深海のピアノ(1)

 かつて女に言われたことがある。

 サカキさんって、どこかこの世にいない人みたいね、と。

 反応を確かめるように間を置いて、さらに彼女は、だって何にもこだわってないでしょう、自分が生きることだって、と続けた。さすがにまだ死にたくないから生きるよと返したものの、あながち外れてもいない彼女の指摘にサカキは苦笑するしかなかった。

 龍征会の次期補佐役選出が迫っていた。

 明け方、雪が雨へ変わるのを見届けてからサカキは眠りについた。浅い眠りだった。夢を見た。真っ青に晴れ渡った空の下、一面に廃墟が広がっていた。色の枯れてしまった世界だった。ただ空だけが青く、水を湛えたように澄みきっている。夢の中のサカキは、これを降りだしそうな空と言うのかと納得していた。舗装のめくれあがった道を歩いていると、大きな黒い椅子が転がっていた。サカキはどうしてもそれを起こさねばならないように思うが、重くてとても持ち上げられない。誰かを呼ぼうとしても、声が出ない。その椅子を元に戻せないことが悔しく、その椅子が空っぽであることが悲しく、サカキは椅子に凭れかかりながら、か細く名前を呼んだ。そこで女に起こされた。うなされていたと、出勤の身支度を終えた彼女は顔を覗かせた。サカキは彼女が出かけるのを見送り、再びベッドに潜りこんだが、もう眠りは訪れなかった。

 冷蔵庫に用意されていた朝食を、煙草を吸いながら胃に押し込む。半熟のゆで卵から溢れた鮮やかな黄身を見て、サカキは安心した。

 一度事務所へ立ち寄ってメールや電話の返信を終えてから、龍征会役員をもてなすためサカキは自身が受け持っている店へ向かった。アキとナルオミはまだ来ておらず、サカキはスタッフらのミーティングを客席のソファから見るともなく見ていた。

 照明を落とした店内は、深海のように青く沈んでいた。片側の壁にはバーカウンターがあり、棚に並んだ色とりどりの酒瓶は珊瑚礁を泳ぐ熱帯魚のようだった。店の奥にはグランドピアノが沈没船のようにどっしりと据えられて、海底を支配していた。

 ミーティングが終わり、スタッフはそれぞれの持ち場に散った。モップを持った若い男がソファへ向かって歩いてくる。サカキはくわえていた煙草をもみ消して、ピアノのそばに立った。故郷を出てから十年、もうずっと弾いていなかった。

 指紋一つない蓋を押しあげ、実体のある鍵盤の上へ指をのせた。冷たい。そう感じているのは体ではなく、心のほうだった。濡れた手で氷に触れたときのように、皮膚が張りついて氷に取り込まれそうになる。サカキは思いがけずわきあがった愛しさに怯え、奏でないまま手をおろした。

「弾かないのか」

 突然背後から問いかけられ、サカキは肩を震わせた。振り返ると、アキがいた。

「脅かさないでくださいよ」

「悪い」

 アキは羽織っていたコートを脱いでサカキの隣に並んだ。店の隅ではナルオミとスタッフが座席や料理の確認をしている。

「すみません、総統。いらっしゃったのに気付きませんで」

「いいんだ。それより弾かないのか」

 椅子の端に寄って座り、アキはあいたところを軽く叩いた。

「おれが弾けるって決めうちなんすね。ただなんとなく立ってただけかもしれませんよ」

「それは違うな」

 雪のように冷たいアキの指が、サカキの手を掴む。

「ピアノに愛される指をしてる。嘘をついて逃げようったって、ぼくの目はごまかせない」

 少年らしい悪戯な笑みを浮かべて、アキは掴んだ手を鍵盤の上へ置いた。サカキは肩をすくめて観念する。

「そこまで言われちゃ、しょうがないっすね」

 椅子に腰掛け、脚を伸ばす。

「なんでもいいっすか。それともリクエストなんぞあります?」

「おまえの好きな曲を弾いてくれ」

「好きな曲、ですか……」

 とっさに浮かんだのは、狂気のための愛と死だった。あの曲をここで弾けばアキはどんな顔をするだろう。サカキはその思い付きから離れられなくなった。

 冷えた手指をこすりあわせてから、息を浅いところでとめて羽根のように軽やかに手を置いた。そこにはやわらかな膜がある。目には見えない、冷たい膜がある。サカキはそれをそっと押し破るようにして、音色を響かせた。

 鍵盤の程よい重さが、ピアノから離れていた時間を一瞬で埋めた。まるで昨日も弾いていたかのように、懐かしさは感じられなかった。当然のように指先は鍵盤に吸い付き、溶け出した互いの熱で音色はますます滑らかになる。自分の体ではないように、指が音に導かれていく。不自由でありながら、どこまでも自由だった。

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