4/4 彼女は泣いた……が、嬉し泣きではない
それから、私と水死体の同居生活が始まった。
死体には他に行くところがなかった。両親にこんな姿を見せるのはかえって酷ではないかと死体が言い(ではなぜ私には見せてもよいと思ったのか)、私もそれに賛同した。心の中ではまだ息子の帰りを待ち侘びているとはいえ、こんな姿での帰郷は望んでいないはずだ。広い海を揺り籠にして眠っている、そんな美しい幻想を抱いているのだとしたら、そっとしておいてあげるのが親孝行というものだ。
1DKのマンションで、彼はたいてい比較的涼しいキッチンの隅に体育座りをしていた。既に死んでいるから、疲労を感じないし飲み食いする必要もないらしかった。私に拒まれるのを恐れてか、死体は決して私に触れようとせず、夜私がベッドで寝ていても、相変わらず台所の隅で膝を抱えて座りつくしていた。
時々死体になる前の共通の思い出を語る時以外、基本彼は無口であった。私は次第に死体をオブジェとして捉えるようになった。
ある日「ごとり」という大きな音がして驚いて音のした方に目を向けると、台所の床を、もげた死体の頭がごろんごろんと転がっていった。
そういえば、最近は黙り込んでいることが多くて、そこに死体があることさえ忘れていた。首を失っても相変わらず体育座りをしたままの体が、再会当初より随分しぼんで、やせ細っていることにもその時気付いた。
「ユージ?」
再会以来、死体を名前で呼ぶのは初めてだった。頭髪が殆ど残っていない頭頂部を下にして回転を止めた首は、無言であった。
体育座りをしていた体がしなしなと前のめりに崩れ落ちたのを見て、私はちょっと涙を流した。
「何回も悲しませないでよ」
今にも干からびてカサカサになった瞼が開いて
「死んだと思った? もうとっくに死んでるけどね」
なんて軽口を叩くのではないかと思って随分長いこと待っていたけど、すっかり慣れてしまい、最近は意識することすらなくなっていたいちごミルクの匂いが、一瞬強く香っただけだった。
* * * * * * * *
カナコへ
恨みがましいことはあまり言いたくないけど、ちょっとぐらいの愚痴は、最後だから許してほしい。
君の心が僕から離れてしまった今、もう生きていたくないと思った。だから死ぬことにしたんだが、生憎どうすればちゃんと死ねるのかわからない。そこで君が仕事に出かけている日中に、僕はマンションの屋上で日光浴をすることにした。無論、他の住人に目撃されないよう細心の注意を払っていた。行くあてのない僕を同居させてくれた君には、今でも感謝してる。
照り付ける太陽の下で、体内に閉じ込められた海水が蒸発していくにつれ、この体に残っている力が一緒に抜けていくのが感じられる。このままいけば、今度こそちゃんと死ねると思う。実際、こうして君のボールペンを借りて手紙を書くのもやっとの状態なんだ。僕はもう長くない。
君は迷惑だったかもしれないが、僕は君に再会できてよかったと思っている。あんな間抜けな死に方をするとわかっていたら、もっと君とたくさん話をしておけばよかった。水膨れて半分腐った片手で君に触れることができなくなる前に、もっと君の頭をなでておけばよかった。
さようなら、愛しい人。愛しい人、なんて素面じゃとても口にできないほど恥ずかしいんだが、いよいよ死にかかっていてもやっぱり恥ずかしいな。君は素敵だから別の恋人を見つけるだろうけど(もしかしたらもう見つけているのかもしれないけど。君の帰りが遅い時、僕は嫉妬で身もだえていた)、僕のことは心配しなくていい。化けて出るなんて器用なマネはできる気がしないし、君には幸せになってほしいと思っているから。僕が君を幸せにしてあげられなかったことが心残りだけど。
即身仏より
* * * * * * * *
床に崩れ落ちた体のお尻の下から、四つに折りたたまれた便箋を発見したのは、ずいぶん経ってからだった。ユージの体に手を触れるには、しばらく時間が必要だったので。
恨みがましい死体め。
やっと止まった涙がまた溢れ出してきた。
亡骸の皮は簡単に骨と分離することができた。骨は随分脆くなっていたので、トンカチで砕いて海に撒いた。皮は更に何日間か屋上で天日干しして、今はクロゼットに吊るしてある。あれから何年も経つが、磯の臭いはいつしか消えても、未だに仄かないちごミルクの芳香を漂わせている。
時々考えることがある。私に気付かれないまま自分を徐々に干からびさせて、いよいよこれで最期という時に、朦朧とする意識の中で、また何か妙なことを祈らなかったのだろうか、と。
「『記憶を失ったまま外国の漁船に助けられたことにしてください』って祈ればいいのに。『そして五年後にまたカナコと巡り合う』って。『カナコは僕のことを思い続けて独身を貫いていて、記憶を取り戻した僕と結ばれる』とか、なんで考えられないの?」
一人部屋で酒を飲みながら、ふとそんなことを呟いて赤面してしまう。あれ以来、私には新しい恋人ができない。
クロゼットに吊るした皮は、その後も仄かにいちごミルクのよい香りを漂わせ続け、私は相変わらず独り身だった。
あのお調子者、まさか最後の最後に「ずっといい匂いが続きますように」なんて願ったんじゃないだろうな。
(了)
いい匂いがする 春泥 @shunday_oa
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