第2話 クリスマスのリン④午前1時

 この本についての昔の噂を妻に話した。妻は実家の何一つ無い殺風景な和室に座り、この本を真剣に読んでいた。そして眼に涙をめていた。午後の陽光が障子を通して照らす、もう若くないその横顔は、それでも美しかった。

 その日遅く、車で都内のマンションまで帰った。東京の暮らしには慣れているものの、久し振りに踏んだ田舎の家の畳の感触を思い出すと、マンションのフローリングは冷ややかに感じられる。



 その夜、ベッドの中で、妻は寝付けないようだった。 目が覚めると、隣で眼をぱっちりと開けている。そしてぽつりと言った。 


「来なかったね、リン」

時計を見ると、ちょうど午前1時だった。


「あれは子どもの想像力が作り出したデマなんだよ。心配だったの?」


「待ってたんだけどね。失くした物を探してほしくて」



――はあ? 待ってたのかよ――

心の中でそう呟く。


まるで聞こえていたように妻が言う。

「だって私達、昔は何でも持ってたじゃない?」


「財産なら今のほうが多いさ」そう言いながらも昔の妻の屈託のない笑顔を思い出していた。昔はわけもなくよく笑ってたな。まだ僕が転職を夢見て、勉強に励んでた頃。将来どこに住むか、二人で地図を熱心に眺めてた頃。


 空調から流れる風が、飲んだ後のレモン酎ハイの缶とカレンダーを、カタカタ、サワサワ言わせている。


そんなに失くしたものが惜しいのだろうか? 僕は欠伸あくびだか、ため息だか、分からないものを押し殺した。声にならない心の声で、無理に目を閉じる妻にささやきかけた。



――失くしたものが気になるなら方法は一つ。失くしたものを忘れる事さ。絵本の中の登場人物になんか頼んじゃ駄目だ。せっかく忘れていたのにまた何処どこかから取り出してきて、思い出して、ややこしくなるだけだから。


ほら、そう言ううちに思い出してくる。


楽しかったゲームとか、土曜日の午後に仲良しの同級生と探検した知らない町とか、誰かと話し込んだ日の喫茶店のメニューとか、結婚の約束代わりのエメラルドの指輪とか――



どこからか、微かな鈴の音が聞こえてきたような気がした。



〈終わり〉

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12時発、1時着。/3つの心の旅【第2話】クリスマスのリン 秋色 @autumn-hue

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