滲むフラット(1)
整然とした場所は苦手だった。息苦しいばかりで、生きた心地がしない。その点ではこの街も組織も、サカキにとっては居心地がいい。街並みは不揃いで統一感がなく、人や車に溢れ、路地裏にはたくさんの秘密や嘘がうずたかく積まれ、その上でノラ猫が気持ちよさそうに昼寝をする。組織もまた人種や年齢を問わず様々な男たちで構成され、そこには直視できないような過去や傷が数知れずあった。どちらも薄汚れて擦り切れた場所だった。
サカキは店の裏手にある駐車場に座り込み、買った弁当を猫と分け合った。路地裏を気侭に闊歩する彼らでさえ律儀にも決まったねぐらがあることに気付いてから、生きることに真摯な彼らの姿に感心し、時おりこうして食事をともにしていた。サカキは自宅を持たなかった。毎夜同じ場所に帰ることを想像するだけで、気が滅入りそうになるのだった。
大きな唐揚げに苦戦する斑の猫を手伝う片手間で、一つ電話を済ませて、ようやく一服に辿り着く。体はすっかり冷えて、ライターを持つ手がかじかんでいた。
どんよりと曇った夜空は、ネオンを映して赤黒い。今にも降り出しそうな空だと心に呟き、少し前にも同じことを思った気がした。だが、それがいつのことか思い出せないまま、サカキは煙草を吸い終えて車に乗った。
本部の玄関には巡回の組織員が立っているだけで、他に人影はなかった。彼らに温かいコーヒーを差し入れ、サカキは寝床の一つである事務室へ向かった。
事務室は深夜ということもあって凍りついてしまったように静まり返っていた。サカキは部屋の奥に据えられたソファに体を横たえ、黄ばんだ天井を眺める。同じ一点を長く見つめていると触れられる距離にあるのではないかと思えて、確かめるように腕を伸ばした。だが指先を掠めたのは、虚空だった。何もない場所に、一切のものが存在する。そんな空間が爪の先に広がっていた。
この指先は、ずっと何かを探し求めていた。きっとあのレコードをもらったときから続いている。だがそれが何ものであるのか、サカキはまだわからずにいた。
耳を澄ますと、空調の稼動音に紛れて執務室のレコードの響きがかすかに聞こえてくるようだった。それは段々はっきりと聞こえ、耳鳴りのように実体のない旋律を繰り返した。
目を閉じて、姿のない鍵盤に心のうちで触れる。やがて波紋が広がるようにして、指先から光沢のあるピアノが生み出された。確かに触れているはずが、その感触は曖昧で遠い。誰もいない荒野に硬質な一音がこだまする。余韻が消えないうちにもう一音続ける。音は重なり、連なり、響き合う。サカキは初めてピアノに触れたときのように夢中になってでたらめに奏でた。いつしかそれは音楽となり、雨となってサカキに降り注ぐ。空は青く晴れ渡っていた。雨雲はない。よく見ると、青空から滴っているのだった。空の雫は青く輝きながら肌を打ち、さらに小さな煌めきになって霧散していく。痛くはないが、痛みの観念が肌に焼き付いて、サカキは声にならない叫びをピアノに叩きつけた。これが泣きたいという気持ちかと思うと、目頭が熱くなった。泣いたかもしれないが、涙は空と混ざってわからなかった。無性に帰りたいと心が唱える。その度にどこへと自問した。帰る場所などどこにもなかった。流されていた。果たして何の曲かわからないまま体が勝手に弾き続けていた。それに疲れて視線を落とすと、黒鍵の一つが青く揺らめいていた。目が離せなくなる。雨はいつしか止んで、ずぶ濡れの体はすっかり乾いていた。青い鍵盤は月明かりが射す水面のようだった。光そのものではないが、臆することなく清澄として佇んでいた。旋律を乱すとわかりながら人差し指で撫でるように青を弾く。計算された美しさに半音届かなかった。たったそれだけのことで、旋律は無残に崩れる。だが何度も何度も繰り返し青を奏でた。痛みはない、寒さもない。それでも青が煌めく度に血がざわつくようだった。
部屋へ向かってくる足音に気付き、サカキは眠りから覚めた。ややして、ため息とともに扉がひらかれる。夜を透かした黒い窓にはナルオミの姿が写った。回転椅子のしなる音が鳥の鳴き声のように響き、またため息が洩れる。
サカキはナルオミの様子を耳で窺いながら、先ほど電話越しに聞いたアキのため息を思い返していた。二人の憂鬱が同じところから発するものかどうか、サカキには知るよしもない。ただ、出来れば同じであってほしいと、明日が穏やかな日であるように願う心で思った。
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