ピアノを渡る

𝄚𝄚𝄁𝄚 音符が這い上がってくる

　青空の下、踏み出した一音目は甲高い『ド』の音だった。

　それはわたしの声だった。自由を求めて吐き出した全身全霊の音階（生命）。

　海の波が一瞬だけ止まり、足から波紋が広がるように白く波が立った。しかし濁った波の音は聞こえない。わたしのピアノがあまりにも透明だったから。

　鍵盤が沈み込む前にさらに一歩を踏み出す。スキップをするように、ステップを踏むように、一定のリズムを刻んで一陣のワルツになった。

　軽快な音が鳴り響いていく。

　これほどまでにさわやかなものを、今までわたしは恐れていたのだ。

　お母さんのケガが。お父さんの言葉が。イオの指先が。鎖になってわたしをこの街に繋ぎとめていた。でももう今はなにも怖くない。走り続けていれば、音色を響き渡らせていれば、鎖はクッキーみたいにグスグスと簡単に壊れた。わたしは辿り着ける。ここではないどこかへ。

　それから、いったいどれだけ走っただろう。相も変わらず鍵盤は透明な音を飛ばすけれど、空はすっかり茜色に染まっていた。辺りは変わらず一面海だけれど、街は見えなくなっていた。

　どこまで走っても対岸は見えない。されど空色は変わり、帰り道は消えた。

　夜のとばりが落とされたころ、ついにわたしは転んだ。

　無様な和音が鳴り響く。

　海に落ちなかったことは不幸中の幸いだ。早く体を起こさなければ。

　しかし足は震えて言うことを聞いてくれない。疲労の限界を知らせている。そうこうしている間に鍵盤はみるみる沈んでいく。

「お……きな、きゃ」

　力を振り絞るために出した声も、自分の声とは思えないほどに掠れていて、驚くほど他人事みたいに「もうダメなんだな」と思った。

　ああ、音符が這い上がってくる。

※　　※　　※　　※

　わたしが赤になって数日が過ぎたころ、お父さんが部屋にやって来た。

　昼間のことだったのでわたしは不思議がった。いつもなら、仕事に出ている時間だったから。

　ベッドに座っていたわたしの横にお父さんが座り、やさしげなまなざしを向けてくる。

「アノ。赤になるってことは悪いことばかりではないんだ」

　そう言ってお父さんは、掌をわたしの上にそっと置いた。すぐにわたしは手を引いた。

「やめて！」

　お父さんは少しキョトンとしてから、落ち着き払った声で笑う。

「こんなことで桃色にはならないよ」

　嘘だ。

　白色の人に手を握られて桃色になってしまった人を知っている。彼女はそれが嫌で嫌でたまらなくて、弦の上を渡って海に落ち、音符に食べられて死んでしまった。そう、イオのお姉さんだ。

　わたしがイオの手を握れたのは、彼がまだ青いからだ。青は赤を紫にすることはできない。

　ベッドから立とうとするが、お父さんの両腕に抱きすくめられ、ベッドに押し倒された。両腕をしっかりと押さえつけられる。

「お父さん！　やめて！　どうしてこんなことするの！？」

　お父さんは変わらず笑顔のままだ。お母さんに笑いかけるときと変わらない。ご飯を食べるときと変わらない。いつもと変わらないあの笑顔。

「アノ。お前は勘違いをしているんだ。赤になると言うことは素晴らしいことなんだ。今までちゃんと生きてきた証なんだ。お前はありもしない不幸を恐れてしまっているだけだ。お前は幸せなんだよ。それをわからせてあげなければいけない。これは親の役目なんだ」

「親ならお母さんでもいいじゃない！」

　わたしがそう叫んだ瞬間、ドアの方で床が軋む音がした。

　咄嗟にそちらに目を向けると、薄くドアが開かれていた。誰かいる。目を凝らすと、向こう側の目と交わった。

　見開かれた目は、それでもやさしく垂れていて、見紛（みまが）うことが許されないほどに見覚えがあった。

「お母さん！」

　ビクッとその目が震えた。ややあって、しかし彼女が扉を開けることはなく、足音は遠ざかっていった。

　——お母さん！　助けて！

※　　※　　※　　※

「カハッ！　ゴホゴホゴホッ！」

　わたしは咽返（むせかえ）り、反射的に体を回転させた。

　転げた先に取っ掛かりを見つけ、無我夢中でその取っ掛かりの上に自分の体を乗せた。

　わたしが乗った場所は黒鍵（こっけん）の上だった。

　膝を突きながら立ち上がり、腕や足を振って、体に付着した音符らしきものを払った。暗くてよく見えなかったけれど、音符に違いない。

　口の中に鋭い痛みと血の味を感じて、吐き出すとそこにも音符らしきものが混ざっていた。

　中にもまだ残っているかもしれない。

　そう思って口の中に指を突っ込み、音符と思われるものをすべて掻き出した。

　危なかった。

　思い出したくもない記憶だったけれど、あれのおかげでギリギリ起きることができた。

　これほど時間を費やしたけれど、黒鍵はまだ海に沈んではいない。同じ鍵盤だけれど、白（はっ）鍵（けん）に比べて沈むのが遅いらしい。

　黒鍵は飛び飛びなうえに幅が狭いので、走りにくいと思って使わなかったけれど、こうして体力がなくなって休んだりするにはいいかなと思った。

　わたしは改めて、海と星空の消失点に向かって踏み出した。

　その一音目でわたしはびっくりして足を上げた。鍵盤を踏んだときの音色が変わっていたのだ。よくよく見てみるが、そこには変わらずわたしの鍵盤があった。されど、ピアノの音色ではない。なんだろう。耳を澄ましながらもう一歩進んだ。

　ああ、これは、オルガンだ。

　なぜだろう。一度黒鍵を踏んだからか、転んだからか、気を失ったからか、夜になったからか。理由はわからないけれど、とにかく音色が変わった。

　不安な気持ちになった。オルガンは弾いたことがないから。その音を踏み続けることにためらいがあった。けれど前に進むためには奏でるしかない。

　それに、こんな変化でいちいち驚いているようではいけない。わたしが辿り着く先がシプスの言っていた街なら、ドロボウにだってなる覚悟が必要だ。それはもはや音楽家ですらない。楽器が違うだけで動揺しているようではドロボウも務まらないだろう。オルガンだろうがエレクトーンだろうが、なんだって弾いて見せる。

　わたしは気を取り直してまた歩みを進めた。

　空が青いときには見えない星。それらの小さな明かりが闇に染み込んだおかげで、黒鍵の段差と波の模様がわかるくらいにはなった。

　歩きながらずーっと夜空を見ていたら、これが本当の空なのだということに気付いた。だってこれほどきれいな星々がずっと在るのに、朝昼夕の空ではそれが見えない。それほど空が濁っているということだ。青く澄み渡っているのではなくて、青く濁っているのだ。空も海も変わりなかった。

　今、この空は黒色なんじゃない。透明なのだ。

　わたしにも青の時代があって、空と海とおそろいで、それが誇らしかった。赤になったとき真っ先に思い浮かんだのは血。そして夕日。血が出るときは痛いし、夕日を見ると焦る。今日が終わってしまうから。赤は嫌いだ。赤になった自分も。

　けれど今、夜を渡りながらに思うのは、夕方のあの赤は通過点に過ぎなかったということ。透明になるための。

　もしもわたしが白を拒絶し続けて歳を取ったら、この空のように透明になれるだろうか。

　ふと自分の掌を見る。

　暗くて見えない。自分が赤であることがわからない。

　これは、つまり透明になったということだろうか。いやそんなバカな。それはない。けれどもそうじゃないって言い切れない。今は。夜の内は。否定の証に明かりが当たらないから。

　闇夜は赤にも青にも平等だ。

　わたしはまた倒れそうになり、慌てて黒鍵へ逃げた。

　黒鍵の緩やか（アダージョ）な降下が、安楽椅子に深く腰掛けたときの感覚に似ていて、そのまま意識を手放しそうになる。いや、もうすでに、手放していた。あ、ダメ、こっち側に倒れたら、海……。