あの雪を待っている

加瀬優妃

何てことのない夕方、のはずだった

 まだ夕方の4時半だというのに、辺りは随分と暗くなっていた。

 空を見上げると、灰色の重たい雲の間を縫うようにカラスが二羽、同じ方向に急いで飛んでいくのが見えた。きっと学校の近くの噴水公園にねぐらがあるんだろうな、と思いながら校門を出る。


 すうっと冷たい風が詰襟の隙間を通っていって、思わず両肩を縮こまらせた。

 12月になるとさすがに風も冷たい。とっとと帰ろう、走れば少しは身体もあったまるか、と軽く地面を蹴った。


 部活を引退してから、もう4か月になる。さすがに身体もなまってきたなあ、と思いながら走っていると、ピトン、と冷たいものが右手に当たった。


「……あ」


 空を見上げると、暗くてよく分からないもののパラパラと雫が落ちてきている。

 雨だ。

 だけど梅雨時の雨と違ってもうすぐ氷に変わるんじゃないかと思うぐらい、冬の雨は冷たい。


 うわ、やべぇ、と思いながら前を向いたところで……目の前を歩く同じ中学校の制服を着た女子生徒に気づいた。


 その子は雨に気付き、学校指定の紺色の傘を差したものの、そのままピタリとその場で立ち止まってしまった。

 傘を開げたまま真っすぐ水平に自分の身体の前に下ろし、少し経ってからまた傘を上げる。

 傘を差してしばらくじっとしたあと、また傘を下げる。

 そんなことを、二、三回繰り返している。


 何をしているんだろう、と疑問には思ったが、このまま同じように立ち尽くしていたらずぶ濡れになってしまう。俺はさっさと彼女の横を通り過ぎることにした。


 とは言っても何となく彼女が気になり、並んだ瞬間に覗き込む。

 すると人の気配を感じた彼女もこっちを見ていて、バッチリ目が合ってしまった。


「あ」


 小さく声を上げた女の子は、ほんの一カ月前に転校してきた高橋和沙かずさだった。

 もうすぐ高校受験という時期に転校なんて大変だよな、と思ったぐらいで特に気にも留めていなかったが。ごくごく平凡な感じだったし。


「佐伯くん、濡れてるやん!」


 高橋はそう言うと、持っていた傘をさっと俺に差しかけた。

 名前を呼ばれたことと相合傘状態になったことに動揺して、少しだけドキリとして仰け反ってしまう。

 席も離れているし話したこともないのに、俺の名前を覚えていたのか。


「……高橋、何してるんだ?」


 俺も名前は覚えてるよ、という意味を込めて話しかける。

 クラスの男子が


「あの転校生さぁ、結構訛ってるよな」

「まぁ可愛いっちゃ可愛いけどな、転校生の方言」


と話しているのを聞いて「せめて名前を呼んでやれよ」と気にはなっていたのだ。


「へ?」

「傘を上げたり下ろしたり。何してるんだろう、と思って」


 そんなにじっくり話し込む気はさらさらないが、「いや結構」と逃げるのもどうだろう、と思う。別に後ろめたいことは何もないのに。

 とりあえず話を振ってみたか、何だか気まずいのは確かだ。何しろ一つの傘の中に二人きり。

 まぁ、高橋は厚意で傘を差しかけてくれたんだろうけど。


「雨の音、聞いとった」

「雨の音?」

「ほら、パラパラパラって言うやん?」


 左手の人差し指で上を指す。何となく見上げても当然傘の紺色しか見えないが、確かにパラパラ、パラパラ、と音が鳴っていた。


「ザーザー降りやとそんな余裕ないけどさ。この降り始めの音が好きなんよ」

「ふうん……。高橋ってどこから来たんだっけ?」

「富山」

「どこ、それ?」

「新潟と石川の間」

「…………ああ」

「絶対わかっとらんやろ、もう!」


 アハハ、と高橋が声を上げて笑う。方言のせいかもしれないが、想像よりだいぶん元気な女の子だった。


「私が住んどったところは立山町っていってすっごく雪が降るん。雪の大谷とか有名なんやけど」

「……あー」

「だからわかっとらんやろって!」


 パァン、と腕をはたかれた。

 訂正、元気というより逞しすぎる。


「雪の音は、もっと好きなんやけどね。こっちじゃ聞けんよねー」

「まぁ、降らないこともないけど」

「でも、どうせベタ雪やろ?」

「……?」


 ベタ雪? はあ?


 俺が腑に落ちない顔をしていたのか、高橋は雪にもいろいろな種類があるということをこんこんと説明し始めた。


 雨混じりの『みぞれ雪』。

 傘に当たるとベシャッベシャッという音がする。湿っぽいし汚いしあまり好きじゃない。


「中途半端やね。それならいっそ雨の方がマシやんって思う」


 急に寒くなると落ちてくる、真ん丸の『雪あられ』。

 直径3ミリぐらいの球になっている氷の粒で、地面に落ちるとパタパタ跳ねる。


「傘に当たってもパチパチ弾けてくから、リズミカルですっごい可愛いんよ!」


 綿毛がくっついたような大きな雪片となって降ってくる、『牡丹雪』。

 水分が多く、傘に当たるとパサパサッと音が鳴る。ベタ雪はコレのこと。


「見てる分にはいいんやけど、すぐに水滴になっちゃうからさあ。やたら濡れるし重いんよね」


 さらに冷え込むと、さらっとした『粉雪』になる。

 細かい粒が雨のように降ってきて、辺りの音もすべて吸収してしまうんじゃないかと思うぐらい別世界になる。


「傘に当たると『サラサラ』って、川のせせらぎみたいな音が鳴るん」


 傘の上をそのまま滑り落ちて流れていく感じもいい。

 そう言って、高橋はふんわりと微笑んだ。

 俺には見えない、故郷の雪景色が見えているのかな、と思う。


「まぁ、去年は暖冬であんまり雪が降らんかったからさ。立山でも真夜中しか見れんかったけど」

「……ふうん」

「あ、雨止んだやん」


 いつの間にか、俺たちの周りを取り巻いていた『パラパラ』という音が消えていた。

 高橋は俺に差しかけていた傘を下げ、さっさと畳む。


 二人きりだった空間が急に開けてちょっと戸惑っていると、高橋は

「じゃあ佐伯くん、バイバイ」

と言ってそのまま歩いて行ってしまった。

 どうやら雨が降っていたので俺に傘を差しかけていただけで、晴れてしまえばもうどうでもいいらしい。


 その切り替えの早さにガクッと膝が折れそうになったが、だからと言って追いかけるほどの熱量もなく、そのまま彼女の後ろ姿を見送った。


 小雨は『パラパラ』、みぞれ雪は『バシャバシャ』、雪あられは『パチパチ』、牡丹雪は『パサパサ』、粉雪は『サラサラ』か。

 今度傘を差すことがあれば聴いてみようかな、と漠然と思った。



   * * *



 サラサラ。サラサラサラ。


 粉雪が奏でる音色を、静かに聴く。

 そして、肩から傘を下ろした。その途端、黒い傘から細かい雪の粒が地面に落ちる。手首を回転させて傘を振ると、雪はすべて周りに散っていった。

 本当だ。よっぼど冷えて固まっているのか、水滴にならず雪の状態のまま地面に落ちていく。傘はというと、水滴すら殆ど付いていない。


「……何してるの?」


 俺を案内するためにやや前を歩いていた彼女が、不思議そうな顔で振り返る。

 現実に帰ってきて少しガックリとしながら「別に」とだけ答える。


「ひょっとして、緊張してる?」

「まぁ、多少は」


 今日は東京から電車を乗り継ぎ、彼女の祖父母に会いに来ていた。

 彼女と結婚したいです、と挨拶をするために。


 駅員が一人しかいない小さな駅を出ると、アスファルトはうっすらと真っ白な雪に覆われていた。

 きっと数日前から降っていたのだろう。右手にある奥の方まで広がる平たい大地はすべて真っ白だ。誰も足を踏み入れてないらしく、元は田んぼなのか畑なのかもわからない。


「大丈夫よ。おじいちゃんもおばあちゃんも、すごく楽しみにしてたから」

「……だといいけど」


 長い東京暮らしで、和沙の訛はすっかり無くなっていた。

 高校、大学はまったく別だった。同窓会で再会して何となく……という、よくある話。 


 和沙が富山県に住む祖父母に八年ほど預けられていたのは、母親が死んで父親も仕事が忙しく、子育てどころじゃなかったから。

 そして中3の冬に転校する羽目になったのは、父親がようやく落ち着き、和沙を引き取りたいと言い出したから。進学など先のことを考えるなら東京の方がいいだろう、と強引に転校させられたそうだ。

 しかしそれも二年ほどだけで、再婚した父親と継母の邪魔にならないようにと高2の春から一人暮らしをしていたらしいのだが。


 そんな和沙にとっての本当の家は、今までの人生の三分の一にも満たない時間を過ごした、この祖父母の家なのだろう。

 和沙と再会して付き合うようになってから、粉雪が舞う季節に来たいと密かに思っていた。

 ……けれど。


「お前……覚えてないの?」

「何を?」

「……やっぱりいいや」


 初めて言葉を交わしたときの話なんかしたら、

「もう、佐伯くんったら私にベタ惚れじゃない!」

とか、こっちが恥ずかしくなるようなことを言い出しそうだ。


 幸い和沙はスマホを操作していて、俺の様子を特に気に留めなかった。

 すぐさま耳にあてると


「もしもし? うん、和沙」

「今から行くちゃー」

「なーん、大丈夫!」

「ちゃんと家の中で待っとられよ。風邪ひくから!」


 と、方言丸出しで喋っている。きっと電話の相手は祖父母のどちらかなのだろう。

 和沙の方言を、本当に久しぶりに聞いた。再会したときはすっかり東京の女になってたし……きっと、あのとき以来だな。


「あ! ひょっとして、いっちゃん最初のことけ!?」


 電話を切った途端、和沙が急にグリンと振り返る。祖父母との会話で引っ張られたのか、言葉も方言に戻っていた。


「ああ、うん」

「覚えとったんや! ひょっとして実はそのときから好きやったとか?」

「それは無い」

「えー。何や、つまらんわ」


 サラサラ、サラサラ。

 せっかくの『粉雪の音』は和沙のハイテンションな声で台無しになる。

 まぁ、思えば最初からこういう奴だったし、別にいいけど。


「お前はどうなんだよ」

「私? カッコいいなー、とは思うとったよ」

「……え?」

「ずっと覚えとったしね。淡い期待もあった。じゃなかったら、四カ月しかおらん中学の同窓会なんか行かんよー」


 言われてみれば、そうだ。和沙はイジメられたりはしていなかったが、仲のいい友達らしい友達は結局できなかった気がする。

 何しろ主だった行事など何もない、受験前の四カ月しかいなかったのだから。


「俺、ハメられた?」

「なんも? 数少ないチャンスを私がモノにしただけやし」

「……」


 本人を目の前にして「モノにした」とか言うな。

 まぁ、和沙らしいけど。


「何ー? まさか今から帰るとか言わんやろね?」

「言わないけど」


 別に和沙がこういう奴だって、よく解っている。

 あのときから全然変わってないし、きっとこの先も変わらないんだろう。


「ならいいけど。……あ、あの家やよ!」


 降り出した雪に白く染まった町の一角に、オレンジ色の明かりが灯った平屋の家がある。

 和沙は嬉しそうに声を上げると、アスファルトの雪に足を取られそうになりながらも早足で歩き始めた。そんな和沙の背中を追いかけながら、黒い傘の内側を見上げる。


 サラサラ、サラサラ。

 雪深い地方でしか聞こえない『粉雪の音』。

 まだ見ぬ自分の子供にも教えてやりたいな、と我ながら気の早いことを考えながら、左手でネクタイの結び目が歪んでないかそっと確認をした。



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