結.嚆矢

 薄暗い森の、その奥に、打ち捨てられた神社がある。

 鳥居は朽ちかけ、社の本殿に通ずる扉は外れかけ傾き、本尊さえも見える。

 いや、本尊など、とうの昔に持ち去られているに違いあるまい。

 シラハにとっては、もはやそこに神などいないように思えた。

 十五になったばかりの、娘だ。纏っているのは白無垢である。

 しかし彼女の表情は強張り、冷たく、輿入れとはとても思えない。

 それはもはや、死装束であった。

 人身御供だ。あるいは生贄か。

 鬼に捧げる贄か。


(どれにしても、まともではない――……)


 花嫁姿の少女は、神社の境内に立って、虚空を見つめている。

 やがて、ゆっくりと歩み出てきた男が一人。

 壮年の男性だ。

 着物を着た大柄な体躯。赤黒い肌に、角が生えている。

 額から伸びる二本の角は天を向いて伸び、唇の端からは牙が覗いている。

 鬼だ。

 鬼はシラハの姿を一通り眺めると、満足げな笑みを浮かべた。


「ふむ、良いのう」


 鬼の瞳には欲望があった。


「此度の嫁は、実に器量良しだわ。

 これならば、村を守ってやる気にもなろうというものよ」

「なにを……!」


 シラハは、懐剣に手をかけ、きっと鬼を睨んだ。

 その手が震えている。それを、鬼は認めていた。笑みが深まる。


「刺し違えてもわしに一太刀くれようか?

 それともわしの手が触れる前に喉でも突くか?」

「……!」

「うい、うい。どちらも怖くてたまらぬのであろう?

 なあに、怯えるな。極楽が待っておるでな……」


 シラハは歯噛みする。その手も、足も、恐怖に震えて止まらない。

 だが、それでも――彼女は懐剣を抜き放った。

 鬼はその様を見て、愉快そうに笑うのだ。


「ほ、ほ。わし好みのおなごだのう。

 ほれ、突いてみぃ。さもなくば、突いてしまうぞ」


 鬼が村を訪れたのは、もう十年も前の事だ。

 村で一番の器量よしの娘を指して、嫁にもらいたいと、こう言う。

 嫁の実家であらば、村を守る為に力を奮うは当然のことだとも、言う。

 戦乱の、世である。

 無論、ヤマトには帝の御威光が満ちている。

 されど各地の領主はその下で、武威を振るい、争うにやぶさかでない。

 吹けば飛ぶよな小村とて、その戦火から逃れられるものでもない。

 それに鬼も、取って食うとは言っていないではないか。

 嫁に欲しいと、それだけだ。

 名主らの相談と、その娘の健気さにより、輿入れが決まった。

 娘は鬼とともに手を取り合って、森の奥へと消えた。


 村は、栄えた。

 鬼の力によるものか、米がとれた。

 獲物も、多かった。

 子らが病に倒れることも、なかった。

 一年の後、鬼は再び現れた。そして、にたりと哂って、言った。


『妻に先立たれたゆえ、後添えをもらいたいのだ』


 それが、十度繰り返された。今年は、シラハの番だった。


「こ、のぉ……ッ!」


 シラハは懐剣を、がむしゃらに鬼目掛けて突き出した。

 鬼はそれを軽くかわし、シラハの腕を掴んだ。

 そのまま引き寄せると、腕の中に抱きしめる。


「ふっ、く……」


 万力で締め上げられるような、凄まじい力だった。

 身をよじろうにも、それさえもできない。

 シラハの瞳に涙が滲んだ。鬼の汚らしい舌が、蠢くようにして眦に吸い付く。


「うい、うい……」

「や、ぁあ……っ」

「ははは、愛らしいものよな。どれ、白無垢というのもおつな――……」


 突然、鬼が手を離した。支えを失ったシラハはそのまま地面に倒れ込む。

 咳き込み、地に這いながら、シラハが見上げた、その先に――……。


「御免。アカガネ山の鬼というのは、そなたの事で良かろうか?」


 大太刀を腰に帯びた、若者がいた。

 青年と言うには少し幼げで、少年と呼ぶには背が高い。

 すい、と。

 自然な体で藪の中から現れる様に、シラハは言葉を喪った。鬼の目が、細まる。


「無粋だぞ、貴様。夫婦の床入り、邪魔立てするつもりか!」

「如何にも」

「ならば死ねぇい!!」


 鬼が吠えた。ばさりと何かを翻す音が聞こるや否や、鬼の姿が消えた。

 地を蹴る音だけが響く。

 飛びかかったと、シラハには思えた。鬼の姿は目に映らぬ。

 しかも、男は大太刀を抜いていない。危うい。

 シラハは何かを叫んだ。鬼は言葉より早い。


「ぬぅん!」


 怒声と爆音は、轟雷の如く重なって響き渡った。

 大太鼓を叩いたような腹に響く低音と共に、森の一角が弾け跳ぶ。

 シラハは、ひぅ、と掠れた悲鳴を上げて、目を瞑った。

 衝撃が恐ろしかった。男の死に様が怖ろしかった。自分もそうなるのだ。


 ――いや。


「ご無事か?」

「え――……」


 粉塵が立ち込める中、ざ、と音を立てて、シラハの目の前に男が着地する。

 その背を見て、シラハは目を瞬かせた。

 男の向こう、煙の彼方。

 赤黒い顔を怒気にさらに赤く染めた鬼が、ゆらりと立ち上がるのも、見えた。


「貴様、ようも我が妻に気安く言い寄ってくれたな……!」

さかずきもかわさずに何が夫婦めおとか」


 男が「ふ」と、思わずといった風に笑みを漏らした。

 大太刀を引き抜く。鞘走りの音はない。

 まるで最初からそこにあったかのように、自然に、男は大太刀を抜き放った。

 鬼が吠えた。今度は威嚇ではない。憤怒の声である。空気が震えた。


「わしはアカガネ山のサオドウジ!

 我が前に現れた事、後悔させてくれるわ……!」


 サオドウジと名乗った鬼の顔から表情が消えた。

 怒りすら消え失せた顔からは、ただ殺気だけが噴き出している。


「さて、それはどうか」


 男が呟くと同時に、鬼が地を蹴った。

 ばさりと何かが翻る。先程と同じく、目にも映らぬ速さ。シラハは目を瞠る。

 闇の奥に、赤い口腔と白い牙だけがぐわりと滲む。男は、動かない。


 と、その時だ。


 り、りぃいぃぃーん……。


 不意に、清涼な――……。

 シラハがこれまでに聞いたこともない、澄んだ音色が二重、響き渡った。

 途端、ぱぁん、と音を立てて、何かが弾ける。

 横合いに地滑りでも起こすように土を刳りながら、鬼が降り立つ。

 その肩口に血が滲んでいるのを、シラハは見た。


「なに、やつ……!?」


 そして、鬼の目線の先――……。


「ぁ――……」


 シラハは、今度こそ本当に、言葉を喪った。


 美しい、娘たちだ。

 かたや夜闇の中にあって尚艶めく黒髪を長く伸ばした、穏やかな表情の娘。

 かたや同じく濡れた鴉羽の黒髪を結い上げた、凛々しく口元を結んだ娘。

 鏡合わせのように瓜二つの容貌。白い肌。薄桃色の唇。そして、金色の瞳。

 ふくよかな肢体は巫女装束で覆われている。

 だが、匂い立つような色香は、隠せるものではない。

 たとえその美しい娘の顔が、二つ――同じ一つの胴の上にあったとしても。

 そしてその四本の腕に、二振りの弓が握られていたとしても。

 。シロハは目を見張り、鬼もまた、唸りを上げる。


あやかしの癖に邪魔立て――いや、わしの領地を狙うたか!

 させぬ、させぬぞう! あの村はわしのじゃ! わしのものじゃ!」

「見えざるものならば、見えざる矢にて射通せるものにございます」

「何処で手に入れたんだか知らんが……あれだ。隠れ蓑かくれみのだ、フルクマ」


 サオドウジの罵詈を雑言と一顧だにせず、娘らは男に呼びかける。

 娘らが鳴弦めいげんを爪弾いたことを、シロハは知らない。

 なるほど、と男が頷いた。


「音しか聞こえんので、どうしようかと思っていた。斬れるのか?」

「見えるものならば、見える刃で斬れましょう」

「よく狙え。手本だって見せただろう?」

「抜かせえい!!」


 娘らが応え、鬼が飛び――消え、赤黒い血が闇に尾を引き、男が腰を落とした。


 ―――


 シラハははじめ、その音が何処から響いてくるのか、わからなかった。

 次いで、男が刀を握る、その手が柄を軋ませた音だと思った。

 そうでは、ない。

 腰溜めに引き絞られた、男の腕から、胸から、腰から、足から。

 その全てが、みしみしと音を立てて軋んでいたのだ。


しゃあァアアァアアァ――――ッ!!」


 鬼が、迫る。ぬらりと光る顎。男が目を開く。踏み込む。

 ごう、と。何かが唸った。


「き、えええええいっ!!!!!」


 一閃。

 裂帛の気合と共に、大太刀が白銀の弧を描く。鬼の顎を、刃が薙いだ。

 ごしゅっと肉塊が弾け飛ぶ。噴き出した鮮血を浴びながら、男は目をそらさない。


「ギィアアアアァアアァアァッ!?!?」


 鬼が身を翻して宙へ舞い上がる。

 その口蓋からぼたぼたと血を滴らせ。シラハの頭上を越えていく。


「……あら、まあ。狒々ひひの類でしたか」

「犬を連れてくれば良かったかな、姉さん」

「ですが、調度良いですね。フルクマ様には、犬のように駆けて頂くとしましょう」

「だ、そうだ。――おい、逃がすと面倒だぞ」


 娘らは弓を手に取ったまま、動かない。薄い笑み。

 男の体が沈む。押し潰された、撥条ばねのように。


「まずは、手始め……」


 撥条ばねが、弾ける。跳ぶ。駆ける。


「降伏師フルクマが、その首、貰い受ける――……!!」


 鬼との戦いは、まだ始まったばかりである。



――――――――宿儺斬鬼行 まずはこれにて、一巻の終わり。

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