ピアノを渡る

𝄚𝄀𝄚𝄚 二人とも青かったのにね

　わたしが赤になった日、お母さんはやさしく頭を撫でてくれた。それがとてもつらかった。なぜならそれは、受け入れなさいと言われているようだったから。

　視線を落とすとお母さんのスカートの裾からちらりと脹脛が見えた。抉れていた。握り拳一個分くらい。お母さんも昔、ピアノを渡ろうとして失敗した。つまりお母さんも運命を憂いたのだ。そんな人ですら、受け入れろと言う。

　当時のことをお父さんは悔いていた。

「俺がちゃんと止めてさえいれば」

　わたしはそのときまだ幼かったけれど、ハッキリとした戦慄を覚えた。お父さんは、お母さんが渡れなかったことを悔しがっているのではなくて、渡ろうとしたその決断を挫けなかったことを悔しがっているのだとわかったから。

　お父さんの言葉を聞いたときのお母さんの顔は、とても複雑だったけれど、あえて一言で表すなら『曇り空』が最適解だったように思う。

　わたしは海に行くことが多かったけれど、赤になってからさらに数が増した気がする。海が青いから求めているのだろうか。

　わたしが海岸沿いのベンチに座っていると、いつも隣にイオが座った。

「おはよう。アノ」

　たとえ朝でなくても、彼はそう言った。

　わたしはぼうっと海を眺めながら、どうでもいいことを話したり、深刻なことを話したりした。

「青のままでいたかったな」

　わたしがそう言うと、イオは困ったような顔になって視線を落とした。それからたっぷりと時間を取ってから言葉を吐き出す。

「そうだね」

　そのたった一言が救いだった。イオだけは、仕方ないと言わなかった。

「実は僕も怖い。白くなってしまうのが」

　不安げなその声が、なによりもわたしを落ち着かせた。

「はじめは、二人とも青かったのにね」

　二人だけではない。お父さんもお母さんも、街のみんなも青かったはずだ。

　自分の色が変わることを当然のことだと言っている人は、いずれ老いて死ぬのが怖くないと言っているように見えた。

「ねえ、この街を出て行かない？」

　わたしがそう言うと、彼は驚いた顔で固まった。

「街を出るって、この海を渡るってこと？」

「そう」

「無理だよ。いくらなんでも」

「そうかな」

「危ないよ」

「そうだね」

　イオは正しい。生きるためには、渡らない方がいいに決まっている。

「ところで、イオにはこの海の上になにが見えているの？」

　イオは海上に一度目をやって、それからこちらに向き直る。

「弦さ」

「ヴァイオリニストだもんね」

「ああ。アノの目には鍵盤でも映っているのかな」

「そうだよ」

「ピアニストだもんね。鍵盤なら弦より渡りやすそうだし、行けるかもって思ってしまうよね」

　彼は悲しそうに笑った。

「でも、危ないことはやめてね。姉さんと同じ目に遭ってほしくないんだ」

　わたしはハッとして、彼の手をギュッと握った。

「ごめん」

「痛いよ」

　彼は眉根を寄せながら笑った。

「……ごめん」

※　　※　　※　　※

　海に変なものが流れ着いた。

　始まりはそんな言葉だったと思う。次いで、見知らぬ者が街を歩いている。という情報が入り、街はにわかに色めき立った。

　異邦人。

　そんなフレーズが現れたときには、街の人々は扉に鍵を掛け、カーテンを閉め、二階の窓からチラチラと外を窺うようになってしまった。

　突然現れた珍客に、わたしは興味のすべてを持っていかれた。

　だって異邦人だ。この街の外にも世界があるっていう証拠そのものだ。彼と話してたくさんのことを聞きたかった。しかし、得体のしれないものに対しての恐れはわたしにだってある。恐怖と興味が天秤の右と左で揺れ動いて定まってくれない。

　気が付けばわたしは浜辺を歩いていた。海に流れ着いたという変なものを探していた。異邦人に直接話を聞くのは怖いけど、異邦人となにかしら接点を持ちたい。恐怖と興味の最大公約数を求めて辿り着いたのが変なもの探しだった。

　その変なものはすぐに見つかった。それは木の塊だった。木の板を繋ぎ合わせて作られた細長いお椀のようなもの。それが海の上にプカプカと浮いている。

　これは、なに？

「ボクの舟になにか用かい？」

　背中に氷水を浴びせられた。そう錯覚するほどにその声は突然だった。

　わたしは咄嗟に走り逃げようとしたけれど。自分で自分の足に躓いて転んでしまった。

「大丈夫かい？」

　目の前に大きな掌が差し出された。

　大人。紛（まご）うことなき大人の男性。けど、白くない。そして青くもない。

　穏やかな声。柔和（にゅうわ）な笑顔。身を案じてくれて差し伸べてくれた手。それらが安心感を作ってくれたからか、わたしは疑いもなくその手を取って立ち上がった。

　もしかしたら、白くないという事実だけでも、わたしはその手を掴んでいたかもしれない。色彩に囚われない彼に触れたなら、この赤も抜け落ちてくれるかもしれないと思った。

「海に、変なものが流れ着いているって聞いたから」

　わたしは太腿の汗の上にこびりついた砂を払いながら言った。

「変なものって失礼だなあ」

　彼は笑った。

「これは舟だよ。ボクの舟」

「あなたの。えっと」

「ボクはシプス。君は？」

「アノ」

「アノ。よろしく。この街に来て初めて話した記念すべき一人目だ。そして最後の人にもなるかもしれない一人だ」

　彼の声が落ち込んでいく。

「この街の人々は遠巻きにボクを見るだけで、こちらから話しかけても逃げて行ってしまうから。もう帰ろうかと思ってここに戻って来たんだ」

「帰るって、どこへ、どうやって？」

「この海の向こう側へ。この舟に乗って」

　彼の言葉に打たれ、わたしの心臓は止まってしまった。

「これに乗ってボクはやってきた」

　鼓動は徐々にリズムを取り戻していき、いつものテンポを通り過ぎる。アレグレット（やや快速）からプレスティッシモ（極めて速く）。自分の指先が知らない速度で、鼓膜の内側でどくどくと鳴った。

「わたしもそれに乗せて。連れて行って」

「どこに？」

「ここじゃないどこかに」

「ボクがここに来る前に居たところは、住んでいる人全員がドロボウの街だったけれどそれでもいいの？」

「ええ。その街に行ってドロボウになる。きっと上手くやって見せるわ」

「君はせっかく音楽家なのに、旋律を奏でないで人から物を奪うのかい？」

「そう言う生き方も悪くないと思えるほどに、今が辛いの」

「そうかい」

　彼はうーん、と首をひねって、それから深々と息を吐き出した。

「でもダメだ」

「どうして！？」

「ご覧の通り、この舟は一人で乗るのが限界だからね。君に貸し出してもいいけれど、旅慣れたボクですら前の街からここまで３日掛かった。不慣れな君が乗ったら辿り着けるかどうかもわからない」

　わたしは構わず舟に乗った。

「ああ、君」

　しかし、すぐに舟はぐらぐらと揺れ出して、わたしはその上で立つことが叶わず、放り出されるようにして砂浜に舞い戻った。

「君がここに居たくないのなら、どこかに行くべきなのだろう。けれどもそれはボクの舟ではないようだ。もっと別の方法を探すべきだ」

　誰かの手段では海の向こう側へいけないことがわかった。なら、やっぱりわたしは鍵盤を使うしかない。

　行こう。ここではないどこかに。わたしの鍵盤を使って。フォルティッシモに。