「狂気のための愛と死」(1)

 いつからか、目に映る世界をテレビのように平面に感じていた。

 サカキは資産家の長男として生まれ、何不自由なく育ち、人望は厚く、成績は優秀で、将来を嘱望される少年だった。だが十七の冬、それらは青く凍りついて砕けた。何か特別なことが起こったわけではない。胸にくすぶる苛立ちや焦燥感があったわけでもない。ただ、自分の吐いた息の思いがけない白さに驚いたのだ。それほどの寒さを感じられないでいた自分に、サカキは思わず失笑した。その日サカキは寮へは帰らず、南へ向かう列車に乗った。そして辿り着いた街で先代に拾われた。サカキという名は先代がつけたもので、元の名前はもうずっと昔に忘れてしまった。

 同郷の狙撃手を親しい刑事に引き渡し、サカキは自ら運転する車で本部へと向かっていた。煙草を取り出そうとしてポケットに手を突っ込むと、指先にお守りが触れた。

 男は近々本国へ送還されることになった。この国から早々に出て行ってもらうためサカキが根回ししたものだが、そのことに恩義を感じたのか、今度はあんたが守ってもらいなと別れ際に押し付けられた。窓の外へ投げ捨てようかとも思ったが、そのままにして煙草に火をつけた。

 本部の門前に車をつけて鍵を預け、玄関そばの休憩室を覗く。

「おい、総統はどこにいる」

「サカキ兄さん、お疲れさまっす。総統なら離れの執務室にいらっしゃるはずっす」

「あ、そ。そうだ、おまえらこれで鍋でも用意しろ。寒くて死にそうだわ」

 財布から取り出した紙幣を手近にいた若い男に押し付ける。

「あざーっす! でもそんなに寒いっすか」

「おれぁもう、おまえらみたいに若くねえんだよ、ばか」

 立ち去りながら手を振って、サカキは屋敷の奥へ向かった。すぐにも酒で体を温めたかったが、アキにだけは狙撃手が二人いたことを報告しなければならない。

 奥へ進めば進むほど人の気配は薄くなる。以前は廊下にも監視カメラが設置され、常に何者かの視線を感じていたが、アキが総統になってすぐそれらは玄関前を残して全て撤去された。身内を信用しているから監視などする必要はない、というのがアキの考えだったが、サカキには耳触りがいいだけの理想論に聞こえた。

 先代が逝ってしまった今、サカキは今後の身の振り方について考えるべき時を迎えていた。先代のいない組織に命を懸ける気はないが、まだわずかばかりの未練はある。組織を去るのはそれが感じられなくなってからでも、遅くはない。周囲からは、急速に先代の気配が失われつつある。また組織内の統率も以前ほど厳格なものではなく、それぞれロープが切れた浮標のように波に揺られて漂っていた。新総統の求心力は弱い。アキとナルオミがどんなに力を尽くしても、先代に及ぶことはない。自分が組織を抜けるのが先か、組織が自滅するのが先か。そう考えているのはおそらくサカキだけではない。

 脳裏に、今朝男に見せた写真がよぎる。俯きがちに微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべたハセベは、焦燥感を露わにしていたカイトや他の幹部よりもずっと純粋な悲しみの淵にいた。

 ハセベの狙いがどこにあるのか、まだ明確にはわからない。だがアキを先代のように支えていくつもりがないことだけは間違いなかった。ハセベはサカキにとって師のような存在だ。組織のことはもちろん、言葉や文化や日常のいたるところまで世話になった。感謝はしている。しかし襲撃を命じたのがハセベだと知っても、憤りや寂しさは涌いてこなかった。

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