ピアノを渡る

詩一

𝄞𝄚𝄚𝄚 大きな一歩を踏み出した

 音符が漂う海の上には、白と黒の鍵盤が並んでいた。

 透明な青と濁った青が交わる線まで、鍵盤は続いている。この上を走って行ったら、どこに辿り着けるのだろう。

 わたしは自分がまだ青かったときからずっとそう思っていて、赤くなった今でもその思いは変わらなかった。

 いや、むしろ大きくなってさえいる。幼いころから一緒だったイオ。その、信じていた人が、白くなってしまったから。


 大きく深呼吸をして、砂浜へと降りた。やわらかくきめの細かい白い砂が指と指の間を滑りぬけていく。太陽が染み込んだ砂は温かかった。


 鍵盤を前にもう一度深呼吸。足を掛ける。

 わたしがゆっくりと体重を預けると、足の三倍ほどの幅を持つ鍵盤は、ゆっくりゆっくり沈み込んだ。先端からぬるりと海水が流れ込む。水の中にはたくさんの音符があった。ハンモックの上で眠るみたいに、ゆらゆらと揺れている。こうして見ている分には、なにも怖くない。けれど、しばらく足を海水に付けていると、水の中の音符たちがふよふよと泳ぎ始め、足の近くに寄って来た。

 わたしは慌てて体重を砂浜に戻した。すると、鍵盤はまたゆっくりと上がり、水はちゃぷんという清涼な和音を立てて海へと戻っていった。鍵盤の上には音符もなく元通りだ。


 さて。

 今ならまだ引き返すこともできる。まだ誰にもなにも告げていないから。いつも通りの生活に戻れる。けれど、わたしが赤くなったことも、イオが白くなったことも、覆せない。それに、彼はあろうことか、わたしを桃色にしようと企んでいるのだ。

 お父さんもお母さんも仕方のないことだと言っていた。むしろそうあるべきだ、イオに感謝すべきだ、と。

 でもそんなのは嫌だ。わたしは青のままでいたかった。それが叶わないなら、せめて赤を貫きたかった。そんなわたしの気持ちを知っていながらに、イオは桃色にしたいらしいのだ。


 はじめは、わたしも仕方ないと思っていた。この街に居る以上運命を拒むことは困難で、街を出たくてもここ以外に生きていける場所が在るのかわからないから出ることもできない。けれども在った。それが証明された。


 異邦人。

 シプスと名乗るその人はボウケンシャで、海の向こう側からやってきたのだと言った。

 海の向こうに世界がある。

 ピアノを渡るための勇気は、それだけで充分に得られた。


「ピアノを渡る」


 口に出してみる。できそうな気がする。

 わたしはうしろにさがり、助走をつけ、大きな一歩を踏み出した。

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