2/4 あれは三ヶ月前……

 水死体が玄関の三和土に昏倒している光景は、なかなかどうして、見るに堪えない(元が死体なだけに、気絶しているのか再び死んだのか判断がつきかねた)。

 一度死んだのだから、そのまま死に続けていればよかったのに。魚の餌になって海の藻屑と消えればよかったのに。


 私は気を落ち着かせるために、玄関を入ってすぐのキッチン――つまり、死体はすぐそこに転がっている――で、マグカップを水道水で満たし、レンジで温めてからハーブティーのティーバッグを湯に浸した。


 ユージと私は三ヶ月前までは恋人同士だった。

 スキューバダイビング好きの彼から仲間と共に沖縄に行く計画を聞いた時、私は特に反対しなかった。私自身はカナヅチであり、どれだけ誘われてもダイビングを始める気は一切なかったのだが。


 カナヅチなだけでなく閉所恐怖症の気もあるらしい私にとって、ダイビングスーツや酸素ボンベ、レギュレーターといった装備にがっちり身を包んだ状態で、海の中という広大な密室に閉じ込められるなんて、想像しただけで恐怖だ。ボンベの故障やサメに襲われるなど、あらゆるアクシデントが起こり得る。だから、本当は、彼にそんな危険なことはやめてもらいたいと常々思っていた。


 皮肉なことに、彼はダイビング中に事故に遭ったのではなかった。ダイビングに一緒に出掛けた仲間の発案によって急遽参加した沖釣りツアーで船から転落したのだった。


 私の元にダイビング仲間の一人から連絡が来たのは、彼が行方不明になった翌日だった。私は、前日とその日の朝彼に送ったメッセージに返信がないので、少し不安に思っていたけれど、私が心配は、南の島で開放的になった彼が現地で知り合った女性と朝まで……などというもので、今思えば的外れもいいところだった。


 遺体が見つからないからにはまだ希望があると、三日目までは思っていられた。だが四日目、五日目と過ぎると、さすがにそんなに楽観的ではいられなくなり、とにかく見つかってほしいと願うようになった。例えどんな状態でも、見つからないよりはましだろうと。


 地元の漁師も加わった石垣海上保安部による捜索は六日間で打ち切られた。ユージは一人っ子であった。ご両親は現在に至るまで、遺体なしで葬儀を行うことを拒み続けている。


 私は彼が行方不明になってから一ヶ月間泣き暮らし、三ヶ月が経過した現在、ようやく彼のいないこの現実と折り合いをつけられるようになった。いや、もういい加減きりがないと、ようやく開き直りにも似た覚悟が固まったところだった。


 それまで、彼がひょっこりと、何事もなかったかのように戻って来ることを夢想しなかったと言えば嘘になる。何度も夢見ていた。だが、その場合は当然のことながら、出かけて行った時とあまり変わらぬ姿で帰って来ることを前提としていた。せいぜい、恐ろしく日焼けしたとか、ガリガリにやせ細ってしまったとか、その程度の範疇に納まる変化を。


 少し冷めたハーブティーを、ごくりと喉を鳴らして飲み込んで「死体だなんて、冗談じゃないわよ」と大きな独り言を呟いた。彼が行方不明になってから始めた悪癖だ。


「ぐはあっ」と一声叫んで、死体が起き上がった。


 私は驚きのあまりほとんどのハーブティーを自分にぶっかけてしまい、忌々しい死体を睨みつけた。


 改めて見ると、凄まじい姿だった。左腕は肩の付け根からなくなっていたし、水膨れしてボロボロの顔や体に、かつてのユージの面影はなかった。ただ、水死体として自分の前に現れそうな人物の心当たりが他になかったから即座に彼だと判断できただけで。


「君は心変わりしてしまったんだな、カナコ」


 死体が涙声で言う。いや、海水が鼻腔かどこかに詰まっているせいかもしれない。死体には涙を流す機能なんてないはずだから。


「心変わりですって? 海で亡くなった恋人を忘れようと必死で努力して、ようやく忘れられそうになってきた、というだけよ」

「でも、こうして帰ってきた」

「誰がそんな姿で帰って来いと」

「例え何があっても僕を愛すると、誓ってくれたじゃないか」

「『ただしゾンビと化した場合は除く』っていう小さな注意書きを、あなた見落としたんでしょう。事故で怪我をした、あるいは病気になったとでもいうのなら、あなたを支え続けようと思ったかもしれない。だけど、死体の面倒なんか見られない」

「僕は、たとえどんな姿になろうとも僕だよ!」


 ゾンビはサメに食われなかった方の右手を差し出しながら、一歩前に踏み出した。


「気持ち悪い! 来ないで!」

「でも……いい匂いがするんだよ」

「はあ?」

「死んでるみたいな臭いはしないから、嗅いでみて!」


 そういえば、先ほどから腐敗した死体が発するはずの悪臭は一切していない。それどころか――


 私は少しだけ距離を縮めて、眉間に皺を寄せ、ふんふんと鼻を鳴らした。


「何、この甘ったるい匂いは」

「君の大好きな、いちごミルクだよ」


 死体の声が心なしか誇らしげに聞こえた。


「釣り船から落ちて水を飲んでしまって、僕はどんどん沈んでいった。苦しかったよ。でもじきに平気になった。どんどん落ちていくにつれ、周囲が暗くなっていった。ああ死ぬんだな、と思った。このまま魚の餌になって死ぬんだと。水死体っていうのは悲惨だよ。例え僕の遺体が見つかったとしても、家族や君には到底見せられないようなひどい姿になるんだろうなあって、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。だからせめて、腐敗臭だけでもなんとかならないかと思ったんだ。『神様、せめて僕の遺体がいちごミルクみたいにいい匂いになりますように』咄嗟にそう願ったんだ。君の大好きな、かき氷のいちごシロップと練乳の匂いさ。そしたら、祈ってみるもんだねえ。この通り、願いが叶ったよ」


 それから死体は、沖縄の海からどうやってここ、本州のほぼ真ん中の愛知県までたどり着いたか、長い話をした。

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