1 美津
引っ越しのトラックを見送り、江森一家の白いワンボックスカーとも別れを告げる。
「ばいばーい」
彼らの目にはもちろん、家守の姿など映らない。それでも、まるで見送りの美津が見えるかのように佳子が手を振った時には、思わず涙が込み上げる思いだった。が、残念なことに、家守は涙を持っていないらしかった。
美津は車の白が地平に消えるまで見送り、ゆっくりと家に戻って台所の床板を外した。引越しの際にも忘れ去られた場所だった。
微かな黴と湿気の臭いがする。幾つかの写真と、江森家の記録書が、変色した木箱の中から現れる。
まずは写真に一枚一枚目を通す。
家族が増える度に集合写真を撮っていたが、それも時雄の祖父
「あ……」
美津は声を漏らす。沖助の家族写真が出てきたのだ。沖助、その妻トシ。そして、孫の一郎の三人。美津が初めて守護した家族だった。
沖助達の息子は通り魔に遭って早くに亡くなったので、養子として一郎を貰ってきたのだと聞く。その時代にしては珍しく、夫婦には一人息子しかいなかったのだ。
美津は続いて、江森一家の記録書を紐解いた。記録はやはり陽一郎の代で途切れている。
大戦の騒乱で、記録どころではなくなり、やがて忘れ去られたのだろう。最後の
「どうして――」
美津はその文字を、何度も目で辿った。
【一郎
何が何だかわからない。ここに書いてあることはつまり、美津の息子がこの江森家を継いだということだ。
だが、彼女にはそんな記憶はないし、そもそも結婚した覚えもない。美津は古びた紙の束を、穴が空くほどの眼力で凝視し、やがてそれらを丁寧な手つきで元のように戻して大黒柱の元へ向かった。
今、はっきりとわかった。美津が柱に渡した一番大切だったもの、それは記憶だ。自分が何をし、何を思ったのか思い出したい。切実にそう思った。
大黒柱はいつものように、圧倒的な力を発しながら全てを受け入れるように立っていた。やがてその身が
美津が願いを持って手を触れると、温かいものが空白の身体に流れ込んできた。それは、美津が家守となる代償に引き渡した記憶。消して温かとは言えない日々の記憶だった。
※
「嫌です!」
美津は叫んでいた。
「どうしてですか。この子が
美津の腕の中には、生れ落ちたばかりの小さく愛しい命。抱く腕に力を込めて寝具から上半身だけ起こした美津の横には、まだ髪のある沖助とトシが、厳しい表情で座っている。
「――幼い頃からの許嫁とはいえ、祝言を挙げずに孕んだ子は不貞の子。佑之助が死んだ今となれば、尚更だ。そんな女に我が江森の家の敷居を跨がせることは出来ぬ」
沖助の声音からは苦しみが滲み出ていたが、激昂した美津はそれに気付かない。
「その不貞の子に江森を継がせるのですか」
「それだけで幸せだとお思い」
沖助とは対照的に、トシの声音に慈悲はない。
「不貞の子にまっとうな地位を約束しようって言うのですから」
美津は唇を噛んだ。通り魔ということにはなっているが、佑之助は謀殺されたのだと美津や江森夫妻は気付いている。
佑之助は幕府側の残党であり、明治政府の隆盛に合わせこの田舎村に逃げて畑を耕す道を選んだのだった。全ては家族の平穏のため、ひいては美津のためでもあった。
だが、そう甘くはなかった。
美津は詳しいことは知らないのだが、佑之助はその宵、旧幕府軍の仲間に呼び出されたと言っていた。本当に仲間からの誘いだったのか、それとも罠だったのかはわからないが、佑之助はその晩、美津に子を授けて約束の場所へと向かった。祝言を三日前に控えた夜だった。
引き止めようと思ったのだ。しかし、美津が目を覚ますとすでに鳥が鳴いていて、幾らもしないうちに佑之助の遺体が見つかったとの報が入ったのだった。
「嫌です……」
もう一度、呟くように言うと、抱いた赤子の頬に涙が落ちた。生まれてたった二日の赤子は、まだ見えていないだろう目を大きく開いて、母を見つめていた。
「我が儘な娘だね」
トシは容赦なく立ち上がり、まだ体力が回復しきっていない美津の腕から赤ん坊を奪った。随分と大人しい赤子で、
「お義母さま」
「誰が母だね。あたしを母と呼ぶたった一人の息子は
美津は口を閉じる。年頃になると、ずっと“義母”と呼んでいた優しいトシは姿を潜めてしまった。これが自分の運命かと、絶望に涙すら渇く。
トシは着物の袖を翻し、何も言わずに孫を抱いて去った。呆然とする美津と、沖助だけが残った。
「――名は、何とつけるつもりだった」
美津はただ首を横に振った。何も考えたくなかった。
しばらく座っていた沖助だったが、やがて美津が俯いた顔を上げた時には、すでに姿はなかった。美津はゆっくり立ち上がり、縁側から庭に出る。
裸足のまま無意識に向かったのは、幼い頃佑之助や友と駆け回り、はしたないと嗜められた河原であった。
痛みも疲れも、心に空いた穴の大きさを思えば取るに足らないものだった。美津は川の深きへ脚を進める。
――そして、流れに身を任せた。
※
大黒柱に額をつけて、美津は流れぬはずの涙を零した。記憶が蘇り、家守の力を失うと、この身が天に引き寄せられるのを感じる。川で死に、魂だけとなってこの家に来て、家守となって。
記憶がなかったとはいえ、息子の成長を見守り、この令和の世まで子孫と過ごし。生前の美津が求めていたような平凡な幸せではないけれど、そう悪い暮らしではなかった。
美津は、全てを包み込むような柱から手を離す。家への未練が断ち切れると、天の光に吸い込まれるようだった。
「美津」
聞き慣れた声に呼ばれて、美津は頷く。
「わたし、幸せでした。恨んでなんかいません。ありがとうございます――お義父さま」
「すまなかった」
沖助は呟くように言い、手を差し出す。
「――江森の末裔を温かな光が照らし続けますように」
美津は祈って腕を伸ばす。二人は手を取り合い、夕陽の中に溶けて行った。
完
江森の家守 平本りこ @hiraruko
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