逸らした。
「さあ、真ん中の板の上に行っておくれ。このままここに居ると舟を漕げないからね」
わたしは言われるままに弦の上の板に座った。二人が漕ぐたびに前に進み、弦は旋律を奏でた。わたしはそれをおしりの下で聴いた。
「どうして二人はここに来たの?」
シプスは答えず、イオに笑顔を向けている。イオは低く唸ってからため息を吐き、言葉を零していく。
「僕らがここに居るのはアノを助けるためだよ。目的通り君を助けられてよかった」
「ありがとう。でもどうやって二人は知り合ったのかしら」
「君がシプスと話しているところを見かけた。盗み聞くつもりはなかったけれど、聞こえてしまった。どうやらアノは海を渡るように思えた。だからシプスに頼んだんだ。三人で海を渡れる舟を作ってくれって。家にあるヴァイオリン用の木を全部使っていいからって」
そんなことをしてしまって、イオは帰ったら大目玉だろう。あっ。
「イオ、あなたはこれからどうするの? 一人で戻れるの?」
「僕は君と共に行く」
「でも、この先にある街はドロボウばかりが住んでいるのよ? あなたはドロボウになりたいの? それに」
「ドロボウをやりたいわけじゃあないよ。それに、大丈夫。安心して。もう君を桃色にしたいだなんて言わない」
彼の視線はまっすぐ前を向いたままだった。
「僕が君を桃色にしたいと言ったのは、あの街に居たらそれしか方法がなかったからだ。僕はアノを不幸にしたいわけじゃあない。どうせ桃色にせざるを得ないなら自分の手でしようと思ったんだ。他の誰かにされる前に」
やおら彼は振り向き、放たれた視線がわたしを穿った。
「でもそれは視野の狭い考え方だった。アノと一緒に別の街へ行けば、きっと生き方を変えられると思った。色彩に左右されないで、生きていけると。そりゃああの街で安穏と暮らしていく方が楽だよ。けれど、傍に君が居ないのなら、それは意味のない安らぎだよ」
イオは、あの街に居る方が多分幸せだった。危険な海を渡る必要もないし、したくもないドロボウをする必要もない。けれどそれでも彼は、わたしと居ることを選んでくれた。
そっか。イオはわたしの悲しみを理解してなかったわけじゃあないんだ。ただ他に方法を見つけられなかっただけ。
わたしは空を仰いだ。もう空の透明度はぐっと落ちていた。青白く濁っている。海と空の消失点は、
「あ、それとね」
彼が言葉を渡そうと浅い呼吸をしたとき、その瞳にヴァイオレットが入り込んだ。赤と青が入り混じった色。彼はこんなにもきれいな瞳をしているのだと、生まれて初めて知った。これほど近くに居たというのに。
わたしは見惚れたまま息をするのも忘れて、彼の次の言葉を待った。
「ドロボウの街を出ると、その先には花の街があるんだ。僕はそこに行きたいな。二人で一緒に花を育てようよ」
「え? そんな街があるの?」
「そうだよ。アノはドロボウのままが良かったかい?」
「そんなことない! わたしだってお花を育てたいわ。シプスが言ってくれなかったものだから」
「おや。君はドロボウにだってなると言っていたから、それでいいのかと思っていたよ」
「意地悪っ!」
わたしがスタッカートで切り裂いたのに、シプスは変わらずへらへらしていた。
三人で話していると、いよいよ空は赤に覆われ、透明な時間は終わりを告げた。やっぱりまた赤になる。
さらに太陽は昇りながら空を青くかき混ぜていく。
街からは離れたけれど、わたしはいまだに赤い。そしてイオも白い。
ドロボウの街に入ったら色はどうなるのだろう。このままかもしれないし、青に戻るかもしれない。二人の色が逆転したりして。もしかしたら透明になるかも。そうしたらどうしよう。二人、透明になって、シプスはわたしたちを見失って。わたしたち同士もわからなくなって。
そのときは、手を繋ごう。二人とも透明なら怖くない。どちらかがどちらかの色に侵されないで生きていける。そうしてそのままドロボウの街を誰にも見つからないままに抜けて、花の街へ行く。そこでわたしたちは同じ花の上に寝そべって、同じ花の色に染まって、笑い合って。
「いろんなお花を育てようね」
「ああ。もちろん」
「そしたらドロボウさんに盗ませてあげよう」
「いいね、それ」
わたしたちの会話を聞いてシプスが楽しげに笑った。
気付けば街が見えていた。
弦は浜辺に突き刺さっている。いつの間にかわたしの鍵盤は消えていた。
舟が浜辺に着岸。わたしは立ち上がった。
——ギュンッ。
弦を
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★137 エッセイ・ノンフィクション 連載中 50話
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