今日の空を知らない君へ

安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売!

 かつての私は、青空を知らなかった。


 かつての私は、立ち止まることを悪だと感じていた。


 かつての私は、自分が洗脳されていることに気付いていなかった。



 かつての、私は。


 自分がブラック企業にいるのだと、知らずに働いていた。



  ※  ※  ※




『ブラック企業』


 そんな単語を聞いて、あなたは何を思うだろうか。


 サービス残業、低賃金、長時間労働、各種ハラスメント、無能な上司。


 そんな言葉をつらつらと思い浮かべた後、あなたはこう思うかもしれない。


『私だったら、そんな企業、最初から入らない』と。


 私だって、そう思っていた。ブラックだと分かっていながら入社して、ヒイヒイ言いながら働き続けるなんて、馬鹿か、よっぽど就く職がないか、働くことが好きな人間か、そんな所だろうと。




 これはそんな私が、ブラック企業を辞めて数年が経った今、ようやく書けるようになった『ブラック企業と気付かず働いていたかつての自分』の考察話。




  ※  ※  ※



 私が新卒で入社した会社は、誰もが知っている大手小売業の系列企業で、生鮮食品ス-パーを展開している会社だった。名前を言えば誰もが知っている会社。その時点である程度自尊心が満たされた。


 この会社では、系列会社の新入社員をすべて集めて、大規模な入社式を行う。その後は一週間ほど新入社員をホテルに缶詰めにして研修。私が入社した会社はこの合同入社式の前から『合宿』と題した泊まり込みの研修があって、さらに合同入社式が終わった後も研修センターで1カ月ほど研修があった。


 この研修が、いわば洗脳の会場だ。朝9時から夜9時まで、休み時間はあるもののホテルや研修センターに軟禁されてみっちり会社のイロハを叩き込まれる。社訓の書き取り、暗唱を一言一句違わず覚え込むまでやらされて、一定期間でできるようにならなければ居残りの罰則を科された。


 最近になって知ったのだが、これは典型的な洗脳の手法であるらしい。だけど現場にいる私達には、そんなことは分からない。いや、。同期の一人が『これは洗脳だ!』と叫んでいたけれど、私を始めとした他の人間は『何言ってんの、お前』と冷ややかに彼を見ていた。


 今思えば、彼の発言の方が正しい。だけど私達はそれが分からず、彼は正しかったのに排除された。『できない人間』とされた彼は人事から罰則を与えられ、課題をクリアできた私達は人事に大層褒められた。優秀だと、期待していると、賛辞を雨あられのように与えられた。


 長時間の缶詰。外部との接触が断たれた環境。社訓の暗記という思考力と猜疑心の破壊。絶対的に上だと叩き込まれた相手から与えられる飴と鞭。


 そして人事に注がれた『君達には期待している』という言葉からの優越感と、その裏返しの『できなくなったらああいう風に接されるんだ、同期達にあんな目で見られるんだ』という恐怖。


 研修を終えて各店舗に配属になる頃には、立派な奴隷が出来上がる。会社が命じることに、上司が命じることに、命を懸けてでも従順に従う奴隷が。


 でも、ここで運がある人間は洗脳が解ける契機がやってくる。


 それが直属上司。店に配属になったばかりの新人達にとってそれは、各部門の主任達になる。


 スーパーというのは、店舗が違えば天と地ほど風土が違う。同じ名前で同じことをしている所がたくさんある別会社、くらいに考えてもいいくらいには。同じ店であっても、部門が違っただけでそこにある空気感は微妙に違う。


 新卒達は、そこで初めて実際の働き方を覚える。殻から出てきた雛が、親鳥を見て歩き方から餌の取り方、そしてやがては飛び方を学ぶように。


 運が良い人間は、そこで研修時に叩き込まれた洗脳を解いてもらえる。仕事はほどほどにやればいい。会社は忠誠を誓う相手じゃない。仕事は、生きるための金を稼ぐ手段のひとつであって、その奴隷になるものじゃないんだと。


 ……その点で言えば、私はとことん、運がなかった。


 私がいた店では、社員の全員が全員、仕事の奴隷だった。仕事の鬼、と言えば格好良いのかもしれないけれども。そして私は、そんな上司や先輩達のことを格好良いと思っていたのだけれど。


 あそこは、およそ人間が働くべき場所じゃない、地獄だった。


「新卒には知識もない。経験もない。だから誰よりも働く。これこそが美徳」

「パートの手が足りないならば社員が補うしかない」

「だが社員にしかできない仕事もおろそかにしてはいけない」

「売上の数字は覚えていて当り前。即答できて当たり前」

「課された仕事は制限時間までにこなして当たり前」


 それが上司の常識で。それが店の常識で。


 上司が、店が、『常識』だと言うならば、私にとってもそれは疑うべきことなどない『常識』。


 思考力と猜疑心を徹底的に叩き壊されて、まっさらになった私の『親鳥』となった人達は、自分達にもそんな働き方を課して、その姿勢を一切疑うことなどない、仕事の奴隷達だった。


 私がいた店は食品売場のみ24時間営業の所だったから、いつでも店が開いていて、早朝出勤も長時間残業もしたい放題。


 早朝の荷物が6時に届く店だったにもかかわらず、私の直属上司は毎朝4時に自主出勤していた。でも早朝手当てがつく時間帯はタイムカードが切れなったから、上司はいつも5時半過ぎに出勤のタイムカードを押していた。


 荷物が届いて、品物を並べて、モールのグランドオープンの9時に合わせてバックヤードに荷物を引く。売場が運営店舗の中でも一番広かった私の店は、パートさんの人手が足りなかったこともあり、到底3時間で埋めることなどできない。


「それでも、やるしかない。できる策を考え、行動しろ」


 それが上司の口癖で、その無茶を実行するために上司が自主的に取っていた手段が朝4時からのサービス出勤だった。


 ただ、上司はこの朝4時出勤を、私には課さなかった。強要すれば、それこそ上司の首が飛ぶから。


 上司が言った言葉は、ただひとつ。


「売場に出られる時間を、一分一秒たりとも無駄にするな」


 だから私は、考えた。会社の奴隷の思考回路で。


 結果、私は6時出勤に対して、毎朝5時には店に来て、誰もいない事務所でタイムカードを切れる時刻を待ちながら、メールや売り上げの数字をチェックする習慣が身に着いた。


 私が自発的に始めた行動。シフトに組み込まれているわけじゃない。いつだってやめようと思えばやめられた。


 だけど、私は怖かった。


 人事から罰則を与えられた同期。そんな同期を冷ややかに見ていた私達。


 ……努力を怠れば、次は私があの視線にさらされる。


 最初は恐怖。一週間も続けば、それは習慣となり、あとは惰性。


「俺は朝早出した分、中抜けで休む。その間、お前に売場を任せる」


 私の部門には珍しいことに年次が上の先輩社員達が何人かいたけれど、直属上司が重要な仕事を任せるのは、いつだって私だった。


「あいつらは仕事ができないし、信頼できない。俺はお前を次期主任として育てたい」


 それが、上司から最初に与えられた飴。そして私の誉だった。


 私は。この優越感が、私を支えていたと言ってもいい。


 どれだけ重たい仕事も。どれだけ理不尽な量の仕事も。信頼に裏打ちされた物だったから、どれだけだってこなした。嘆きも、怒りも、『どうして私だけが』という言葉さえ、私にはなかった。


 だって、私は、できる子なんだから。


 できる子だから、私はやらなきゃいけない仕事がたくさんある。


 仕事がたくさんあるのは、良いこと。


「夜の人手が薄いから、お前、20時くらいまで売場の管理をしてくれないか」


 早朝の早出は私の勝手。だから上司は躊躇いなく私に残業を言い渡す。


 全ては店のため。


 洗脳済みの社畜奴隷は、その一言で迷いなく首を縦に振る。自身も会社の奴隷である上司が求める言葉は、いつだってたった一言。


「承りました」


 上司は満足して帰っていく。そういえば昼休みの時間帯に合わせて上司が中抜けをしていたから、その間売場のメンテナンスをしていた私は休み時間も取っていなかったなと気付くのは、大体このタイミングだった。これが夕方6時過ぎのこと。


 それでも私は、それを理不尽であると思わなかった。


 だって、みんなそうやって働いているから。昼休み返上が当たり前で、堂々1時間キッチリ休憩を取っている人間は白い目で見られていた。売場だって、その1時間でたやすく崩壊する。崩壊した売場を店長に目撃されたら、ただじゃ済まない。


 叱責を買うくらいならば、昼休みなんていらない。


 それが私の結論だった。


 結局20時まで売場に出続けて、最後に書類仕事が片付いていないことに気付いた。売場半分の仕入れとレイアウトを、上司は『主任ステップアップへの勉強』として私に課していた。だがその『課題』を、私は業務時間内にこなせない。自然とそれらは残業時間か、帰宅後にこなすことになる。


 店のパソコンからしかやれないことは売場のメンテナンスが終わった後か、早朝に。書類をプリントアウトして持ち帰れるものは、家でこなすようになった。


 それらを、大変だとは、思っていなかった。


 だって、これが、。みんなこうしていた。みんながやっている。私だけが文句を言うことなんてできない。


 私がだから、上司は私をこのの中に招いてくれた。先輩達と私は違う。私の方ができる。


 世間一般だって、みんな言うじゃないか。って。そうだよね、だからこれは普通のこと。


 給料は同年代の人より多い。使う暇はないけれど。そういえば最近、休みの日も家で持って帰った仕事をずぅっとしてるけど。でも、私は同年代の人達よりもお金持ち。だからここはブラックなんかじゃない。ただ仕事がきついだけで投げ出したら他も同じだって、人事さんも言ってた。同年代に同じだけ出してる他の会社はないぞって。残業代だって、申請すれば1分単位で付けてもらえる。最近はサブロク協定にひっかかりそうだから、夜までシフトに入ってても15時で切れって言われるけど。あれ? 私の定時って15時なの? じゃあ毎日22時まで働いてるのは一体なに? いや、私の仕事が終わらないからいけないんだ。だからやらなきゃ。片付けなきゃ。明日だって今日以上の仕事が降ってくる。今日の仕事は、今日という期限内に終わらせなきゃ。


 苦しいな。何だか頭がクラクラする。でもこれがなんだから。発注数が決められなくて眠れないなんて、私が未熟な証拠なんだ。夢の中でまで発注数を考えてるなんて、私、なんてできる子なんだろう。


 優越感と、それを失う恐怖。働いたら働いただけ、周りからは褒められた。心配してくれるその言葉に、酔っていた。


 そして何よりも。


「私は、ブラック企業に捕まるような、みじめな人間じゃない……っ!!」


 破壊された思考回路。奪われた猜疑心。


 育てられた虚栄心。自己犠牲への陶酔感。


 思考する力と時間を奪う量の仕事。『仕事』以外のことに目を向ける余裕なんて、どこにもない。


「……今日の天気は、どうだったんだろう?」


 日が昇る前の暗闇の中出勤して、店を出るのはとっぷり日が暮れてから。


 入口が遠くて窓もなかった持ち場からは、青空も見えなければ、季節を感じる風も、雨の音も、何も知ることはできなくて。


「……あぁ、そんなこと言ってないで、返品伝票書かないと」


 ふと一瞬立ち止まって、外を覗きに行くことすら、私は私に許せなくて。


「上司は休日も出勤してきて休みなく働いてるんだから……私だって、働かなくちゃ」


 そうやって働くことが当たり前なのだと、妄信的に、信じ込んでいた。


 私は私自身が、社畜だとは思っていなかった。会社がブラックだとも思っていなかった。


 これが当たり前の働き方なのだと。これが世間の普通なのだと。この忙しさこそが『仕事ができる人間』という勲章であるのだと。


 ……ずっと、そう、思っていたんだ。




 ※  ※  ※




 ……私なりの、結論を述べたい。


 ブラック企業で働く人間には、いくつか種類がある。


 下を黒く使うことで蜜を吸っている人間。自分がブラック企業にいると分かっていても、諸事情あって耐え忍ばなければならない人間。自分が過酷な環境にいることに酔っている人間。


 そして、自分がブラック企業にいることに気付いていない人間。


 もしもあなたの大切な人が、ブラック企業に洗脳されていて、ブラック企業ということに気付かず働いていることに『外側』にいるあなたが気付いてくれたのならば。


 どうかその人を、その黒い海から、力くで引き上げてほしい。


 当人はきっと、気付けない。うっすら気付いていたとしても、あえて気付かない振りをしているかもしれない。


 だけどそんな場所にいたら、ヒトは必ず壊れてしまうか、自分で自分を壊してしまう。


 私が決定的に壊れてしまう前に黒い海から抜け出せたのは、下手に想像力があったせいで自分で自分を壊せなかっただけ。その隙に家族が力尽くで引っ張り上げてくれた。


 そうじゃなかったら、どこかで必ず倒れていた。壊れていた。死んでいた。


『死』がどう考えても苦しくて痛いものだと想像する力さえ失ってしまっていたら、きっと私は。


『死にたい』ではなくて、『ここに飛び込めば明日の発注書の数字を決めなくていいのか』くらいの気持ちで、電車に飛び込んでいたんじゃないかと思う。


 今でも、あの空虚すぎる感触を、地下鉄を見ると、思い出す。


 大好きだった読書を、ただただ面倒だと思った瞬間に絶望さえ抱けなかった自分。寝食を削って創作に打ち込んできたのに、ペンを握って白紙の紙の前に座ってみてもペンを動かせなかった自分。


 大切だったはずの自分を取り戻すのに何年もかかって。日常が過去になって、過去がトラウマになっていると気付いて、必死に心身を立て直そうとして、何とか書くことを取り戻して。それでも傷となった心は、ふとしたことで簡単に滑り落ちそうになるから。


 だから、そうなる前に、引き戻してあげて欲しい。無理やりにでも。




 ずっとこのことは何か形に残したいと思っていて、でも小説にしようと思って書き出してみても、わーっと呑み込まれてしまったり、逆にもう思い出せないくらいに霧に包まれていたり。


 たったこれだけの文章でも、書けただけ褒めてあげたい。飴でも、鞭でもなく、ただ純粋に、あの頃の自分の頭を撫でてやりながら。




 君が壊れなったおかげで、私はまた、こうして筆を執ることができたよ。


 あの時、最後の想像の力を捨てないでくれて、ありがとう。飛ばないでくれて、ありがとう。


 今日の空は青くて、風がビックリするくらいに冷たいです。


 私は、幸せになりました。


 この文章を読んでくれたあなたにも、青空に満たされた幸せな未来がやってきますように。




 今日の空を知らない君へ


 空の青さを知った私より

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