青のフラット

望月あん

スナイパー(1)

 胸を掻き毟るように鍵盤を叩く。

 どんなに美しい旋律もわずか半音で不協和音になる。

 その瞬間が何より愛しい。

 求めるのはフラット。

 その歪みだけがいつも、行き場のない血潮を慰めてくれた。


***


 雑居ビルの外壁に凭れ、サカキは口元からのぼる紫煙を追って夜明けの空を眺めていた。夜の間ネオンを際立たせるように深く黒く沈んでいた空が、日の出とともに薄く青く凍りついていく。停止するように朝は静かにおりてきた。

「さむ……」

 身を切るような風がすり抜けて、サカキは首をすくめた。

 夜の粒子が残る青い路地裏に、男の控えめな罵声が響く。ウェイター姿の男が二人、白い息を吐きながら足元の黒い影を蹴りつけていた。サカキは腕時計で時間を確認した。もうかれこれ三十分は経つ。

 アスファルトには半分に折られた携帯電話が、さらに踏まれて粉々になっていた。サカキはそこに結わえられた木彫りのストラップを拾いあげ、持ち主である影へと近寄った。

 ウェイターのうちの一人が気付いて、影の上へ踏み出そうとしていた足を慌てて引いた。もう一人も息を切らしながら、一歩下がる。サカキは煙草をくわえたまま、顎を動かした。

「顔」

「あ、はい」

 二人のうち一人が、うずくまっている影の髪を掴みあげた。ただ黒いばかりだった影に、ぼうっと靄のような顔が現れる。まだ若い二十歳前後の男だった。いつ息をしているのかわからないほど呼吸は浅い。サカキは男の顔の前にストラップを垂らした。

「お守りか。ヒットマンも神様に頼るんだな」

 サカキの皮肉に、男が唇を動かした。驚いたようにも、笑ったようにも見えた。サカキはしゃがみ込み、男と視線を合わせた。

「いい加減、話してくれないかな。おれもう寒いわ」

 男が何か呟いたが、それは声というよりももはや息だった。

「はあ? 聞こえない」

 痰のからんだ声で男が嘲笑する。サカキは興味なさげな薄笑いでぞんざいに頷いた。

「あー、うんうん、そういうのいいから。新総統の襲撃は誰の指示だ、誰に雇われた。龍征会か、東龍征会か。それともうちの人間か」

 問いかけながら、サカキはじっと男の顔の動きを見つめる。しかし血と砂埃で汚れた顔は岩のようにでこぼこになり、わずかな表情の変化を覆い隠してしまっていた。

 二週間前、組織本部が襲われた。その日、予定ではサカキが車で本部に向かい、総統であるアキを龍征会との食事会へ送り届けるはずだった。だが直前になってハセベが運転を代わってほしいと申し出たのだ。普段ハセベは眼鏡がつらいからと言って運転を嫌う。珍しいっすねとサカキが笑うと、ハセベはどこか寂しげに目を伏せ、総統に話したいことがあるのだと囁いた。その一時間後、本部襲撃の知らせを受けてサカキが真っ先に思い浮かべたのは、ハセベの奇妙な儚さだった。

 あれから本部周辺の警戒はいっそう厳しくなり、アキは負った怪我の治療もあって建物外へ出なくなった。代わりにナルオミが仕事をこなしている。一方ハセベには特に変わったところはなく、今は組織が買い上げたマンションの一室で、捕らえた狙撃手を尋問していた。

 サカキは目の前の男を見据えながら、マンションで尋問を受けている男の姿を脳裏に思い浮かべていた。逞しい体躯の男で青い眼光は鋭く、飲み水の銘柄を指定するような図太さと厚かましさがあった。彼が狙撃手であることをサカキは否定しない。だが男が狙撃場所に選んだビルの非常階段に立ったときから、サカキはかすかな引っかかりを感じていた。確かにそこからなら銃撃は容易い。だが本部との距離が近く、逃走経路を塞がれやすい。まるで捕まえてくれと言わんばかりの場所だった。その後アキの治療をしたという医者を探し、掠めていった弾の軌道を聞き出して、その引っかかりは確かな違和感へと変わった。

 狙撃手は二人いる。それがサカキの立てた仮説だった。

 ある情報が入ってきたのは、碧眼の男を捕らえた直後のことだった。サカキの馴染みの女が人気の少ない昼間の風俗街でハセベを見かけた。面識のある彼女は素通りするのも失礼に思い声をかけたところ、ハセベは珍しく怖い顔をして振り返り、はじめは言葉もなかったという。すぐに平静を取り戻した彼は久し振りだねと人懐っこく笑ったが、女はいっそう不審に感じた。こんな時間に一人でどうしたんですかという女の問いに、ハセベは卒なく敵情調査だよと微笑み、人差し指を口の前に立てた。

 話を聞いたサカキはすぐに子飼いの弟分をその場所へ向かわせた。周辺は敵対勢力が仕切る店が多いため、敵情調査が行われることは確かにある。ハセベは女が事情に明るいことを踏まえてそう答えたのだろうが、それが裏目に出た。今月の調査はサカキの担当だった。

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