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 北風と太陽。意味が分からず首を捻っていると、山本さんが吹きだした。


「やだ佐藤くんってば、初めてその単語聞きましたみたいな顔して」

「いやあ、北風と太陽がクレームにどう結び付くかが分からず」

「店員さんの気持ちに寄り添って、優しーく注意して、この大変な時期に働いてくれてありがとうね、って感謝で締めるの。悪い気はしないでしょ」

 山本さんは得意げに言い、デスクからファミリーパックのチョコレート菓子の袋を取り出し、個包装をいくつか取って課長のデスクに置いた。

「お菓子でもあげて、『ミスをするのはいけないが、これ食べて頑張れよ』、とか言ってみたらどうです」

「えぇ?」


 不満げな声をあげる課長に、渡辺くんが助け舟を出した。


「そういう人は印象に残ると思いますよ」

「『以前も間違った銘柄の煙草を渡した人に同じミスをしてしまいクレームを受けた。怒鳴られるかと思いきや優しく諭され、「これ食べて頑張れよ」とお菓子を渡された。このご時世にこんなに優しい人がいるのかと思った。明日からも頑張ろう』」

「高橋さん、よくスラスラ出てきますね」

 感心する中村さんに、高橋さんが胸を張って得意げにしてみせる。課長は腕を組み、考えこんだ。

「悪かねえな。どうせ書かれるなら善人に映る方がいい」

「バイトくんがTwitterに書かない可能性の方が圧倒的に高いですけどね」


 ネットに自らの行いを書かれること前提で話している彼に、中村さんが釘を刺したところでその話はいったん終わりを見せ、なんとなく皆は仕事に戻った。

 僕も懸命に見積書を作成し、メールに返信し、取引先と価格の交渉をし、また見積書を作成する作業をこなした。

 雑談はおおよそ30分おきに繰り広げられたが、ほとんどは小林課長の独り言に端を発するものばかりだった。

 彼は出勤のたびに「昨日の都内は15人だってよ」と、ネットニュースで得た都内の感染者数を、誰に言うでもなく報告する。その独り言に対して山本さんあたりが「そうなんですかあ」と応じ、時に会話はそこで途切れ、時にそこから話題が膨らむ。

 今日は高橋さんが「あれ、猫同士でも感染が確認されたそうですよお」と補足し、そこから各自が猫派か犬派かを表明しあう流れになり、僕は猫派であったのだけれど、「佐藤は見た目からして犬派だろ。鞍替えしろ」と課長に謀反むほんを強いられるなどした。

 15時半に山本さんが「また今日も踊らされるかなあ」と嘆きつつ退勤し、定時を過ぎてすぐに僕たち――課長は除く――も帰宅準備を始めた。明日も出勤する予定なので、軽くデスクを整頓する程度にとどめる。

 課長はいまだキーボードを叩いている。僕たちが帰宅すれば彼ひとりになるが、彼の性格からして仕事をせずにネットニュースを眺めて時間を潰すのではないか。課長は典型的な「人がいないとやる気が出ないタイプ」だと噂だ。

 中村さんがひらひらと課長に手を振った。


「学生バイトくんによろしく伝えてください。それ、渡してくださいね。どうせなら社員証つけたままで行ってくださいよ。会社のイメージアップになるかも」

「絶対に嫌だよ」


 彼のデスク脇には、各々が上納した「こんな時期でも頑張って働くバイトくんへ差し伸べる太陽の光」という名の個包装菓子がコンビニの袋に入った状態で置かれていた。

 オフィスを出る。女性二人は連れ立って駅方面へ歩いていった。別の駅を利用している渡辺くんと僕も、自然と二人で駅へと向かう。


「課長、クレーム入れるんですかねえ」

「どうだろう。ああ見えて怒るときは怒る人だし」


 のんべんだらりとしていて始業時にすぐに仕事に取り掛からず、業務中も積極的に無駄話を始める課長の尊敬できるところは、仕事が早いことと自分の意見をはっきりと表明するところだ。

 小林は昔、かなり尖っていてね。理不尽なことを言う上司にキレて怒鳴りまくっていたよ。そう専務が話していたのはいつだったか。

 僕が入社した時には既に現在のポストについており、今のままの人となりだった。僕が大きなミスをしでかしても諭されはしたが怒鳴られることはなかった。渡辺くんが取引先を怒らせたときも、叱咤こそすれ声を荒げることはなかった。

 たまに突飛なことを言う、サボり癖はあるが仕事は早い上司。小林課長はその言葉で大体表現できる。むしろ、更に詳しく彼を表現しようとすると渡辺くんを虚言癖に仕立て上げようとした、だとか、就業時間にネットニュースを熱心に見ている、だとか、年に数回は禁煙宣言をするがいつも失敗している、だとか、不名誉なものばかりになってしまう。

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