第101話 お栄の旅立ち―其ノ参
やがて江戸に春が訪れた。
お栄は北斎の
父親の小さな墓に掌を合わせ、語りかける。
「お父っつあん、わたいは小布施に行くことにしたよ。多吉郎のとこに、このままずっと厄介になるのも、どうかなと思ってさ。毎年、
墓参を済ませた後、ふと気がつくと、お栄はいつの間にか、以前暮らしていた聖天町を歩いていた。
聖天横町へと入ると、かつて毎日のように通った煮売屋や屋台の四文屋などが、「おやっ」という顔をして、ぺこりと頭を下げる。
たまたま出くわした一膳飯屋の小僧が、
「姐さん、最近、顔を見せないじゃないか。いい
と、ませた口を叩いて通りすぎる。
ぶらぶらと歩くお栄の行く手に、こんもりと樹木に覆われた小高い森が見えてきた。
お栄は下駄の音を鳴らして、聖天宮の石段を上がり、大川の川風が吹き上げてくる境内の東端へと足を運んだ。
風が心地よい。
向こう岸の
見馴れた景色を眼にしっかりと納めた後、お栄は本堂の
「聖天さま、見守っておくんなさいよ」
江戸三座の櫓太鼓がどんどん、どんどんと鳴った。
その瞬間、お栄は「いいね、いいねえ」と笑顔を見せた。
櫓太鼓の威勢のいい音が、魔除けの「切り火」のように感じられたのである。
お栄の頭の中で、火打金と火打石がカチリと鳴り、豪勢なほどに切り火の火花が飛び散った。それは旅立ちを祝う火花だ。新しい自分への門出の切り火だ。
帯に差してある
「あばえ、聖天さま。あばえ、みんな」
お栄は、腰の長煙管にちょいと手をふれて、待乳山聖天宮の石段を一気に駆けおりた。
「善さん、わたいは行くよ。一緒に行くかえ」
―完―
北斎とお栄-その晩年 海石榴 @umi-zakuro7132
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