3/4 遡上する水死体
意識を取り戻した時、僕は浜辺に打ち上げられていた。
自分がもう生きていないことはすぐに思い出した。鏡なんかなくても、左腕がなくなっていること――海の中を漂っている間にサメに食いちぎられた記憶がおぼろげに残っていた――や、半そでのシャツから露出する右腕やズボンの裾から覗く脛の状態なんかを見れば、一目瞭然だった。
それでも体を動かすことができたのは幸いだった。もちろん、生きていた頃のようにスムーズにはいかなかったけど、バランスを崩さないように慎重に足を運べば、ゆっくりだけど歩くことができた。そして何より嬉しいことに、僕の体は、いい匂いがしていた。
夜だったので、海岸を変な歩き方をしていても、あまり目立たなかった。だけど、ずっとそうしているわけには行かなかった。僕はどうしても君に会いたかった。自分が今どこにいるのかもわからなかったし、君の住む愛知までは随分遠いんだろうと思ったからね。
しばらく海岸沿いの道路を歩くと、背後から車のライトが近づいて来た。
タクシーだ。
僕は体の左側を後ろに引いて、失われた腕が見えないようにして、右腕を顔の前で振り回した。そうすれば、海辺の道路は暗いから、車に乗り込むまで僕が何者か気が付かないんじゃないかと期待したんだ。
僕の目論見は成功し、タクシーは僕の前に停車して、後部座席側のドアが開いた。ぼくはできるだけ顔を伏せて、まんまと車に乗り込んだ。
「お客さん、どちらまで?」
「名古屋までお願いします」
「えっ。お客さん、ここは和歌山ですよ。名古屋までなんて、一体いくらかかるか」
運転手はこの時初めてバックミラー越しに僕を見た。
ホラー映画でゾンビに襲われた人が発するようなすさまじい咆哮が運転手の口からほとばしり、僕は思わず片手で耳を塞いだ。
「あんた! 死体だ! 水死体だ!」
僕はできるだけ無邪気な感じを装って
「ええ、でも僕、いい匂いがするんですよ」と言った。こうなっては、唯一のチャームポイントだからね。
「ええっ?」
あまりのことに運転手は絶句した。僕はこれ幸いと丸め込むことにした。
「ちょっと潮の香りがするかもしれないけど、それは僕が長いこと海水につかっていたからで……でも、ようく匂いを嗅いでみてください」
運転手は疑わしそうな顔で、こわごわ鼻をひくつかせた。
「なんだこれは。甘い匂いだな。なんだか懐かしい。前にどこかで……」
「いちごミルクです」
「そうか! かき氷だな。子供の頃俺は、いちごミルクが大好きだった」
「僕の彼女の好物なんです。僕はこんな風になってしまいましたが、幸いにして嫌な臭いはしないんで、名古屋で僕を待っているはずの彼女に会いに行こうと思いまして」
「なるほどなあ」と運転手は顎を撫でながら言った。
「でもあんた、そんな成りでお金は持っているのかい?」
僕はもじもじと、顔を赤らめた感じを漂わせた(この顔で感情をあらわすのはなかなか高度な技だからね)。
「それが……財布を海の中に落としたみたいで」
「タダ乗りかい。困るなあ」
「この車に乗るまで、気が付かなかったんです。僕、ついさっき意識を取り戻したところで」
「仕方ないなあ。じゃあ途中までは乗っけてってやるけど、その先は知らないぞ」
「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
「いや、どちらかというと、忘れてくれた方がいいかな」
この初老の男性はとてもいい人で、一時間ばかりも車を走らせてくれた。その間に、どうやら僕は黒潮に乗って紀伊半島に流れ着いたこと、溺れた日から一ヶ月半ばかり経過していることを運転手との会話から学んだ。
「しかしまあ、最初に見た時は心臓が口から飛び出るかと思ったが、ひと月半も海に浸かってた割には、そう悪くないねえ」
僕を車から降ろし、最後の別れを交わした時、僕を元気づけようと思ったのだろう、彼はそんなことを言った。お世辞だとわかっていてもうれしくて、僕はエヘヘと笑った……という雰囲気を出した。
それから僕は、時々親切なタクシードライバーのお世話になりながら旅を続けた。どうやら、最初の運転手が僕のことを無線で同業者に話し、見かけたら助けてやるようお願いしてくれたらしい。もちろん、最初彼らは信じなかった。恋人と再開するために旅をする水死体だなんて。でも彼らは、実際に僕に遭遇すると、必ず最初にこう言った。
「まさか、本当にいちごミルクの匂いがするなんて!」
恐縮しきりの僕に、彼らは「酔っ払いに粗相されるよりマシさ」と明るく笑うんだ。僕は神様に感謝した。やっぱり、第一印象って大事なんだなあ。彼らの大事な商売道具兼移動オフィスであるタクシーの車内に腐乱死体の臭いが染みついてとれなくなるのだとしたら、彼らだってあんなに親切にはしてくれなかったろう。
日中はできるだけ目立たない場所に身を隠して、夜間移動するようにしていたけど、それでもたまに誰かに目撃されてしまうことがあった。そんな時は、
「待ってください。僕、いい匂いがするんです!」
と言えば、相手の恐怖や嫌悪感を和らげる効果があった。あの時、暗い海の底に沈んでいきながら、いちごミルクの匂いにしてくださいとお願いしたのは間違ってなかった。
そしてぼくは、一ヶ月半かかって、ようやくここにたどり着いたというわけだ。
死体の身の上話を聞き終えた時、私は怒りに震えていた。
「なんで『神様助けて下さい』って祈らなかったの? バカなの?」
「だって、本当に願いが叶うなんて思わなかったから」
「見るも無残な水死体だけど、いい匂いがします――て、バカなの?」
「いやだから、それがせめてもの救いかと」
「なんで『死にたくありません』って思わなかったの? バカなの?」
「君がそういう状況になったら、そんな風に理性的にふるまえると思うのか? 死んだこともないくせに」
急に死体が怒りを爆発させたので、私は震えあがった。実際には荒げられるほど声を強く出すことはできず、顔の表情だって変えられないし動きも緩慢なのだが、そこから発せられる激情を感じ取ることができた。
「帰ってよ」
私は泣き出していた。
「ユージのそんな姿、見たくなかった。寂しくていっそ私も死んじゃおうかと思ったけど、できなかった。死にたくない。生きたまま脳みそを食べられるのは嫌。ゾンビになんてなりたくない」
「そんなことしないって言ってるだろ。俺を何だと思ってるんだよ」
「だって、死体じゃん。生きる屍じゃん。生きた人間を頭からバリバリ食べるんでしょ?」
「生きてないから屍なんだよ。君の悲しむ顔なんて見たくない。やめろよ、泣くのは」
彼の声がまた涙声になった。
「誰のせいよ。あなたがダイビングなんて行かなければ、釣りなんかしなければ、船から落ちなければこんなことには。だいたい、なんで船から落ちたりするのよ。しかも、溺れるって。あんた、泳ぎは得意じゃない」
「それは、突き落とされたんだ。船から落ちた時に少し頭を打ったから、水を飲んでしまって」
私ははっとした。ダイビング仲間三人の顔が順番に頭をよぎった。うち一人は彼の幼稚園時代からの幼馴染で、もう一人は会社の同僚、残りの一人はいつだかのダイビング旅行中に仲良くなった人物だ。
「どうして、誰がそんな……まさか、殺された無念を訴えるために私のところに?」
「いや、突き落とされたっていうのは冗談。思いがけない大物がかかって、釣竿を持って行かれそうになったから、離すまいと必死でリールを巻いていたんだ。その時強い風が吹いて、帽子が飛ばされそうになって一瞬気が逸れた隙に、バランスを崩して竿ごと持っていかれて、落っこちちゃった。でかい獲物だったのに、惜しかったな」
「…………」
「そんな顔するなって。涙、止まっただろう?」
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