深海のピアノ(2)

「狂気のための愛と死……」

 小さくアキが呟いた。サカキは演奏をやめないままで、横目にアキを窺った。幼い子どものように瞳を輝かせ、サカキの手元を食い入るように見つめている。

「ええ、ご存知でしたか」

「あ、ああ。でもなぜ」

「聞いてませんか。おれね、向こうの出なんすよ」

 旋律が一周したところでサカキは手をとめた。

「総統こそどうして」

 サカキの問いかけにアキは戸惑い、ややしてから硬い声で答えた。

「これは母の曲なんだ」

「そうでしたか」

 レコードのジャケットに映っていた、青いドレスの女を思い出す。ピアノに抱かれるように凭れかかった姿態は艶かしく、見る者に挑みかかるようなはっきりとした顔立ちはアキにも受け継がれていた。

「先代が惚れこむわけだ」

「どうかな」

「え、先代はご執心だったって話じゃ……」

 サカキがそこまで口にすると、アキは口元に人差し指を立てて、内緒だよと囁いた。

「それはね、母と同じ店にいた女のこと。母は、飼い主に見捨てられた籠の鳥のようだった。とても従順で、そうしていればいつか戻って来てもらえると信じていた」

「なるほど。だから狂気になる」

 再び鍵盤に指を滑らせ、サカキは微笑んだ。ピアノの旋律は静けさを帯びて、とても狂気とは結びつかない。だがその平坦さこそが本当の狂気なのだとサカキは理解していた。神経を逆なでするようなヴァイオリンは狂気の装いにすぎないと。

 聞き流していては気付かない緩やかさで、曲は緊張を孕んでいく。潮が満ちていくようにゆっくりと、そして確かに、旋律は狂気の方へと流されていく。その足跡を奏者として辿る高揚感は格別だった。

 アキは隣で静かに耳を傾けていた。その横顔は青年にはやわらかく、少年のわりには大人びていた。サカキの胸に、違和感の影がよぎる。

「サカキ」

「はい」

 演奏をやめようとすると、アキはそのまま続けてと告げた。

「おまえに訊いておきたいことがある」

「何でしょう」

 先日、日を改めて報告した狙撃手のことが頭をよぎる。元学生の男なら、数日前に国へ帰ったという情報を得ていた。

 アキはサカキの思考を察したのか、かすかに首を振った。

「ぼくが総統になった日のことだ。おまえはなぜナルオミに誓いを強いた」

「ああ、そのことっすか」

 サカキは乾いた笑いを洩らした。

「正直なとこ、自分でもよくわかってないんすわ」

「そうなのか。おまえはいつも明確な考えのもと行動しているものとばかり思っていた」

「そこまで計算高くないんすよ。ここぞっていうときは、むかつくくらい感覚ですから」

 曲はメゾフォルテからフォルテへと移り、サカキは途切れ途切れに言葉を継いだ。

「あの時もそうでした。……そうだな、あいつを試したかったって言ったら興醒めっすか」

「いや、それはあるだろうと思う。だけど、それだけじゃないように思ったんだ」

「と言いますと?」

「おまえはナルオミでバランスを取ったんだ」

 アキの指摘に、サカキの指先が狂う。調子はずれな一音は過去へ流されず、耳の奥で長く残響を重ねた。

 アキはサカキの演奏を受け止めながら、凛然として続けた。

「おまえはバランス感覚に優れた男だ。今こうやってピアノを聴いていて、つくづくそう思う。そして一方ではそのバランスを崩したがっている。大局的なバランスを取るためにな。あいつは……、ナルオミは揺らぐことを知らない。それは傾ききっているから。バランスとは対極のところにある男だ」

「随分と面倒な人間ですね、おれも、あいつも」

 苦笑まじりに一度鍵盤から手を浮かす。じっくり余韻を響かせてから、再び静かな旋律を繰り返した。

 先代が死に、悲しむ間もなく後継者争いが始まった。その混乱の中で誰もが奇妙な充足感を得ていたのは間違いなかった。それがあの朝、カイトの自殺により全てがあっけないほど円滑に終わりを告げ、それぞれの胸に、もちろんサカキの胸のうちにも、行き場のない闘争心が燻りながら残った。ナルオミは言わばスケープゴートだった。彼が精神的に、もしくは肉体的に血を流すことで、組織はようやく日常を取り戻すとサカキは直観したのだった。

 アキの言葉はあまりに的を射ており、胸の内側に薄い氷が張るような心地がした。ひどく凍みる。だが不快ではなかった。今ならきっと、どんなに白い息を吐いたとしても笑い飛ばせるだろう。

 花がひらくときのように、音もなくアキが立ち上がる。

「それはおまえの武器だ、サカキ」

 澄みきった、洞窟の奥深くに滴り落ちる雫のような声だった。サカキはアキを斜め後ろから見上げて息を飲んだ。

「おまえたちは対極だが、よく似ている。ぼくは時々思うんだ。もしナルオミが先代の実子なら、おまえがその片腕となり、きっと組織は強く大きく発展したんだろうって」

「総統……」

 なぜ今まで気付かなかったのかと自問する。指先がもつれて、黒鍵を掠める。

「そういう夢も悪くはないだろう?」

 佇まいはどこまでも儚いが、眼差しには深海まで届きそうな強かさがある。サカキは思いがけず出会った秘密の少女があまりに目映く、たまらず笑みをこぼした。

「おれぁ、あんまり好きじゃないですけどね」

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