2 沖助
この日は朝から引っ越し準備で大わらわだ。
何か手伝おうかと思ったのだが、あちらこちらへと動き回る人間達が、避ける間もなく美津の身体を通り抜けるので気持ち悪いことこの上ない。
いつまでも生きている人間気分は抜けないものだ。肉体があれば、何食わぬ顔で他人が身体を貫通していくなど、起こり得ない。
美津は収穫期の芋畑の横に座り込み、働く人々を眺めていた。江森の畑は転勤が決まるとすぐに売り払っていたが、隣人の手伝いで伸彦が駆り出されていたのだ。
「じぃちゃん、でっかい芋見つけた!」
「ノブ、肥溜めに気を付けろ」
走り回る伸彦がいつ肥溜めの糞尿に足を突っ込むか気を揉んで見守る美津の肩を、誰かが叩いた。美津に触れられるのは、
振り向いた美津の目に映ったのは、薄い髪を生やした老人だった。
「
「やあ、お美津。元気だったかい」
美津は戸惑いながら頷く。沖助は、美津が家守になってから十年ほどで亡くなった、当時の江森当主だった。
家守としては美津の後輩にあたるが、生前の年齢で言うならば、親子ほどに歳が違う。沖助は何年か前に、近代化についていけず家守を辞めたはずだった。とっくに成仏したと思っていた。
それに、彼には見慣れないものが生えている。
「沖助さん、その――。髪の毛はどうしたのですか?」
「おお、これか」
沖助は薄い毛を、少々無頓着に引っ張る。
「大黒柱に取り込まれていたものを還してもらったんだ」
家守になる際、家族を守護するための力をもらう代わりに、生前一番大切だった物を大黒柱に取り込まれる。辞めて家から解放される時に還してもらうのが常だった。
「じゃあ、沖助さんの一番大切だった物って――」
「そう、これ。他に大切なものと言えば家族くらいのものだが、まさか人間をあげる訳にはいかんからなぁ」
からからと笑う沖助。美津もつられて微笑んだが、不意に沖助は真顔になった。
「ところでお美津。屋敷が取り壊されると聞いたが、まさか柱と共に滅びるつもりじゃないだろうね?」
美津は言葉に詰まる。正直な所、家から離れると考えるだけで胸が抉れるように痛み、なかなか決心がつかないのである。
「馬鹿な考えはおよし。生まれ変われば何もかも忘れられるよ。この沖助と一緒に成仏しよう」
まるで、美津がこの場所から離れられないことを知っていて、今まで成仏しなかったかのような口振りだった。美津は少し考え、口を開いた。
「実はわたし、自分が何と引き換えに家守となったか覚えていないのです」
沖助がすっと目を細める。
「思い出したいかい?」
「知ってるの?」
「おそらく、想像はつく」
沖助の様子が常とは違う。いつになくしんみりとして、声音が低い。
「知りたいのなら、床下の古い記録を紐解いてみなさい」
「記録……」
沖助は頷き、改まった声で呼んだ。
「お美津や」
「はい」
「もしそれを思いだしたら、この沖助を――江森の血を――」
その時だった。
「ノブちゃん!」
隣のおばさんの悲鳴に近い声で畑に視線を戻し、ほとんど無意識に伸彦の元へ向かっていた。霊体ならば、本気になれば瞬間移動など造作ない。美津は伸彦と肥溜めの間に身体を割り込ませた。
《ノブちゃん!》
伸彦が肥溜めに向かって前のめりに倒れかかっているのを見て、深く考えず風を起こし、少年の腹を押して直立させた。転ぶと思ったのが転ばず、伸彦は巨大な芋を片手に目を白黒させている。
おばさん達が駆け寄り、伸彦を美津の――いや、肥溜めの前から引き離した。
「いやぁ、よかった。だから気を付けなさいって言ったのに」
伸彦は突然の風圧に違和感を感じたらしく、ちらちらとこちらに視線を向けたが、やがておばさんに背中を押されて芋堀りに戻った。
一方の美津は肌を粟立たせながら糞の山から脚を抜いた。誰かが脚を突っ込んだ跡は残らないし、もちろん美津の脚にも何も付いていない。
にもかかわらず、柔らかな物体に脚が包まれる感覚を覚えている。生前、肥溜めを踏んだことがあったのかも知れない。
ひとしきり顔を顰めてから、ふぅ、と息を吐き沖助を捜すが、すでにその姿はなかった。挨拶もせずに伸彦の元に飛んでしまったので申し訳ないと思うと同時に、少しくらい待っていてくれてもいいのにと恨めしくも思う。
伸彦の元気な姿を見やり、美津は遠く豆粒大に見える江森の屋敷に目を向ける。いったい、沖助は何を言い掛けたのだろうか。美津はしばらくぼんやりと田舎屋敷を眺めていたが、意を決して歩き出した。
家守を辞めるかどうかは、ひとまずおいておいて、記録とやらに目を通してみようと思った。
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