冬の空から

緑川えりこ

第1話

今にも雪が降り出しそうなどんよりと暗い昼の街をなりふりかまわず全力で走る。

作業着のポケットに入れている小銭がジャラジャラとぶつかり合って音を立てる。

40歳目前の身体。普段、ろくに身体も動かしてねぇと言うこともあり、とっくに息はあがっている。


「事故った。今、福岡病院。203号室」

数十分前に届いたLINEの文面が頭にこびりついて離れない。

絵文字も何もないその文が俺の不安を増幅させる。


土木作業員である、石橋いしばし秋人あきとは、午前中の現場仕事が終わり、ちょうどお昼休憩に入ったところだった。

昼ご飯を買うために、現場近くのコンビニにあるトラック用の大きな駐車場に会社の2トントラックを停める。

コンビニの中は、外のこごえるような寒さから迎えてくれるような温かさだった。

秋人は、カップ麺のコーナーへ一直線へ向かう。緑のたぬきか、赤いきつねか迷った末、赤いきつねを選んだ。

いつもは、妻の佳菜子かなこが弁当を作ってくれているのだが、その佳菜子が今日は珍しく寝坊したので、こうやってカップ麺にありついている。

レジでお金を払い、その横にあるポットの給湯ボタンを押す。

カップの内側にある指定された線までお湯を注ぎ、蓋を閉めて、駐車場に停めている会社の2トントラックへと乗り込んだ。


しめしめ、と秋人は一人トラックの中でにんまりとする。

秋人は冬に食べる赤いきつねと緑のたぬきがたまらなく好きなのだ。

冬の現場仕事は冷える。だからこそ、この時期に食べる熱々の麺はクソありがたい。

お湯を注げば、あっという間に、食べごたえ抜群のコシのある麺が完成する。ただの2トントラックが、出汁の香るうどん屋に早変わりだ。

しかも、コンビニの赤いきつねは、俺の大好きな揚げがなんと2枚も入っているというのだから、買わずにはいられねぇ。

タイマーが5分経つのを待ちながら、食べ終わったあとの自分を想像する。

――たまらない。

食い終わったあとは、口の中が永久的に幸せだし、身体がほかほかしているから、ありえねぇほど冷え切った寒空の下での午後からの仕事も乗り切れるのだ。

あぁ、早く食いてぇ……。

秋人の腹の虫が大きな声で鳴く。

しかし、そのわくわくも虚しく、タイマーが鳴る前にスマホから放たれる無機質な音が、佳菜子からのメッセージを告げた。





「佳菜子!」

息を切らしながら、203号室と書かれた、病室のドアを勢いよく開ける。

「あ〜、秋ちゃん!来てくれたの〜!えへへ、右腕骨折しちゃった〜」

病室のベッドの上で、右腕にぐるぐると包帯を巻かれた佳菜子が、いつものように、のほほんとした笑みを向けてくる。

力が抜けて、尻もちをついてしまいそうになる足にしっかりと力を入れる。

良かった。生きてた。

だが、それと同時に、だんだんとむかっ腹が立ってきてしまった。

「馬鹿!お前、怪我、たいしたことねぇなら、ねぇって、連絡ぐらいしろよ!!なんなんだよ!あのメッセージは!!もうちょい詳しく書けよ!」

「だってさぁ、利き手の方を骨折しちゃったから上手く打てなくて」

ぺろ、と舌を出しておちゃらけた様子の佳菜子。

「あのなぁ!!俺がどれほど心配したと思ってんだ!!くたばっちまったのかと思っただろうが!」

秋人のもともとの言葉遣いの荒さに大声が加わり、凄みが増しているが、佳菜子は相変わらずのほほんとしている。


そういえば、佳菜子は昔から、そういう奴だった。

俺がいくら乱暴な言葉づかいでも、それを笑い飛ばしてしまうような女だった。

「九州男児は、やっぱり言葉が荒いのねぇ」

のほほんと笑う佳菜子にいつも、ほだされてしまっていた。


「……昼飯時だったのによ」

「ふふ、わざわざかけつけてくれて、ありがと。秋ちゃん」

今回もまた、佳菜子にほだされちまう。

それが、なんだか負けた気がして、また乱暴な言葉を吐いてしまう。

「お前、骨、折れてんのに、相変わらずぼけっとした顔しやがって。どうせ、事故った時もぼけっとしてたんだろ?

あーあ、お前のせいで、赤いきつね食べそびれちまった。もったいねぇ」

「今から、一緒に食べる?」

暗く重たい雲に覆われた冬の空から、ひょっこりと顔を出す太陽のように、にっこりと笑うコイツをかわいいと思ってしまう。

馬鹿か、俺は。もう40手前だってのに。

秋人は、決まりが悪そうに佳菜子から顔を背ける。

「……お前が食いてぇなら」

「ぜひ、お願いします。実はお腹ぺこぺこなの」


病院の1階にある売店で赤いきつねと緑のたぬきを無事に仕入れることができた。

給湯室でお湯を注ぎ、佳菜子のいる病室に戻る。

「ほれ、お湯も注いで来たぞ」

「秋ちゃん!ありがとう!」

心底嬉しそうな顔をする佳菜子。

「3分と5分だったよね」

「おー。もう、セットしてる。てか、お前、そんなにカップ麺好きだったか?」

「……もう、秋ちゃん、覚えてないの?」

「は?何が」

「赤いきつねと緑のたぬきが出来上がるの待ってる間に、プロポーズしてくれたでしょ」

子どものように拗ねた顔をする佳菜子を見て、忘れかけていた記憶が蘇ってきた。


たしか、15年前だったと思う。

同級生の佳菜子と付き合って3年、同棲して4年が経とうとしていた。

金貯めて、ちっちぇけどダイヤのついた指輪を買ってプロポーズしようと決めた。

そのために、柄にもなく洒落たレストランも用意した。

いざ、決戦の日。その日は、しんしんと雪が降っていた気がする。

一張羅いっちょうらまで用意して、気合い充分だったのだが、俺が体調を崩してしまい、洒落たレストランはおじゃんになった。

「雪が降ってるから、買い物にも行けないし、カップ麺でも食べよっか」と佳菜子は家にストックしてある赤いきつねとみどりのたぬきを用意してくれた。

俺の赤いきつねだけ、生姜とネギがトッピングしてあった。

「秋ちゃんのだけ、特別仕様だよ!早く体調良くなるようおまじないもかけときやしたぁ〜」

にっこりと笑う佳菜子がたまらなく愛しくなってしまって、気付いたら「結婚するか」と言ってしまっていた。

用意してあった指輪を、隠していたタンスの奥の方から出すと、佳菜子が子どもみたいに声をあげて泣き出すから、俺もつられて泣いてしまった。

ふたりで、ひとしきり泣いたあと、伸びた麺をすすった。伸びているのに何故か美味かった。

佳菜子の前で泣いてしまった、小っ恥ずかしい記憶だから、俺はこの記憶をできるだけ頭の片隅に追いやっていた。


「んなもん、忘れたよ」

「もう!男の人って覚えててほしいところは覚えてないんだから」

佳菜子がぶつくさモードになった時に、丁度良くタイマーが鳴った。

「ほれ、食わねぇと伸びるぞ。お前のたぬきは3分。俺はあと2分あるから」

「食べさせて」

「はぁ?」

「だって、利き腕使えないんだもーん」

「だもーんじゃねぇよ、40手前のアラフォーが」

「ふーふーしてね」

「……ふーっ、ふーっ」

「っ、クックック」

「ってめ!佳菜子ォ!笑ってんじゃねぇ!」

「ごっ、ごめん、なんか面白くて」

「自分で食え」

「無理無理!はい、あーーーーん」

大きな口を開ける佳菜子。

「かき揚げはもらうからな」

「ひどい!……あ!秋ちゃん、見て!窓!雪よ」

冬の空から降り始めた雪が、病室の窓から、ちらちらと見える。

「あー、外、えらい寒かったからな」


俺と佳菜子の前にはあの日のように、ほかほかと湯気が立ち上る赤いきつねと緑のたぬき。

そして、お互いの左薬指にはくすんだ銀色の輪っか。

ふたりをあの日と変わらぬ香りが包んだ。











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冬の空から 緑川えりこ @sawakowasako

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