第33話 憐情と斧
――信用金庫の支店を後にして外に出ると、珍しく雪がちらついていた。松並木のある通りを行きかう車が寒そうに、湯気を含んだ煙を上げる。
寝ぐせ姿の
無職の身なのでローンが組めるか不安だったが、亡父の親友が信用金庫の支店長だったのは運がよかったのかもしれない。生家の土地を担保に差し出すことを条件に、何とか資金調達に成功した。
マンションの買い手が見つかったら、売却資金の一部を生家のリフォームに回すことにし、母の介護に向けた環境を整えることにしている。アパート収入の一部は
信用金庫の窓越しに、株価を表示する電光掲示板がみえた。日経平均株価は上昇の一途をたどり、3万円の大台乗せは時間の問題だった。11月の米大統領選の頃、現物と先物それぞれでショートを全力で振った人間がいたとしたら、再起不能になりそうなぐらいの含み損を抱えることになったに違いない。
その方が、現世への未練が消え去るような気もしなくもない。自分のこれからのことについて、現一はまだ考えあぐねていた。
会社をクビになった後、貯金を切り崩して生活していたが、いい加減、収入の口を真剣に探さなければならない。米原に暮らす呼高にははっきりとは言っていないが、薄々、兄が会社を辞めたという事実に気付き始めているようだった。
母は幸いにも退院できた。生家で暮らし、デイサービスを利用している。付き沿う人間は
路線バスで私鉄の特急停車駅まで向かう。駅周辺は再開発が進んでいた。大学生の頃の猥雑な感じが一掃され、居酒屋の姿はすぐには見つからない。そもそも、酒類の提供を自粛するよう、自治体が要請するような時世である。
現一の生家に向かうには、別の路線バスに乗り換える必要がある。酒屋で日本酒を購入し、母が帰宅するまでの間、家で一杯をやろうと現一は考えたが、工事中の駅からスーパーまではやや距離があり、歩くのが億劫だった。それよりも
境川は、高校生の現一にとって、劣等感の象徴だった。今の自分には、川を挟んだ2つの領域の差異は、ほんのわずかなものにしか見えてこない。呼高のように、ずっとこの街で暮らしていたら、こんな視座を手に入れることはできなかったはずだ、と思う。
さきほどまでモーター音をけたたましく響かせていた赤い電車が速度を落とし、急行停車駅に着く。扉が開く。車内に流れる空気は、何度呼吸をしてみても、自分の生家の周辺とほとんど変わりがなかった。
現一は改札口を出て、スーパーの酒屋コーナーに向かった。平日の正午を回ったばかりで客は少なく、学生アルバイトが退屈そうに商品の陳列をしている。
熱燗が飲みたいと思い、日本酒が並ぶ一角に足を運ぶと。見覚えのある銘柄が陳列されていた。緑色の瓶に白いラベルが張られ、「
〈降る雪は あはにな降りそ 吉隠の
雪が降っている。でもそんなたくさん降らないでくれ。吉隠という名の集落にある、猪養の岡。きっとそこは寒いだろうから。
万葉集のファンが解説する。猪養の岡には、
万葉集だけではない。写真愛好家のサイトも吉隠の集落を取り上げている。吉隠には美しい棚田がある。古都の表情を残し続けてきた写真家の
経済の世界にいた現一にとって、生産性がいかにも低そうな棚田がなぜ現存できるのか、興味が湧いてくる。しかも農業の担い手が少ない日本である。何もやることのない現一は酒屋を離れ、エスカレーター近くのベンチに腰を掛けて、検索を続けた。
全国の棚田には、もちろん農家が管理をしているところもあるが、「棚田オーナー制度」を取り入れているところもあるようだ。日本では農地の転売に厳しい規制が掛かっている。棚田の所有者が、農作業にかかる費用の一部を負担してくれる人間を疑似的なオーナーとし、収穫したコメの一部を分配する形をとることで、棚田の存続につなげようとしているのだ。収穫量の多寡にかかわらず、一定の収入を受け取る仕組み。
金融市場で言うところの、オプション取引と類似していると現一は即座に感じた。オプションの売り手は棚田の所有者で、買い手は疑似オーナーとなる。世界で初めて先物取引が誕生したのは大阪の米取引だ。しかし現一は、このような形でのコメのオプション取引があるのを知らなかった。
知らないことを知った悦びを感じるとすぐに空しくなり、現一の口からため息が漏れる。能力不足とみなされて相場の世界から退場を余儀なくされた自分が、同じ世界に復帰するのは、簡単な話ではない。
でも、と現一は思う。自分という原資産は、消えてなくなるわけでなく、まだここに残っている。自分は原資産を抱えたまま、現実と向き合わなければならない。
現一はそれまでの情けない、浅薄で罪に汚れた自分を背負って立ち上がった。酒屋で常温のミネラルウォーターを購入し、喉を潤してから、改札口へと向かうことにした。
雪は強まっている。聖堂に立ち込めた煙が舞うような白い世界でペデストリアンデッキを歩いていると、小型のビデオカメラを手にした男性に声を掛けられた。薄手のウインドブレーカーを羽織る姿は、見るだけで寒そうだった。
「あの、すみません。ケーブルテレビのものなんですけど、街頭インタビューをやっていまして、少しお時間よろしいでしょうか」
20代前半ぐらいに見え、無精髭を蓄えているが、真水のような澄んだ瞳をした男だった。皮膚は浅黒く、睡眠時間を削って仕事をしているのが伝わってくる。
「寒いでしょう、こんな格好だけど大丈夫? 質問は? コロナのこと?」
「いえ、コロナじゃないんです」
男は畳んだルーズリーフを震える手で広げている。そこに質問事項が記されている。
「まだ新入社員?」
「はい、1年目です。すみません、よろしいですか? 放送できるか、お約束はできないんですけど」
男は鼻をすすってから、カメラを回し始めた。
「私ども、中部公正ケーブルテレビは今年3月末をもって閉局することになりました。経営陣が長年、債務隠しという不正経理を続けてきたことが発覚し、その後コロナ禍で広告収入も大幅に減少し、債務超過に陥りました。30人いた従業員は全員、解雇されます。こういう事実をあなたはどう思いますか。率直にお話ください。では、どうぞ」
質問の内容は現一の想定の範囲を大きく超えていた。
「その、詳しくは知らないけど、会社は株式会社なの?」
「はい」
「中部公正ケーブルテレビっていうのは、社名?」
「そうです」
「スマホで調べながら答えても大丈夫?」
男はそのほうがリアリティがあると思い、現一の要求を呑んで、雪に降られることにした。現一は指を息で温めた。
中部公正ケーブルテレビは非上場会社だが、財務諸表をホームページで開示していた。株主には、県内でも有名な上場企業が何社か入っていて、しっかりと配当金を支払っている。持ち株比率の最も高い企業の役員が、ケーブルテレビの取締役を兼務している。
ケーブルテレビ側が増資をして、既存の株主が引き受けさえすれば、債務超過は解消するようにみえる。が、そうはいかない事情があると現一は推察した。
「100%減資」を行って、累積債務を解消するとともに、株主にも責任をとってもらう、という選択肢もある。その場合は、スポンサー企業を募ることになるが、どこの馬の骨とも知れぬ会社がケーブルテレビの経営に入ってくることに、地元の政財界が合意するのは難しい。
増資による事業存続よりも、会社の清算を選択する理由はなにか。ケーブルテレビ側の損益計算書を前年度、前々年度とみて比べると、前年度に売掛金が大きく膨らんでいる。売上規模からいって、不自然な増え方だった。
「不正経理があったのって、前年度まで?」
「いえ、発覚したのはもっと前です」
「なるほど。ケーブルテレビって、コンテンツ次第では、成長の余地はあるんだよね。YouTubeに自社のコンテンツを配信して人気化させて、広告収入を得るところがあるぐらいだから。価格次第では、有望な投資先になるポテンシャルがあるんだと思う」
「よくご存知ですね」
「仕事仲間から昔、聞いたことがあるんだ。ざっと見た感じだと、君の会社はまだ不正経理をやっているかもしれないね。株主が増資を引き受けず、清算を黙認することになったのは、既存株主との取引でやましいものがあるのかもしれないね。監査法人はどこだろう。ああ、ここか。この地域では著名なところだよね。こりゃ、問題があっても突っつけないよね。スポンサーになってくれそうなところ、あるかなあ。スポンサーをみつけて、100%減資とか強行できたら、面白いことになりそうだけどなあ。今となっては紹介できないからなあ」
男はカメラを手にしたまま、きょとんとした目を現一の方に向けていた。
「失礼ですが、どのようなお仕事をされているんですか?」
現一は我に返った。
「無職です。4月からの君と一緒だよ。それまでは金融の世界にいたんだけど」
「紹介、とおっしゃったのは?」
「3月末で事業終了って決まっているんでしょう。間に合わないよ」
男はまだ現一の目を見ている。黙ったままだ。
「そんな、たいしたことはできないよ。金融といっても株屋だし、最近クビになったんだ」
「クビになってどうするんですか?」
「え?」
「証券業界の方なら、色んな人の名刺を持っているんじゃないですか?」
確かに、仕事用のスマートフォンはなくても、名刺ファイルは何冊か、残ってはいる。
「その、期待はずれになると思うよ」
男はビデオカメラを下ろし、録画を中止してから、頭を下げた。
「ダメもとでいいですから。部長に会ってください。私はこの仕事が好きなんです。まだ辞めたくないんです」
そう言うと、男は慌ててジャンパーのポケットからカードホルダーを取り出し、自分の名刺を現一に渡した。瞳は鏡のようだった。
現一は困惑しながら、名刺を受け取った。
金融業界で知り合った人間の名刺は、一番新しくてもコロナ禍の前に交換したものだった。ほとんどが古い。人材流動性の高い業界で、名刺に記された人間が同じ職場で働き続けている保証はない。直通番号だろうが、代表番号だろうが、掛ける先がどちらであっても。会社の名前と肩書を失った自分を相手にする人間など、皆無かもしれない。
男はまだ頭を下げたままだ。
「そんなに切羽つまった状況なのか」
顔を上げた男の目は、真っ赤に腫れていた。空振りでもいいから、どうか会ってください、とその目は訴え続ける。彼なりの、保険的な行為に過ぎないかもしれない。保険的な行為にここまで熱心になれるのなら、素晴らしくもある。
雪が吹き付けている。どうしようもなかった。営業現場にいた若い頃の自分が、そこにいた。
「……分かったよ。仕事なくなると大変だもんな」
「ほ、本当ですか? ありがとうございます! 部長も私と同じ気持ちです。絶対に時間を作ると思います!」
男は再び、深くお辞儀をし、かすれた声で、ありがとうございます、と繰り返している。
現一は、男の肩に積もった雪を手でそっと払おうと思ったが、意に反して、その手は肩のうえにとどまった。男の苦痛を和らげてあげられればいいのに、と憐れむ自分に驚きながら、電話を何度も切られ、繋がったとしてもあんた誰だよ、と言われ続けるのを覚悟して、ひと肌脱ぐことを決意した。自分の斧は、まだ手元に残っているのだ。そう信じるしかなかった。
(了)
聖水を浴びたい フョードル・ネフスキー @DaikiSoike
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます