「狂気のための愛と死」(2)

 廊下の角を曲がると、執務室へ入ろうとするナルオミと目があった。サカキは思わず立ち止まった。

 ナルオミは、手負いの獣のような男だった。サカキはカイトが死んだ日のナルオミを思い返す。誓いとして胸を切り裂いた彼はどこか恍惚として、普段は無表情な男の背中が、微笑んでいるようでもあった。それを見たサカキは、寒さに震えるときのように血がざわつくのを感じたのだった。

 ナルオミは鈍い光を湛えた鋭い眼差しでサカキの入室を制し、自身は扉の向こうへ煙のように吸い込まれていった。

 サカキは一旦廊下を戻ろうとしたが、かすかに音楽が聞こえてくるのに気がついて扉の前まで近付いた。息を殺して耳を寄せ、聞こえてきた音に思わず、あっと声をあげた。慌てて口元を押さえて、一気に跳ねあがった鼓動を懸命に飲み込む。

「狂気のための、愛と、死……」

 意識の底の、手が届かないほど深いところに沈んでいた旋律が花吹雪のように舞い上がって、途切れがちに聞こえてくる現実の音色を補う。長い時を隔てた邂逅だった。サカキはたまらず扉を開けた。鮮明になった音楽が体へ響き、ずっと忘れていたはずの記憶が滲んで、サカキはまだ海の向こうで暮らしていた頃の無力な少年を思い出した。

 狂気のための愛と死――それは異国へ引っ越す友人から別れのおりに譲ってもらったレコードだった。古典音楽しか認めなかった両親は、その他のものを低俗として聴くことを禁じていた。友人の家で聴いてから忘れられずにいたサカキは、親や使用人の目を盗んではごく小さな音量で聴いていた。時おりは自ら鍵盤で奏でることもあった。

 サカキは導かれるように執務室へ踏み入った。そこにアキとナルオミの姿はなく、続く寝室から音が流れてくる。会話の内容は聞きとれないが、そこに二人もいるようだった。机の上には見舞いの書簡や、龍征会補佐役についてまとめた書類が積み上げられている。サカキは机に腰掛けて、紙の上に軽く指を置いた。見えない鍵盤をなぞるようにして、かじかんだ指が勝手に動きだす。サカキは不意に溢れた無邪気さを持て余しながら、鳴らない旋律を紡ぎ続けた。

 ぽつぽつと聞こえていた会話の気配が、風に吹かれた蝋燭の炎のように消える。何か軽い物の落ちる音がして、サカキは透明な鍵盤から手を離した。レコードは今もひび割れそうに繰り返されている。足音を忍ばせ、壁に寄り添う。背中越しに寝室の様子を窺い、サカキは眉を寄せた。二人の間に言葉はない。ただ吐息だけがあった。

 サカキはとっさに部屋から出た。音を立てないようにゆっくりと執務室の扉を閉めて、とめていた息を吐き出す。

「まじか……」

 足元に視線を落として、サカキはしゃくりあげるように短く笑った。

 ナルオミは抱えた仕事がいくつもあるなか、短期間でアキを教育し、襲撃で負った傷と日常生活の世話をしていた。その変わり身の早さに首を傾げる者もいたが、サカキには何の不思議でもなかった。

 カイトの右腕だった時から、ナルオミは思考や感情を、人に委ねるところがあった。カイトが親代わりだったからではない。仕えると決めたあるじの言葉なら、彼は尻尾を振って喜ぶのだ。ナルオミ自身の意思などなく、善悪の区別もなく、そうすることによって人からどう見られるかも構わずに何でもする男だった。

 ただ、ナルオミとアキが並んで立っていると近寄りがたく感じられることが度々あり、サカキは蜘蛛の糸が不意に肌に張りつくような気持ちの悪さを感じていた。

 それがまさか、このような形で巣のあるじに会うことになるとは思ってもみなかった。

 総統とその側近が関係を持って、組織が健全でいられるはずがない。巻き込まれる前にすぐにも組織とは縁を切るべきだ。理性はそう判断を下すが、サカキは取り合わない。それがどうしたと一蹴する。

 ふらふらと部屋から離れる。廊下の窓には冬の光が薄氷のように張りついて、じんわり融け出した明るさが足元の絨毯に広がっていた。

 サカキはナルオミが胸を切り裂いたときに覚えた血のざわつきを、今また静かに感じていた。

 それは明確な狂気に対する、ある種の共鳴だった。

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