滲むフラット(2)

 ナルオミの立ち上がる気配がして、ソファの方へと近付いてきた。寝転がったまま、サカキは頭の向こうへ視線を投げた。そこには頬のやつれた、疲れきった男が立っていた。

「浮かない顔だなあ」

 突然の声に驚くこともなく、ナルオミは平然として振り返った。

「いたのか」

「子守しながらは忙しいだろう。手伝ってやろうか」

 サカキがにやりと笑うと、ナルオミは小さく目の下を痙攣させた。

「遠慮しておく」

 グラスとウイスキーをテーブルへ置き、ナルオミは部屋の隅にある冷蔵庫から氷を出した。しかし彼は自分のグラスにだけ氷を入れてウイスキーを注いでしまう。

「なんだ」

 サカキは仕方なく起き上がり、乱暴にロックを作った。

「ま、一応」

 そう断ってから、互いに渋々グラスを合わせる。

「龍征会のじじいが来て、機嫌よく帰っていったぜ。総統によろしく言ってな」

 世間話のように喋ると、ナルオミはサカキの本当に言いたいことを見抜いて眉を片方上げた。

「補佐役をいただいた。先代も望んでいた役職だ」

 ナルオミは顔色一つ変えずにさらりと明かして、水のように酒を呷る。上下する喉元に、苛立ちが見え隠れした。

「どんな根回しをしたんだ」

「根回し? 総統の力に決まってる」

 壊れたロボットのように総統の力だと繰り返すナルオミの一途さが、サカキには惨めに思えた。そして二人のため息が異なるものだったことにぼんやりと思い至り、たまらず鼻で笑った。

「しゃあしゃあとよく言う。誰も坊ちゃんの手腕だなんて思ってないぜ。なあ、影の総統さんよ」

 煙草に火をつけて顔をあげると、鋭い目でもって睨みつけられていた。そう睨むなよ、と笑い飛ばして灰皿に煙草を叩きつけた。

 サカキにはアキの目的が未だわからずにいた。先代の葬式に突然現れたかと思うと、あっという間にカイトを死に追い込んで総統の椅子に座った。補佐役は先代も望んでいたものではあるが、そのやり方は誰が見ても無理が過ぎる。先代の遺志を継ぐというより、彼女自身が死に急いでいるように思えてならないのだった。ハセベのこともある。アキの置かれた立場は危うく、日に日にその度合いは増している。

 アキの語った夢が、月光を宿した水面のように時おり揺らめいた。

「おれぁ、あんたのことは嫌いだが、あんたの能力は買ってるんだ」

「そうか。おれもおまえのことは嫌いだが、能力は認めている」

「気が合うねえ。なんならここをぶっ壊して、新しく組織を作ってもいい。そうすりゃ養子縁組を道具にはしないぜ。おれとあんたが組めば、そんじょそこらの組織には負けない、どこの派閥にも屈しない、独立組織が作れる」

 話しながらサカキは、なぜこんなことを言うのかと不思議に思っていた。これはサカキの思考ではない。アキの夢だ。わかりながらも、言葉は次から次へと口をついて出た。

「ハセさんの動きが怪しい。こないだの襲撃についても、あんまり追及したくない、いや、されたくないみたいだし。実際あの人が狙撃手と絡んでから、なあなあになっちまった」

 二人目の狙撃手のことも、その雇い主がハセベであることも隠しつつ、サカキは続けた。

「ハセさんがただ抜けるだけならまだしも、あのおっさんは多分それだけじゃ済まさない。あとのことを考えて、取り込めなかった人間は生かしておかないだろう。やるなら、あの人が行動を起こす前にどうにかしねえと、無駄死にすることになる。どのみち、ここは長くないぜ」

 一気に酒を飲み干すと、喉が焼けるようだった。サカキはその熱をごまかすように立ち上がり、煙草を大きく吸い込んだ。

 ナルオミは首を傾げてサカキを見上げていた。

「なぜハセベさんにつかない。乳臭い総統につこうとする。そこまで言うからには、おまえのところに声はかかっているんだろう」

 なぜだろうなと答える代わりにサカキはにやりと笑った。立ち去ろうとして一歩足を出したものの、ふと気まぐれに口をひらいた。

「ああ、そういえば、坊やに伝えといてくれよ。夜は音量に気をつけろってな」

「え」

 ナルオミの顔が今夜初めて凍りついた。想像以上に素直な反応に、むしろサカキの方が恥ずかしくなる。

「あのレコード、いい加減聴き飽きてきたからな」

「レコードか。わかった、伝えておく」

 ほっとしたのか、珍しく淡い笑みを浮かべてナルオミは頷いた。それがあまりに幸せそうなので、サカキは一言付け足しておく。

「よろしく頼むぜ。離れだからって、何も聞こえないわけじゃないんだからさ」

 本部の玄関を出ると、雪まじりの風が吹きつけた。サカキは首をすくめながら駐車場へ向かう。凍みるような寒さを感じれば感じるほど、内を行き交う血の熱さに胸が震えた。吐き出した息は雪を掻き消すほど白かったが、サカキは笑い損なったように頬を歪めるだけで、煙草に火をつけて車に乗り込んだ。


 それから二週間後の早朝、浅い眠りに落ちかけていたサカキは携帯電話の振動で目を覚ました。女を起こさないようベランダへ出て電話を受ける。電話口の向こうは騒然としていて、要領を得ない。サカキはすぐに本部へ向かうと告げて通話を切った。

 ビルの隙間から白い朝日がのぼる。いつもと変わらない景色が不思議と厳然としたものに感じられて、サカキは景色を切り取るようにゆっくりと瞬きをした。

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