八.降伏
「なるほど。なかなかに面白い、余興であったぞ」
その言葉が、ふつふつという含み笑いと共に、響くまでは。
「そんな……!」
ヒコナが悲鳴を漏らす。
フルクマは刀を手に、立ち上がろうとした。スクナの手が、そっとそれを支える。
倒れた鬼の骸から、金色の光が、うすぼんやりと浮かび上がっていた。
朧な、霞のような……そう呼ぶにはあまりにもおぞましい、金色の雲。
フルクマには、直感的にそれがなにかわかった。
「そこもとは――……先程の鬼の、内にいた者だな」
「かくいう貴様は何だ、小童よ」
「フルクマだ」
彼は息も絶え絶え、しかしはっきりと声に乗せた。
「鬼を殺す者だ」
「それを
鬼は、嗤ったらしかった。
「私は機嫌が良い。貴様がそう名乗る事を許してやろう」
その雲の中に、フルクマは男の影を見た。角の生えた、金色の瞳の、鬼だ。
「だが、嫁入り前の娘らを傷物にしたことは、許せるものではないなぁ……」
金糸で縁取られた黒の着流しを纏った男は、口元に浮かべた笑みのままに言う。
それは怖気を震うような、性根の現れであった。
フルクマのすぐ傍には一つ分の、けれど二人の温もりがある。
一人にしては逞しく、二人にしてはか細い体が。
それが、びくりと震える。強張り、硬くなる。
恐怖と、怒りと、屈辱と、憎悪。鬼への、絶望。父への、思い。
それを全て知っていて――わかっていて――この鬼は。
父親のように振る舞っているのだ。
何故か、など。問うまでもない。
「許しがほしくば、せめて直に顔を見せて、ひれ伏してみよ。
それが礼儀というものであろ?」
――娯楽だ。
二人の娘を慰み者とするのも。己に一太刀入れてのけた男を見逃すのも。
この鬼――ナラカにとっては、ただの退屈しのぎに、他ならないのだ。
「ナラ、カァ……!!」
声だけで、視線だけで、その呪詛だけで。
相手を殺せるほどの思いを込めて、スクナが呻いた。
ヒコナが、縋り付くようにフルクマの着物を握りしめる。
その手が、白むほどに力が込められ、震えていた。
「せいぜい、気張る事よ。
どこの馬の骨とも知れぬ男に、娘らをくれてやる気は無いわえ」
(なん、たる……!)
ただ一言、それを聞いた瞬間から。
フルクマは全身の血流が全て逆巻いてでもしまったかのようだった。
心臓が脈動をやめてしまったのではないかと思える程に、静まり返り、冷たい。
代わりに脳髄ばかりが激しく回転しているようで、燃えるように、熱い。
そして指先すら動かすことが出来ない程の、その怒りの中で、
「よかろう!」
フルクマは、吠えた。
「いずれ貴様の素っ首、この降伏師フルクマが叩き落としてくれよう!
名を名乗れ、鬼め!」
「く、か――……!」
鬼が、嗤った。
久しく聞いていなかった、忘れかけていた。
そんな、心底愉快な冗句を聞いたかのようであった。
「我こそは一万六千の天女を喰らい、三悪道を行く者!
百三十六地獄を統べる、阿修羅の王!」
その金色の瞳が、喜悦に歪み、フルクマを刺す。
怯え、竦み、震える、二人の娘を貫く。
「我が名は、ナラカ!」
三千世界にその呪わしき名の残響を轟かせ―――……。
ざ、と風が吹いて、それで終いだった。
ナラカの気配は、もう無い。
後には、折れ砕けかけた二人の姉妹と、一人の
◆
「私どもは」
スクナが言った。
「これからもずっと……あの男を、呪い続けるでしょうね」
幾日か、後の事である。
臥せっていたフルクマが、ようやく床上げした。
その日は、冬の終わりの暖かさがあった。
庵の障子を通して朧気な陽光が差す中に、あって。
無言のまま甲斐甲斐しく世話を焼いていた姉妹は、フルクマの前に端座していた。
「……
「おおよそのところは」
訥々と話すのはスクナであり、ヒコナは無言のままだった。
彼女の側の腕は、彼女の側の膝の上に置かれ、緋袴をぎゅうっと握りしめている。
フルクマはその様をちらと見て、頷いた。
「あのナラカとかいう鬼が、首魁か」
「フルクマ様を、巻き込んでしまいました」
スクナは常通りの穏やかな微笑に、やや困ったような色を乗せた。
申し訳ありませんと頭を下げる動作も――スクナだけのものだ。
姉妹の体は斜めに傾ぐ。
畳に手をついたスクナに対し、ヒコナは俯いたままであったから。
「おまえが」
やっと、ヒコナが声を漏らした。ぼそぼそとして、
「勝手に、首を突っ込んだりするからだ」
まるで自分の身を案じたかのような言葉を聞いて、思わずフルクマの頬が緩んだ。
「ふっ……」
堪えきれず漏れ出た吐息のような音には、確かに笑いが含まれていた。
それを聞いて睨み、黙りこくってしまう辺りが、何とも彼女らしくも思う。
「気にすることはない」
そのヒコナに、フルクマは穏やかに言った。
「俺が勝手にやったこと。まさにその通りだ」
「ですが、あの男は、ナラカは……」
震えるスクナの言葉を、ふんと鼻を鳴らしたヒコナが、ぼそぼそと受け継いだ。
「お前を殺すまで鬼を送り込んでくるぞ。
お前は死ぬまで、鬼と殺し合わねばならなくなった」
「あるいは、ナラカを討つまで、だな」
フルクマの言葉に、ヒコナはキッと彼をにらみ、叫ぶように言った。
「殺せるものか、お前なぞに……!」
「やってみねば、わからんだろう」
「やってみたから、言っているんだ!!」
それは――やはりフルクマが初めて見た、ヒコナの顔だった。
普段は仏頂面で、むすっとして、感情を押し殺していた彼女だ。
それが今や完全に感情を顕にし、泣き叫ぶようにフルクマに声を叩きつけている。
「あたしや、母さまたちが、やってきたんだ!
何十年も、何百年も……ずっと、ずっと!」
そう言って涙を流す姿は、まさに癇癪を起こして泣き叫ぶ子供そのものだ。
「ヒコナ……」
スクナが嗜めるように、慰めるように言って、妹の手を包み込む。
「だって」と、ヒコナがしゃくりあげた。
「だから、言ったんだ! あたしは! さっさと、山を降りろって……!」
ヒコナの声は、もはや絶叫に近いものだった。
フルクマに叩きつけられる感情は、言葉以上のものだ。
そしてその全ては、ヒコナが、彼女が抱えてきたものだろう。
生まれてから今まで、ずっと。姉にも言えず、自分だけで。
(大きいものだ……)
そして、重たい。
受け止められるとは、フルクマは思わなかった。
自分が背負い込めるなどとは、思えないものだった。
だが言わねばならぬ事を一つ、思い出した。ためらいなく、言う。
「気遣いを無為にしたな。……悪い」
ヒコナが、目に涙をにじませたまま、此方を見た。
ぱちりと、睫毛が揺れて、瞬く。目尻から、雫がこぼれた。
フルクマはその一瞬で、改めて決意を固めていた。
「やはり、ナラカを討つよりほかないな」
「だから、無理だと……!」
「……ヒコナ」
再度、スクナが妹の名を呼んだ。
すると今度は素直に応じたようで、ヒコナは「うん」と小さく声を落とす。
ヒコナは、指先でごしごしと眦を擦り、小さくすん、すんと鼻を鳴らした。
目元は赤く腫れているが、それでももう普段通りの不機嫌そうな顔だ。
フルクマに、金色の瞳が、じとりとした視線を投げかけてくる。
先ほどまでの激情は、ひとまず、鳴りを潜めたようであった。
「ですがフルクマ様、ヒコナの言うことも、もっともです」
ヒコナの手を握り、一方の手で妹の側の肩を抱いてやりながら、スクナが言う。
「ナラカを討つとおっしゃいました。
ですが私どもの母も、そのまた母も、それを試みて参りました」
そしてその全てが、潰えた。
でなくば、今此処に、彼女たち姉妹はいない。いるわけもない。
「……やはり、逃れた方が良いと思います。そうして、生き永らえた方が――……」
「しかしな」
ぴくり、と。スクナが震えた。
「俺はスクナ殿、ヒコナ殿の母を知らんが、助勢があったわけではないだろう?」
「それは……」
と、スクナが黙り込む。考え、記憶を辿っているのだろう。
ややあって、彼女はゆるく首を振った。黒髪から、甘い香りがふわりと上がる。
心の壊れかけた母たちと、縋り付き侮蔑する諸人。それ以外の、覚えはなかった。
「……いえ、ありませんでしたね」
「なら、やってみる価値はある」
挑むべき敵を見据えるように目を細めつつ、フルクマは不敵に笑う。
(おそらく……)
己のことも、ナラカにとっては新たな遊びの一つ。
手慰みに加えた、ただの工夫に過ぎまい。
娘らがより強く育つか。あるいは自分を楽しませてくれるか。
そのために、何処の馬の骨ともつかぬ男を、加える。
あるいはフルクマを無残に殺し、その死を持って姉妹を責め苛むつもりか。
いずれにせよ――……それに乗ってやろうと、思った。
「仇を討った。だが、終わったとは思えなかった。
当然だ、あのような者がいたのだからな」
ならば、やることは一つだ。
だが同時に、そのためには己があまりにも未熟であることも、事実。
フルクマは、己の分を、十分に弁えているつもりであった。
「たのみがある」
フルクマは、居住まいを正した。
目の前の娘らが、顔を見合わせ、「はい」「うん」と、二つの口で呟く。
風が吹いて、かさかさと庵の外で、僅かに残った木の葉を揺らした。
「俺に、鬼を殺す術を授けてくれ」
フルクマの言葉に、スクナは、何も言わなかった。
ただ、困ったように眉尻を下げて、悲しげな眼差しを向けてくる。
彼女のすぐ傍らで、ヒコナもまた、似たような表情を浮かべていた。
二人の顔を見て、フルクマは思わず苦笑する。
どうにも自分は、この娘たちの泣き顔を苦手としているらしい。
十分な理由だろうと、思えた。
奴の企みに乗ってやるには、それだけで、事足りる。
「そのような事を」と、スクナが呟いた。
「……言われたのは初めてだ」と、ヒコナが言葉を継いだ。
「ではフルクマ様には降伏師の、経験を積んで頂くところから始めましょうか……」
スクナが、わずかに目元を抑えた。ヒコナが、また一度、すんと鼻を鳴らした。
「鬼一匹を仕留めるのに疲弊していては、お話になりませんもの」
「まったく、面倒臭い」
そうして、ようやっと――二人はぎこちなく、微笑んだのだった。
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