6
帰宅して着替えた瞬間に課長のことは頭から抜け落ちた。読みかけだった漫画を読み終えたころには仕事のしの字も頭になく、Twitterを開いても思い出しはしなかった。
なので、翌朝出勤して早々に渡辺くんが「佐藤さん、やばいですよ」と興奮したように声を掛けてきたときには彼が何かミスを犯したのかと思った。
「どうしたの、発注ミスった?」
「違います、昨日の課長の話。ドラッグストアの」
そこでようやく言わんとしていることを理解した。昨日の課長、そういえばきちんとクレームをつけに行ったのだろうか。あの人の性格上、すっかり忘れて家に帰っていそうだけど。
渡辺くんは興奮冷めやらぬ様子で、今朝Twitterを見たら、と上ずった声を上げる。
「バズってたんですよ、学生バイトくんのつぶやきが」
おはようございまーす、と中村さんがオフィスに入ってきた。渡辺くんは彼女にも声を掛け、彼女も興味深そうに寄ってくる。続いて入ってきた高橋さんと山本さんも集まってきて、あっという間に三密が完成した。
「これ、1万近くリツイートされてます。昨晩のつぶやきです」
彼は私用のスマートフォンを繰り、僕たちに画面を見せた。
「ゆう(バイト戦士)」という名のアカウントのつぶやきだった。
『不思議な出来事。バイト中、レジに割り込みしてきたジジイが「マスクを隠してないで売れ!」と怒鳴りだした。入荷未定と言っても聞かず怒る怒る。後ろが混雑してきて、マジで勘弁してくれと思ったら、割り込みされた40くらいのスーツ着たリーマンがいきなりクソオヤジを怒鳴りつけた→』
「なに、この矢印」山本さんの質問に「この後に続く、って意味です」と答える。全員が読み終わったのを確認してから渡辺くんは画面をスクロールした。
『割り込みを怒ったのかと思いきや、「俺が先にこいつにクレームつけるつもりだったんだ、割り込んできて何だお前は、ふざけんじゃねえ」とジジイに怒る怒る。俺はポカン。リーマンは続けて「もっと想像力を働かせろ。マスクを手に入れるために頑張っている人の顔を→』
『パッケージに貼りでもしねえと、どれだけ大変か分かんねえのか」。ジジイ、気まずい顔してそのまま去る。呆然としている俺にリーマンはレシートと煙草を出して「今日買ったやつ、銘柄違うんだけど」と一言。クレームってこれ!?と思いながら平謝りした→』
『助けてくれてありがとうございますって言ったら、照れくさそうに「今は大変だろうからよ、頑張れや。これでも食え」と持っていたコンビニの袋を渡された。中にはお菓子が入っていた。突然の出来事に唖然としてたらリーマンは声を顰めて、「ところで、マスクは何時ごろ入荷する?」と聞いてきた→』
『お前も聞くんかい!と思ったけど、よく見たら何日かに一回マスク売り場を覗いてはすぐ帰る人だった。こうして思い返すとマジで意味わからん出来事で笑う。とりあえず、もらったお菓子食って明日もバイト頑張りまーす!』
リプライには「謎方向にキレてて笑った」「お前も結局聞くんかーい」「スカッとした」「ウケる」と他のユーザーのコメントが続いている。最初のツイートは1万人以上に拡散され、5万人以上がお気に入りに登録していた
「これってもしかして」高橋さんは驚きを隠せずに口に手を当てている。興奮状態の渡辺くんが「課長ですよね!?」と被せるように言った。
「すごい、有言実行じゃない。やるわねえ」山本さんは大笑いしている。
「マジでやったんだ!? やっばぁ」中村さんは腹を抱えて笑っている。「早く来ないかな。詳しく聞きたい」
まさか本当にやるとは思わなかったし、まさかバイト学生くんがTwitterでそれを発信するとは思わなかったし、まさかそれがバズって、まさかそれが渡辺くんのタイムラインに流れるとは思わなかった。
課長は30分ほど遅れて出社した。彼の出社を手ぐすね引いて待っていた僕たちは、鞄を降ろすまもなく質問攻めにした。
これ、課長ですよね。鬼の首を取ったかのようにスマートフォンの画面を見せつける中村さんは、さながら真犯人を問い詰める探偵だった。
「馬鹿野郎。こんなもん、こいつの虚言だろうが。Twitterはなあ、虚言ばっかりだって佐藤が言ってたぞ」
課長は言い訳じみたことを言ったが、手に持っているドラッグストアの袋から、マスクの箱が透けて見えた。
クレームはご遠慮ください 須永 光 @sunasunaga
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます