理由

魚崎 依知子

理由

 これで最後ね、と少し寂しげに妻は瓶の蓋を捻る。ぽこん、と軽い音を立てて蓋は開き、煮詰められた赤い色が見えた。りんご、なし、と来て最後は俺の苦手なやつだ。

「コケモモのジャム、苦手なんだよな」

 差し出された瓶を受け取り、簡素なラベルに書かれた文字を眺める。見慣れた、飾り気のない母の字だ。

「昔はよくカゴいっぱいに摘んで、小遣いもらってたけど」

 我が家の庭に茂っていたコケモモの実を摘むのは、小学生には割のいいバイトだった。

「食べないって言ってんのに、なんで送って来るかなあ」

 本人にも何度となく伝えた愚痴を吐きつつ、昔より多めに掬ってトーストに伸ばす。試しに瓶を妻へ向けてみたが、苦笑で頭を横に振った。妻も苦手らしい。

「そういう人だもの」

 さらりと答えてコーヒーを傾ける妻に、トーストをかじりつつ視線を向けた。

 朝イチでも抜かりなく化粧をして小綺麗な服を着て、寝ぼけた俺を迎えてくれる。結婚して五年、子供がいないことを除けば満ち足りた暮らしだ。

――二人で仲良く暮らしていけばいいじゃない。

 俺を責めず、許してくれた妻には感謝している。

「母さんのこと、苦手だよな」

「そうね。お義母さんだけじゃなくて、あの集落に住む人みんな苦手だったわ」

 てっきり頭を横に振ると思っていたのに、妻は平板な声で予想外の同意を返した。

「……どこが?」

 動揺を抑えるためにカフェオレを啜り、トーストを口へ運ぶ。今はこの癖のある味すら救いに思えた。甘酸っぱくて、後口が少し渋い。記憶より鮮やかに感じる渋みは、俺の心境とシンクロしているのだろう。

「本気で聞いてるの? 私があなたの実家に行く度、なんて言われてたか知ってるでしょ?」

「悪気はないんだよ、みんな。ど田舎は噂話がコミュニケーションだから」

 フォークで忙しなく目玉焼きを割り、口へ運ぶ。手の内が、いやな汗で湿っていく。控えめに上げた視線が、妻の冷ややかなそれと結びつく。これまで見たことのない、能面のような表情だった。

「祭りの度に、嫁は仕事休んで準備だし」

「いやなら断れば良かっただろ」

「一昨年断ったら、あなたに見合い写真を送ってきたの忘れたの?」

 それは、と続かなくなってまたジャムの瓶を掴む。さっきより多く掬って、トーストに盛り上げた。

 確かにそんなことはあった。でも写真はすぐに送り返して、母にもやめるよう頼んだ。そんな前のことを持ち出されても困る。でも言えば、もっと拗れるだろう。どうにか、なんとか機嫌を取らないと。

「食べ終わったら、買い物に行かないか。好きなものを買えば気も晴れるよ」

 少し掠れた声に咳をして、甘さにまみれたトーストを突っ込む。角は残り一つ、もうあとがない。妻は途端に黙り、焼きもしない素っ気ない食パンをかじった。

「母さんや集落の人達に問題があるのは、俺もよく分かってるよ。だから同居も拒否して、君を守ってる」

「守ってる? 自分が原因の不妊だって言わないあなたが? 私を何から守ってるの?」

 いきなり早口でまくし立てた妻に、びくりと身を引く。しまった、間違えた。

「ごめん、言葉が悪かった。黙って俺を立ててくれてるの、感謝してるよ」

 でも、いちいちこんな惨めなことを言わせなくてもいいだろう。俺だって、好きでこうなったわけじゃない。湧いた苛立ちに眉をひそめる。残された最後の角にまたジャムを盛り上げて口へ突っ込み、新聞を広げて視界を遮った。

 妻はそれでも、いつもよりゆっくりとしたペースで食べ続ける。

「家事があるんじゃないのか」

「休みの日ぐらい、ゆっくりさせてよ」

 ふてぶてしく聞こえた声に、新聞をめくった。


 なおも動かない妻への苛立ちか、しばらく経つと胸が苦しく息が荒くなってくる。頭痛も酷くなる一方だ。額を押さえて呻いた俺に、やっぱりね、と呟くような妻の声がした。

「コケモモのジャム、『私が大好きなんです』って言ったから送ってくれたのよ」

 拭い上げた額は、噴き出した汗で濡れている。手が震えて、覚束ない。息苦しさに胸を押さえようとしたら、椅子から転がり落ちてしまった。

「私、お義母さんに賭けたの」

 腰を上げた妻が、ゆっくりと近づいてくるのが見える。

「あなたの家の庭、コケモモだけじゃなくて鈴蘭も群生してるでしょ? 鈴蘭の実って、コケモモによく似てるじゃない。うっかり摘んでしまったり、一緒に混ぜてジャムにしてしまうくらいに」

 目の前でしゃがみ込み、目を細めて笑った。そうか、鈴蘭の……毒か。

「不幸な事故だから、恨まないであげて。あなたの大事なお母様だものね」

 口を開くと生温かい何かが喉を突いて溢れる。視界が揺れて、視界が。

「……どう、し、て」

「これからは、あなたを頼らず自分で自分を守っていこうと思ったの。だからちゃんと、『これで最後ね』って言ったでしょ」

 笑う妻が揺れて、霞んでいく。

 さようなら、と丁寧な挨拶のあと、黒ずんで、消えた。



                                (終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

理由 魚崎 依知子 @uosakiichiko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説