酸化少女とバスジャック

詩一

酸化少女とバスジャック

 わたしは酸化している。

 でも、自分が酸化しているだなんて、恥ずかしくて誰にも言えなかった。

 家族も、友達の誰だって酸化していない。担任の教師だって、部活動のコーチだって酸化していない。見たこともないし聞いたこともない。


 わたしの隣でかれこれ30分以上はバスを待っている中折れハットを被った紳士でさえ、酸化はしていないだろう。

 あの信号機はどうだろう。青い目元の下側にうっすら茶色い線が垂れている。

 いつ頃から、どれくらいああやって酸化し続けているのかはわからないけれど、ぼうっと突っ立って三色を光らせているだけの彼(或いは彼女)がまるでわたしのように思えた。

 酷い虚脱感に包まれ、私はベンチから腰を浮かすことすら億劫になった。

 目を落とした先にはベンチの足のパイプの先があって。それは茶色く鈍くなっていて。もしかしてわたしはこのままベンチと一体化していくのだろうかなんて考えて。どうせなら信号機になりたかったとも考えて。それならいっそあの鉄塔にでもなりたいわと仰ぎ見たところで電気がビリビリして痛そうだから落としどころはやっぱり信号機だなと思ってもう一度信号機を見てみた。


 赤い目で車を止めている。


 そういえばこのバス停で待ち続けている中折れハットの紳士は今日の未来予報を見なかったのだろうか。

 7時より前に家を出てしまったのだろうか。私はめざましちゃんねるの6時台の内容を知らないけれど、7時15分に放送している未来予想は、一時間前の6時15分にもやっているのではないだろうか。それも見なかったのだとしたら、情弱な自分自身を呪うしかない。


 今日のめざましちゃんねるの未来予報コーナーでは、「タキダイ線ミズフチ駅経由ヒカリガオカ行きはバスジャックに遭う」と言うアナウンスがあった。だからタキダイ線ミズフチ駅経由ヒカリガオカ行きは終日運休だ。

 かく言うわたしもこうしてベンチに座って30分以上呆けているわけだけれども、これにはちゃんとした理由がある。それは学校をサボる口実を作るため。めざましちゃんねるを見忘れたと教師には言い訳するつもりだし見る義務があるなんて言わせない。情報の取捨選択の重要性は小学校低学年で習うような内容だ。めざましちゃんねるの情報に限ってはすべて正しいだなんていうのは洗脳になってしまうから、教師も下手なことは言えないだろう。


 この紳士も会社に行きたくなくてここに居るのだろうか。けれど、普段この人をこのバス停で見かけたことはない。同じ時間帯に出勤しているなら何度か見かけているはずだし、それならば頭の片隅に記憶が在ってもおかしくないのに。

 まだ錆びていないはずの脳の中で電気信号をやり取りして、一つの解に辿り着く。

 そうだ。きっとこの紳士がバスジャック犯なのだ。謎は解けた。半分ほど。残る半分は自分の行動で確かめてみる必要がある。声を掛けて見よう。


「……あの——キィッ!」


 咽喉が錆び付いて、声からしなびたスキール音が発射された。


 紳士は飛び上がる。その際にポケットから銀色のナイフが零れ落ちた。びっくりさせてしまったけれど、これでわたしの謎の9割は解けた。それにしても抜き身でポケットに入れるとは、なんて危ない運搬方法なのだろう。


 わたしは座ったままの姿勢で地面からナイフを拾い上げて持ち主に返そうとした。けれどもそこでとてつもない嫉妬心に駆られた。このナイフは錆び付いていないのだ。

 自ら動こうともしないこのナイフがピカピカで、毎日学校に通って一生懸命勉強しているわたしが酸化しているなんて、こんな理不尽なことがあるだろうか。今日はサボタージュだけれどもそれは棚上げ。


「え、どうしたの?」


 中折れハットの紳士は私の顔を覗き込んでいた。心配そうな顔をしている。気付けば頬を熱いものが通り過ぎていた。きっと泣いているんだ、わたし。

 キューキューとした熱い炭酸みたいなものが、咽喉と胸の間で膨れていく。ああ、きっとこれが酸化の原因なんだなって思った。せめて涙の色は赤茶色く汚れてなければいいな。


「危ない、ですよ」


 零れ落ちそうになる声をやっとのことで拾い上げて、ナイフを渡す。


「手、切っちゃいますよ」

「やさしいんだね。ありがとう」


 紳士はニコッと笑った。

 バスジャック犯のはずのその人が、やさしさの塊のように思えた。


「今日は運休だって、知りませんでしたか?」


 わたしがそういうと、彼は乾いた笑いを漏らして、なるほどと頷いた。


「どうりでこないわけだ。僕の犯行がバレてしまったわけだね」

「ええ。やっぱりバスジャック犯だったんですね」

「そうだよ」

「どうしてバスジャックをしようと思ったんですか?」

「妹が錆びた」


 こともなげに、めざましちゃんねるのお天気キャスターが今日の天気を言うように吐き出された言葉に、わたしは言葉を失った。

 どうして錆びたらバスジャックなのかを聞く前に、私は感動してしまって、またしても涙をポロポロと零してしまった。

 なにはともあれこの人は、妹が錆びたがためにバスジャック犯を買って出るような人なのだ。なんて妹思いなのだろう。わたしの家族はどうだろうか。兄は居ないが、父はバスジャック犯になってくれるだろうか。クラスのみんなは、学校の教師は、コーチは。誰もピンとこない。きっとわたしのためにそこまでするような人は居ないんだろう。居ないんだろう。居ないきっと。居ない。


「やさしいんですね」

「そんなことはないさ。僕がちゃんとしていれば」

「ナイフはピカピカでしたよ」

「ああ、僕の所有物だからね。でも、妹には彼氏ができて、それで」

「その彼氏のせいで錆びたんですね」

「まあ……端的に言えば、そうなる」


 紳士は私の隣に腰を下ろして空を仰いだ。


「彼氏が浮気をしたんだ。ショックで妹は不登校になった」

「それは大変」

「責任を取らせたい」

「お兄さんがバスジャックをしたら彼氏が責任を取ったことになるんですか?」


 イコールは遥か彼方にあるように思えた。


「妹の彼氏はバスの運転手でね。彼が運転するルートは妹が通学するルートとは違うんだ」


 徐々にイコールが近付いてくるので、わたしは相槌を打って先を促した。


「バスジャックをして、まずは彼氏の運転でうちの前まで行く。妹を乗せたら妹が通う学校まで走らせるという算段だったわけだよ」


 ニアリーイコールの前で立ち止まる。


「一旦はそれで良いとしても、それじゃあまた浮気をしてしまいませんか?」

「もはやそれは問題じゃあない。僕は二人のりを戻したいわけじゃあないんだ。ただ、お前がやったことはこれほどまでに自分勝手なことだったんだということを教えたかった。浮気が彼女を酸化させてその家族を犯罪者にするってことを。彼氏がそれを理解して、そして妹が再び学校に通うようになってくれればいいなと思ったんだ」


 銀色のピカピカのナイフを思い出す。

 彼の所有物は、きっと酸化しない。


「そうしたら、きっと妹さんの錆び付きも落ちるでしょうね。いいな」

「君も少し酸化が進んでいるようだね。……たまに、ザラッとしているようだし」


 たまに。と言う言葉の前で立ち止まったのは、きっと先ほどのスキール音を思い出したからだろう。なんだか少し恥ずかしい。わたしは自分の頬が赤くなっていることを自覚しながら会話を続ける。


「そうなんです。どうにかしてくれませんか?」

「いやいや、僕は犯罪者だよ」

「でもまだなってません」


 紳士は目を丸くして、それからホッとしたように目を細める。まなじりの笑い皺が、夕凪の波打ち際みたいに穏やかで、わたしの心に安らぎを与えた。


「そうだったね」

「犯罪者になるまでの間でいいので、私の酸化を防いでくれませんか?」


 彼の犯行を止めるつもりはなかった。バカな真似はやめてくださいだなんて三文芝居を打ってしまうほどわたしは愚かではない。そもそも彼の行為はバカな真似なんかに思えなかったから。妹への愛情を唾棄するなんて、できるはずないのだし。いつか未来予報の目をかいくぐってバスジャックに辿り着ければいいなとさえ思った。


 紳士は唸ってから、おもむろに中折れハットを取ると、うやうやしい手つきでわたしの頭に被せた。


「バスジャックしそこなったのもなにかの縁だろう。いいよ。その代わり妹の友達になってやってくれないかい? そうすれば僕がバスジャックをしなくても妹の錆びが取れるかも知れない」


 それは名案だ。この人はきっとピカピカ作りのスペシャリストなのだろう。


「いいですよ」

「バスジャックよりも時間は掛かるだろうけれど、ね」


 彼は片眉を上げて口をへの字に曲げて言った。簡単なことではないのだろう。しかしその複雑な表情は、錆びていては絶対にできないものだ。


 少し希望が湧いてきた。これなら信号機にならなくて済みそうだ。

 中折れハットに上半分の景色を隔てられて、わたしの視界は古びたアスファルトを辿ることを余儀なくされる。視線はその先に走った。やがてスモーキーな水色に縁どられた信号機の足元に辿り着く。視線を上げていく。ハットの鍔の両端を指で摘まんで顔の角度を広角に開いていく。

 茶色く垂れた錆びの上で、その目は赤をやめてパッと青く光った。

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