七.慟哭
「き、えええい!!!」
裂帛の気合が、虚空を打った。
空を斬るような一撃が大上段から撃たれ、衝撃がビリビリと大気を震わせる。
「ほう――……?」
「ち、ぃ――……ッ」
フルクマ渾身の一太刀。
それを黒い大鬼は振り向きもせず、その肩口で受け止めていた。
刃は食い込むが、それ以上ではない。
無論、そうだ。己一人のちからではたかがしれている。
すかさず鬼の頭を足蹴に虚空で体を捻り、追撃の一閃を放つフルクマ。
だが、それはあっさり防がれる。
黒鬼が鬱陶しい羽虫を払うように、頭を振ったのだ。
蜻蛉を切るようにして、フルクマはざ、と土を蹴散らして着地する。
姉妹を、背にかばって。
「ご無事か……!」
「フル、クマ――……」
「さ、ま……?」
二人は、信じられないものを見た。
目の前には、フルクマの背中があった。
その頭上に剣を振りかぶっている父がいた。
そして、フルクマがそれを受ける姿。
ず、と。音を立ててフルクマの身が沈む。
鬼の一撃。受け流すのは、容易い事ではない。
直後――轟音と共に地面が大きく陥没する。そこに、黒鬼の笑みが浮かんだ。
「あの小鬼を屠ったのは娘らの仕業かと思うたが、小童。お前か?」
「そうだ」とフルクマは答えた。
手は熱く痺れ、足は震えていた。だが、睨む。
「いかにも!」
「ははは! なかなかどうして、天下は侮れん。
現し世に鬼に刃を通す程度の者がいたとは!」
黒鬼はその身に受けた傷など意にも介さない様子で笑う。
(……こやつ――……?)
フルクマは、ず、と摺り足を送った。
黒鬼の顔に浮かぶのが、歓喜の色だと気づいていた。
まるで戦いの中でしか生きられない獣の如き、喜びに満ち満ちている金色の瞳。
先程の鬼とは、何もかも格が違う。
一太刀受けた黒鬼は、凝りをほぐすように、己の首を軽く撫でさする。
「しかしまだまだ足らん。
ライコーならば、一太刀で首を落とすくらいはやってのけたぞ?」
「なら、かぁ……!」
その様は、スクナにとって恐怖そのものだ。
苦痛に身悶えしながら、萎えた手足で、懸命に起き上がろうとする。
ヒコナが、すぐに姉に力を貸した。
彼女は歯を食いしばり、痛む体を強引に、雪の上から持ち上げる。
「お前の、相手は……あたしたち、だ……!」
「ほう……」
ナラカの金色の瞳――フルクマはそれが、姉妹と同じ色だと気づいた――細める。
「なんだ、お前ら。この小童に、
さ、と。スクナの、ヒコナの頬から血の気が引いた。
青褪めた姉妹の反応を見て、ナラカはにたりと笑う。
そして、ゆっくりと二人に近づくのだ。
一歩ずつ近づいてくるたびに空気の濃度が増していくような。
そんな錯覚すら覚えて、二人の肌がちりつくように粟立つ。
(これが、殺気か……!)
それはフルクマとても変わらない。
彼は鳴りそうになる歯の根を抑え、ぐっと噛みしめる。
牙を剥く獣のように、頬が引きつった。
「まあ、しかしな。
めったに現れた程度の英傑では、話にもならん――……」
ナラカの下卑た言葉に、フルクマの背後で姉妹が身を固くしたのがわかった。
フルクマの手に、力がこもる。
父から受け継がれた豪刀は、鬼の皮膚にも通じた。斬れる。通ずる。問題はなし。
ならば、後は己次第だ。
「娘についた悪い虫を払うのは、父の務めであろうよ。なぁ?」
ナラカの腕が、叩きつけるように振り下ろされた。
地面を打ち砕くかの如くに放たれたのは一撃だが、音の大きさはその比ではない。
轟音が響き渡り木々の葉が大きく揺れ動く。
しかしそれほどの衝撃があったにも関わらず――地面には一切傷がない。
ナラカは腕を振り上げ、下ろした。ただそれだけだった。
鬼の一撃をまともに食らった、フルクマは潰されるだろう。
それが道理だ。
「な、ん……!」
しかし、フルクマの姿はそこにあった。
彼は紙一重、振り上げた大太刀でもって、ナラカの腕を受け止めていたのだ。
尋常な、光景ではなかった。
みしり、みしりと骨が軋み、肉が弾ける。
ナラカの膂力ではない。
振り絞った、フルクマの全力が、その傷をもたらしていた。
柄を握る手、峰に当てた拳だけではまだ足りぬ。
刃を肩に担ぎ、肘を腿に押し当て、膝を地面に突く。
フルクマの肉体は、まさに押し潰された撥条そのものだ。
それが、弾ける。
「……と、ぉッ!!」
鏨で岩を打つような澄んだ音と共に、ナラカの拳が打ち上げられる。
まず、一撃。鬼の一撃を受けて、フルクマは生き延びる。次だ。
二撃目が来る前に懐へ踏み込む必要がある。だが。
「フルクマ……!」
「フルクマさま……っ!」
(……っ!!?)
姉妹の声に従い、上体を反らすようにして避けようとした瞬間。
フルクマは自分の体が宙に浮かび上がったことに驚いた。
同時に、目の前まで巨腕が迫ってくる。その光景で視界が埋まる。
ナラカの拳圧、拳風が、フルクマの身を浮かせたのだ。拳が来る。避けられぬ。
(ならば……!)
だん、と。フルクマの足が、ナラカの拳を踏んだ。
そしてその蹴り抜く勢いを利用しながら、後方へと飛び退く。間合いを広げる。
無論、ただ逃げの一手を取ったわけではない。
攻撃に転じられる位置取りであり、反撃の余地がある距離でもある。
しかしそれでもまだ不十分だという事を、フルクマは理解している。
そして、それは些事だ。いくらでも不足は補える。ただ、振り絞れば良い。
「お、おッ!」
フルクマの全身が、ぎちりと唸りを上げて絞られる。踏み込み、跳ぶ。解き放つ。
横殴りの一閃が、ナラカを襲った。
それは回避する素ぶりすら見せなかったナラカの顔を捉え――空を切る。
「が、ッ!?」
口から、熱いものが溢れる。
角だ。
角で突き上げられたと、気づいた時には、腹が燃えるようだった。
臓腑をえぐられ、地面に叩きつけられ、また血反吐を吐く。
「……ぐ、ぅっ!!」
それでもフルクマは動く。この痛みなら、まだ死なぬ。
遠からず死ぬとしても、まだだ。
故に、転げる。ナラカの踏みつけをかわし、飛び起きる。次に繋ぐ為に。
「ほう、よくもまあ、動くものだ」
「お、ぅ!!」
フルクマは腹から滴る血を押さえることもせず、ナラカへと飛びかかる。
それをただ這いつくばり、見つめるしか無い姉妹。
スクナは、はらはらと涙が頬を伝うことに、気づいた。
絶望か。それもある。悲しみか。無論ある。恐怖。当然だ。
だが、怒りと、悔しさと、喜びが、そこにあった。
鬼を殺せと、言われることはあった。
鬼だと、罵られたこともあった。
鬼を殺す術を教えてくれと、言われたことはなかった。
鬼を殺そうとしてくれたことも、なかった。
「ヒコ、ナ……」
「……う、ん」
振り絞って、呼びかけた声。妹が、素直に頷く。
その健気さに、スクナの目からまた涙がこぼれた。
「もう、少し……頑張れ、る?」
「無論、だ……!」
四本の腕が、印を結ぶ。二つの唇が、旋律を紡ぐ。
命を燃やして、魂を削って、寿ぐ。
音が鳴る度、光が生まれる度に力が溢れ出す。
今ならば何でも出来るような気がしてならないのだ。
だからこそ躊躇わない。だから、迷わない。
「オン・アボキャ・ベイロシャノウ……」
「マカボダラ・マニ・ハンドマ……」
唱えられても、これが最後。
だから、殺すためではない。生き延びる、そのために。
「ジンバラ!」
「ハラバリタヤ!」
「「ウン!!」」
破邪の光明が、宿儺の姉妹より解き放たれる。
「は――……!」
その白光を前にして、ナラカはしかし、呵々と嗤った。
男は死に体だ。やはり人の身ではこの程度。
娘どももそうだ。祝詞が通じぬと知っていように。
破れかぶれ。自暴自棄。そういう意味では――期待したほどではない。
残念でさえ、あった。
(だが、まあ――……)
思っていたよりは頑丈だ。だから、良い母胎となろう。
もっとも、その娘どもの出来も、たかがしれていようが。
(それでも、三年は楽しめる――……)
宿儺は子を産み落とすまでに、三年は孕み続ける。
姉妹を弄ぶ三年。それから育つまでの、また十余年。
その際にこの小童の事を持ち出せば、遊びにも少しの彩りが加わろう。
己を殺すなどと宣った巫女を、戯れに手篭めにし、孕ませたのが始まりだった。
生まれた娘らが、宿儺であった。面白半分に、その姉妹が育つに任せた。
やがて忘れかけたころに、母の仇だと言って挑んできて――ああ、なるほど。
『諸人が小鉢に草花を植えて愛でつつ、戯れに摘み取るは、こういう遊びか』
此度の花は、期待したほどではない。だが、決して悪いものでもない。
何百か、何千かの歳月の中で、ああそんな年もあったな、と。
ふと思い返す程度の出来では、あろう。
そう思い、ナラカは嗤っていた。
だから。だから、気づかない。
光が焼いたのが、己ではなく――……。
「き、ぇえええいッ!!」
怪鳥音と共に跳ぶ、刀を振り上げた、一人の男であることに。
フルクマの体は、燃えるようであった。
心が、魂が、気息が、血が、肉が、骨が。
その全てが煌々と、鎚を打ち込まれた刀身のように赤く燃えていた。
背を打つ程にまで振りかぶった豪刀。
先祖伝来、いくさ場で拾われたというその大太刀。
何ら来歴のない、ただの鋼が、鬼の頭蓋を斬る。
鉄兜に打ち込んだが如き衝撃。フルクマは手に力を込める。
――みしり。
脳髄を叩き潰す感触がある。それでもまだ足りない。
もっと深く刃を差し込み、捻り、手元に引く。
刀は引いて斬るのだ。父の言葉。
かすかに見える筋を、深く断ち切る。
角を両断し、頭蓋を砕き、脳髄に刃を埋め、そして、金色の瞳を―――……。
「お、おおッ!!」
真二つに、割った。
どす黒い鬼の血が吹き出し、フルクマの体に雨のように降り注ぐ。構うものか。
鬼は、声も無かった。
顎を開き、舌が蠢く。赤く濁った瞳が、どろりと零れ落ちて、流れ、潰える。
その後を追うように、どうと倒れるナラカの肉体。
そしてその骸を踏みつけるように、フルクマは、地に降り立った。
「は、ァ―――……ッ」
途端、どっと崩折れる。血溜まりに、沈みそうになる。
フルクマは体を、どうにか刀を杖に、支えた。
残心だ。残心せよ。父が叫ぶ。まだ終わらぬ。終わっては――……。
「フルクマ……!」
「フルクマ、さま……ッ」
その身を、四本の腕が抱きとめる。
そのどれも、ろくに力のこもっていない、細い腕だった。
白い肌は傷にまみれ、血に汚れていた。フルクマは、横を見る。
泥と、涙と、雪と。ぐしゃぐしゃになった顔をした、宿儺の姉妹。
けれどそんなものは。
スクナの、ヒコナの、その美貌をいささかだとて損なうものではない。
這いずってフルクマのもとに辿り着いた姉妹は、フルクマをそっと掻き抱いた。
襤褸のような体だった。
聞かねば、ならなかった。
「なぜ――……?」
戻ってきたのか。自分たちを助けたのか。ナラカへ挑んだのか。
彼は、ただ一言だけ言った。
「まだ、礼を言っておらなんだ」
二人は彼を抱きしめたまま泣いた。
声を上げて泣くことなどいつ以来だろうと思いながら、泣き続けた。
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