第32話 気が付けば寂しい

「はい、ゆっくりブレーキかけて、そうそう。あれ、クラッチ踏んでる? おっと、ああ、またエンストしちゃった」

「すみません」

「こればかりは慣れですからね」


 2月の震えあがるような寒空の下、紗季さきは青いアウディのセダンのハンドルを手に、自動車教習所の実技講習を受けている。


 オートマ限定の免許では、就職活動の選択肢が狭いままだと考えたのだ。40を超え、キャリアに空白期間のある専業主婦が就ける仕事は限られている。病院事務を経験したのは大昔だし、少しでも収入の多い職業は何かと考えた時、物流業界が頭に浮かんだ。相模原の実家の周辺には、運輸系の会社も多い。


 小学校受験に見事合格したたかしは、祖父母と紗季からの祝福を大いに受け、4人で中華街に向かい、上海料理のコースを平らげた。学習塾からは合格した際に、お祝いとして子ども向けミュージカルの観劇チケットが支給されるはずだったが、コロナ禍における行政指導を背景にミュージカルの上演は無期限の延期となってしまった。


 代わりに旅行券と、観劇するはずだった演目のDVDを送りたいと学習塾から紗季の携帯電話に連絡があり、相模原の実家に送られたのである。旅行券は紗季の机の引き出しにすぐに収納されることとなったが、DVDは祖父母と紗季と隆の4人で早速、鑑賞することにした。


 演目は奇しくも「ヘルメースときこり」だ。30分の作品には様々な脚色が施されており、原作とは大きくかけ離れた内容だった。


 純朴なきこりの生活、尊敬する父の形見としての斧、池に現れたヘルメース、金の斧と銀の斧を受け取ってもなお無欲であろうとするきこりが受けた祝福。強欲な隣のきこり。池のほとりで受けた罰。


 しかし子ども向けの作品である。


 強欲なきこりは回心し、池に生える葦で家財道具を作って販売したカネで、新しい斧を買い、死ぬまでそれを大切に扱い、子どもに譲る。子どもは父の斧を愛し、磨き続けて仕事をする。その斧を池に落とし、再びヘルメースが現れる。その時の答えはもちろん、どちらも私の斧ではありません、というもので、正直に答えたきこりに水神は再び幸運を与えることにした──。


 物語の世界に没入する隆の横顔をみて、紗季はなぜか、肩の力がすっと抜けるような心地を覚えたのであった。


 観劇後、隆に感想を聞くと、僕も正直になる、と高らかに宣言した。そして思い出したように、隆は続けた。


「ママ、ジョニー池にもヘルメースっているのかな?」

「どうだろうね。いるんだと信じる人には現れるかもね」

「来られる人をヘルメースが選んでいるのかな?」

「来られる人?」

「良い人間じゃないと、たどり着けないんだったら、ヘルメースの仕業だと思うんだけど、僕はまだ選ばれていないよ。もっと良い子にならないとダメなのかな」

「じゅうぶん良い子だけど、まだその時になっていないのよ、きっと」

「いつ来るの?」


 紗季は現一の住処の近くに足を運ぶことに、まだ抵抗を感じていた。


「もう少し先かな。でもね、ヘルメースはきっと色んな湖にもいるのよ。近くだと宮ケ瀬湖にも、丹沢湖にも、相模湖にもね。車じゃないといけないところばかりだけど」

「おじいちゃんの運転、危ないから嫌だ」


 免許の返納を考えていた紗季の父は困惑の表情を浮かべる。


「なら、私が運転しようか」

「ママの運転は、危なくないの?」

「今は危ないけど、危なくないようにするね」


 クラッチの原理について理解できずにいる紗季は、すでに何度も補修を受ける羽目に見舞われている。この日は一旦停止を怠り、指導教官から「見極め」の押印を受けられなかった。


 帰宅すると隆は教習の結果について訊ねてくる。次の講習に進めなかったと正直に言うと、なぜ上手くできなかったのかと、かつての自分が息子にしたような聞き方で、問い正してくる。


 きっときょうも、詰問が待ち受けているのだろうと肩を落として、送迎バスの停車場に向かって歩いていると、紗季のスマートフォンに電話が掛かってきた。紗季の母からだった。


「手紙が来たんだけど、机の上に置いておくから、ちゃんと読みなさい」


 送迎バスは渋滞に巻き込まれている。太陽はとうに沈んでいた。


 夫の現一げんいちは3カ月以内に手紙を送る約束をしっかり守った。だが、12月29日に間に合えばさらに良かった。


 二人が離れ離れのまま、紗季の誕生日で、結婚記念日でもある12月29日を過ごしたのは、初めてのことだった。


 紗季が10歳になった日、日経平均株価は史上最高値となる3万8957円44銭を付けた。生まれたその日が史上最高値ならもっと格好いいのだが、ひとまず自分は株高と縁のあるラッキーガールなのだと信じることにしていた。


 手紙を届けてくれたこと自体は有難い。が、息子に手を出す夫を許せるようになる将来など、紗季は想像できなかった。紗季が書いた手紙で、現一に求めたのは、夫婦関係を修復させることではなく、一人の人間としてやり直すための、最低限の内省作業だった。それを促すのが自分の責務であると考えていた。


 もっと大きな責務がある。チャイナ・ショックの最中に生まれた隆の人生に波乱が宿命づけられているのなら、ラッキーガールの母がしっかりしないといけない。隆のために、夫と同じぐらいの稼ぎのある男を捕まえたい。


 捕まえたいが、歳をとってしまった。いつまでも実家に世話になる訳にもいかない。シングルマザーとしての不安。収入面での不安。不安が今よりももっと大きくなる不安――。


 前方のトラックがゆっくりと発車を始めた。送迎バスの運転手は絶妙のクラッチ操作で、たった一人の乗員である紗季の身体に衝撃を与えないよう、優しく前進する。


 暗い車内に、ガソリンスタンドの照明が差し込むと、メイクを施した紗季の頬にうっすらと1本、光の筋が現れた。


 紗季は唇をかみしめながら、窓の外の世界を見つめていた。


       *

 

――氷点下まで気温が下がる早朝にジョニー池の清掃活動に向かうのは億劫だったが、一度身体を動かしてしまえば自然と気力が湧いてくるものだ。終了後の爽快感はいつもと変わらない。寒さが加わって、身が引き締まる気もしてくる。


元子もとこさん、もしよかったら、エセルルドのコーヒーでもどう?」


 タオルで首の汗をぬぐう元子にメンバーが声を掛ける。周囲を見回すと、集まったのは自分と同年代の女性ばかりで、そこには紗季も、朱音あかねもいなかった。


 紗季からはずいぶん前、事情があって別居することになったとの連絡が来て、胸を痛めた。朱音がじょに会に参加したのは、たったの一度きりであったけれども、聖地巡礼に関する最新情報をネットのどこかで拾っては、LINEでURLを送ってくれる。


 遠方から清掃活動に参加するのは、やはり大変なのかと元子は勝手に想像し、寒いし無理しなくていいのよ、と朱音にメッセージを送った。


 朱音は仕事を辞めて学習塾でアルバイトをしながら、社会人を対象にオンラインでポルトガル語を教えているのだという。


 元子はそれでも心配だった。朱音は何かを隠しているように思えてならなかったのだ。たった一回、会っただけなのに、彼女の顔がふと頭に浮かんできては、胸騒ぎがする。


 元子はその話を夫の建夫に話したところ、朱音に興味を抱き、女性の社会進出をテーマに取材活動を続ける記者と引き合わせたいと考えた。


         *


 記者から会食の誘いを受けた朱音は固辞した。気乗りがしなかっただけではない。


 朱音は新たな命を授かっていた。その命は、天使からの賜物なのか、悪魔なのか。自分の軽率な行為を恥じ、決心がついたら産婦人科に足を運ぼうと考えていた。


 自分の経済力では出産後、育て上げる自信もなかった。こんな自分を取材して、何になるのか。そんな想いもあった。


 生活費をただ稼ぐのなら、リスボンにいた時のように、身体を売ればいい。40を超えた肉体を求める男の市場規模は、それなりにあるとの肌感覚もある。


 ただ、そんな母を持つ子は、どんな想いで日々を過ごすのか。やはり、自分は子どもを産むべきではないのだろう。そういう男と、2度巡りあうシナリオが、自分がこの世に生まれる前から仕上がっていたのだ、と言い聞かせる。すると、身体の震えが止まらなくなる。


伊豆丸いずまるさん、あとは私がやっておきますから」


 教員養成大学で国語教師を目指しているという、アルバイト先の学習塾の女性講師が、教務室で泣きじゃくる朱音に優しく声を掛けた。帰路に着く途中、踏切に差し掛かった。


 遮断器が降りてきた。真っ赤な光。10秒か20秒後、あそこにいたら私は──。


 足が一歩、前に進もうとする。楽になりたい。……その時、スマートフォンの着信音が鳴った。


 朱音は我に返った。


〈旦那と喧嘩したので、話し相手が欲しいの。もし忙しくなければ、夕食でもどう?〉


 元子からのメールだった。


 この人だったら、自分の苦しみに耳を傾けてくれるのではないか──。何もかも、打ち明けてしまおう。子どものことは、それが終わったら考えよう。朱音はそう思った。


        *


「大丈夫、大丈夫。しっかりして」

「でもあたし、こんな身体だし」

「自分ですべて背負おうとするからいけないのよ、って言われても、今は受け入れられないわよね、現実を」

「……」

「霧島さんの子だったのね。世の中は本当に、罪深い人間が彷徨っているのね」

「……」

「……」

「……」

「…大丈夫、大丈夫。大丈夫だから」

「…元子さん。悪魔ですよね、あの人は?」

「? 悪魔?」

「だって、浮気した挙句、他人を孕ませて、さらに子どもを虐待して。今まだ生きているなら、私はこんな世の中、生きたくない」

「……」

「期待するんじゃなかった、この世界に」

「…朱音ちゃん。もっと、もっと言っていいのよ」

「生きたくない、生きたくない」

「うん、分かる。本当によく、分かるよ」

「生きたくない…」

「…朱音ちゃん、恥ずかしいことじゃないから、もっと泣いていいのよ。泣いたまま、いい? もしもし? あなた? 何ですか、24時間ルール上、私からじゃなくあなたから声を掛けるべきなんですけど、そんなことはどうだっていいの。朱音ちゃんがいるんだけど、今晩うちに泊めてあげてもいいかしら。うん。そういうのはすぐに気づくのね。いいんじゃないの? 養子として迎え入れるには、大人すぎるかもしれないけど。冗談よ。あ、でも朱音ちゃんが望めば、私は大賛成よ、冗談というのは撤回するわ。じゃあ準備しておいてね。ありがとう。朱音ちゃんごめんね」

「…すみません、こんなあたしに」

「こんなあたしじゃなくて、こんなに素晴らしいあなたに、よ」

「…養子、ですか?」

「私はカトリックの家だから…。いや、そうね、エセルルドのコーヒーを飲んだ時、好きだった人を、あなたは今、心の底から呪っている。彼のしたことは、決して許せないという気持ちも分かる。私ができることは、なんだろう。あなたのそばにいてあげること、あなたの幸せを祈ること。あと、あれかな。もし、あなたがね、子どもを堕ろしたとして、あなたなりに後ろめたさを意識しなければならないのなら、それでも私はそばにいるから。一回しかあったことがない人間かもしれないけど、これは本心よ」


 だから前を向いて。どんなに辛い目に遭ったとしても、人間は誰にでも、立ち直る力が備わっているの。時間が経って、振り返ったら、あんなことがあったんだと、けろっ、となるぐらい、人は誰でも強くなれる。必要以上に、自分を責めないで。相手を呪えば呪うほど、自分は苦しんでいくのだから、必要以上に不幸だと思わないようにして。


 あと、私はお店では言えなかったけど、実はね、いくら罪を犯したといっても、霧島現一さんが正しい道を歩めるよう、心のなかで祈っている。朱音ちゃんに言うと、もう会ってくれなくなっちゃいそうだから言わなかったけど。誰であっても、人間なら、定められた最善の道を歩もうとしても、いつのまにか道を踏み外すことがあるのだから。あなたが許せない気持ちは分かる。でも祈るの。


 いつか、朱音ちゃんも、自分を苦しめた人のために祈ることができるようになればいいけど、そこまで今求めたら酷だから。よほど泣きつかれたのね。ゆっくり休んで、泣きたくなったら、また泣くのよ。

                 

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