六.奈落
「……ああ」
スクナは、静かに得心した。
同時に、自分がここに居合わせて良かったとも思った。
恐らく自分は今ここで死ぬだろう。
だが、その前に、フルクマを生かすことができたのだから。
(どうでも良いと、思っていたのですが――……)
不思議なもので、犬猫に抱く程度の愛着は、どうやら生まれるものらしかった。
「フルクマ様、鬼を殺せたのなら、それで満足でしょう? だから」
早く山を降りなさいと、スクナは微笑んだ。
けれどそれはいつもの笑顔ではなかった。寂しげな苦笑のようなものだった。
フルクマはその言葉に従うことなく、立ち上がろうとする。
しかしその瞬間全身を襲った激痛に再び地面に伏してしまう。
それでも何とか身体を起こし、立ち上がる。それを、ヒコナが蹴飛ばした。
「良いから、降りろ。邪魔で、面倒くさい」
「な……!」
顔を上げたフルクマに、ばさりと布が被せられる。彼の着物だ。
ヒコナのもう一方の手には、呪符が握られていた。彼女はそこに口を寄せる。
「ではな」
ふ、と。吐息が漏れた。
フルクマは、自分がどこにいるのか、目を瞬かせた。
社の前だ。
人も通わぬ深き森の中、ひっそりと佇む、古びた社の前に、彼は蹲っていた。
見渡せば、鳥居が、注連縄が、石仏が、卒塔婆が、札が。
変わらず雪に埋もれて、そこにある。
既に全身に塗りたくられた泥はなく、着物もその身に纏ってある。
手には、父の豪刀だけが握られていた。
(夢――……)
吹雪。鬼。山中での日々。修行。そして、宿儺の姉妹。
なにもかもが夢幻の如くであり、真のこととは、思えないような有様であった。
自分はあの夏の日に此処に来て、ぽんとこの瞬間に放り出された。
ただそれだけのように。
フルクマは、そろりと静かに立ち上がった。
その掌は、赤黒い肉刺が潰れて硬くなり、ごつごつと無骨なものになっていた。
フルクマは拳を握りしめた。刀を腰に帯びる。体が傾くことは、無い。
そして――走り出す。その背後で、風が渦を巻いていた。
◆
一切の雪がやみ、静寂に包まれたその中にあって。
宿儺の姉妹はその鬼に対峙していた。
漆黒の肌を持つ巨躯の男である。
身の丈はおよそ
まるで岩塊がそのまま人型を取っているかのよう。
頭頂部からは一本の長い角が伸びていたが、そうでなくても、それは鬼であった。
額の中央よりやや左に小さな目がある以外は顔全てが毛に覆われ、埋もれている。
その瞳が、金色の輝きをともして、二人を見つめていた。
醜い怪物――取るに足らない、小物に過ぎない。
この程度の鬼ならば、姉妹とても幾度となく降伏してきた、その程度の弱卒だ。
明らかに、仮の体だ。そこらの鬼を捕まえて、浄瑠璃のように操っている。
だが……。だが……。
だが、それを前にして――二人は、ほんのわずかにさえ動けなかった。
息をすることさえ、苦しい。は、は、と。共に抱く肺腑が、締め付けられるよう。
喘ぐように息を吐く姉妹を見下して、鬼が、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
「どうした、そろそろ食い頃かと思うて、わざわざ参ったのだがな」
(ふざけた、事を――……!)
スクナの頭に、かっと血が登った。
同時に、心の底から冷えていくような感覚があった。
あまりにも熱を持った炎は蒼く染まると、いつだかに聞いた。それなのだろうか。
その思いが怒りなのか悲しみなのかもわからないまま。
ただ憎しみだけを、火に焚べる。
「ヒコナ!」
「姉さん!」
二心一体の姉妹の動きは、流れる水のように美しく、早かった。
四つの腕が揺らめいてそれぞれに印を結び、二つの足が雪原の上を音もなく滑る。
二つの唇から、真言が紡がれた。
「ノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボッケイビャク……」
「サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキギャキ……」
神気が溢れ出る。目の前の邪悪を討ち滅ぼすための、恐るべき旋律だ。
姉妹が高らかに歌い上げるそれを、黒鬼はただ腕を組み、漫然と聞き入っている。
それがスクナには、どうしても許せなかった。
見ていろ。みていろ。みていろ……!
ただ一人では到底なし得ぬその祝祷。
それが二人の娘が神楽を舞うが如し動きと共に、完成する。
「サラバビギナン……」
「ウンタラタ……」
「「カンマン!!」」
姉妹の怒りを顕わすが如し蒼き炎が、黒い鬼へと襲いかかった。
岩塊の如き巨体が、またたく間に飲み込まれた。
周囲の雪が熱で一瞬のうちに蒸発し、熱風の如き白煙が周囲に立ち込める。
その中で――……。
「ノウマク・サマンダ・ボダナン・インダラヤ……」
「ノウマク・サマンダ・ボダナン・シャカラヤ……」
二人の巫女の動きは、止まらない。
爛々と金色の瞳を燃やし、虚空に四本の腕が次々と複雑な印を結んでいく。
この真言が、両面宿儺の本領であった。
フルクマに手ほどきした体術などは、彼女らにとってはほんの手慰みでしかない。
一身同体。身体は一つしかない。
その程度の武では、目前の鬼に何の意味があろうか。
二心一体。二つの心、二つの魂、二つの術者。
姉妹が操る祝祷こそ、人の身では決して成せぬもの。
尋常でない存在を降伏するための、尋常ならざる存在。
これこそが宿儺の業だ。
だが。
(この程度ではない)
自分たちの力も。あの鬼の命も。これまでの屈辱も。これからの未来も。
怒りも。悲しみも。
(この程度だと思われては――)
(――困る……!)
「「ソワカ!!」」
雷鎚が、天地を砕いた。
轟音と共に空から揮われた稲光。
それは炎に包まれた鬼を一切の容赦なく貫き、紫電を迸らせる。
ばちばちと竜尾のように踊る稲妻が弾けて、周囲の木々に当たっては吹き飛ばす。
そして。
ひゅ、ぅ――……と、ヒコナの喉が鳴る。
ぜ、ひぃ――……と、スクナの息が、詰まる。
だが。
「ノウマク・サマンダ・ボダナン・ニルリテイ……!」
姉妹は、文字通り血を吐くようにして、さらなる真言を大気へと叩きつける。
炎。稲妻。
打ち砕かれた土塊が虚空に吹き上がる。
それらは唸りを上げて剣に、刀に、鍛え上げられていく。
幾本あろうか。十ではない。百でも足らぬ。千か。あるいはそれ以上か。
それはまさしく剣山刀樹という概念そのものだ。
そして全ての刃が切っ先を揃え、一点に向けられて――……
「「ソワカ!!」」
――解き放たれる。
天より降り注ぐ数多なる鋼鉄の雨。
それは、巨大な鉄槌を叩きつけたような衝撃を伴った。
ど、と。大地そのものが爆発したかのように、山が震えた。
「ひ、ゅ……ッ」
「……ッ、ヒコ、ナ……!」
がくりと、顔を青白くしたヒコナ側の足が崩れた。
スクナもまた呼気を掠れさせながら腰砕けに崩折れる。
(無理を、させすぎた――……)
ひゅう、ひゅうと、懸命に肺を動かし、胸を上下させて空気を取り込む妹。
その汗と涙の滲んだ頬を、スクナはそっと撫でてやる。
しかし目線を――敵からはそらさない。
「なかなか、ではあるな」
ふむん、と鼻を鳴らしたのは――――黒い鬼であった。
もうもうと立ち込める煙の中、のっそりとその巨体が、動く。まだ、動く。
鬼は、たしかに傷ついていた。
肩口や胸元が大きく裂けている。
岩の如き皮膚は砕け、雷霆と炎に焼かれ、焦げてもいた。
だが――その程度だ。
その程度でしかない、というのに。
「この領域は、三、四代ぶりではないか?
お前の母達もなかなかの出来だったが――……」
「母様たちの事を、言うな……ッ!」
ヒコナが、吠えた。
彼女は必死の思いで足腰に力を込め、立ち上がろうとしている。
スクナにはそれがわかった。
だから、ぐっと唇をかみしめて、妹の為に踏みとどまる。
けれどそれ以上はできないだろう事も理解していた。
ならば自分はなんとするべきか。何ができるのか。
「活きの良さは母親ども以上だな。良いだろう。そう簡単に壊れてくれるなよ?」
腐った果実を壁に叩きつけるような音がして、姉妹の体が吹き飛んだ。
「あ、ぁッ!?」
スクナを襲ったそれは、かつてない程の激痛だった。
全身がぐしゃぐしゃに砕けてしまったような。
ただその痛みだけで死んでしまうような。
それほどの痛み。
だがしかしそれ故に、少女はその瞬間、ほんの少しだけ安堵したのも事実だった。
ヒコナは、無事だ。
自分がこの痛みを感じているなら、打たれたのは自分の側だ。
だから、妹は大丈夫。良かった。
「姉、さん……ッ!」
ざ、と。
体が雪に叩きつけられる前に、ヒコナは懸命に足を踏ん張り、腕で地面を打った。
彼女の技量からすればあまりにも拙い、けれど彼女でなくば不可能だった受け身。
雪の上を転げるように衝撃を受け流した中で、ヒコナは確かに無事だった。
そしてだからこそ、スクナの朦朧とした意識は、妹の呼びかけで引き戻される。
「だい……っ」
開いた口から、ぼたぼたと血が溢れ出た。
白い巫女装束が朱に染まり、雪に花が咲く。
「……じょう、ぶ……ヒコ、ナ……?」
「あたしのことは、良い……から……!」
ヒコナは自分のあまりにも情けない声に、泣きたくなるほどの悔しさを覚えた。
それでも、姉の分までも力を込めて、懸命に立ち上がる。
今此処で、自分が崩れ落ちたら、姉を守るものは誰一人としていないのだ。
鬼が――鬼が、来る。もうすぐそこまで……。
「ナラ、カァ……!」
「ほう? まだ生きていたか」
雪の上でもがく姉妹を見下ろして、ナラカが言う。
ナラカは必死になって半身で拳を構えるヒコナを見下ろし、ふむ、と息を吐いた。
「良いだろう。姉だけ可愛がっては、お前も寂しかろうからな」
ナラカは、そう言ってゆっくりと腕を振り上げる。
そしてその腕を構える動作に合わせて、黒い影のようなものが現れた。
「な――……!?」
あれが、姉を打ちのめした。
あれは何なのか。あの手が振り下ろされたら、どうなるのか。
そう思う間もなく、ナラカの腕が落ちてくる。
「あああああ……ッ!?」
今度あがった悲鳴は、ヒコナのものであった。
見えなかった。何を、どこを、どう打たれたのか、まったく。
ばつんという音と共にに襲ってきたのは、胸元への鋭い痛みである。
理解できないままに視線を下へと向けると、白いものが見えた。
己の胸の下辺りまでを覆う衣服が切り裂かれており、そこから肌が見えていた。
まろびでたのは、三つの乳房だ。
常人であれば二つであろう。ただの姉妹が肩を寄せ合えば四つであるべきだ。
だが彼女たちは宿儺だ。
本来なら谷間があるべきはずの場所に、ふくよかな乳がもうひとつ。
ヒコナには、その三つの胸が、己が人でない証のように思えてならなかった。
同時に、大切な姉と体を等しくしている絆のようにも思えていた。
そして今、その処女雪のように白く美しいその稜線に、三筋の、赤い線。
瞬間、白肌が刀で斬りつけられたかのように赤く裂け、ぱっと血が吹き上がった。
「う、あ、ぁううぅうぅ……ッ!」
「ヒコ、ナ……ッ!?」
羞恥と灼熱にも似た痛み。
裸に剥かれて、心の臓を引きずり出されたような、屈辱。
ぐずぐずと啜り泣くヒコナに出来たことは胸を掻き抱き、身を丸めることだけだ。
それは、恐怖というよりもむしろ諦めにも似た感情であったかもしれない。
ずん、と。
重たい足音と共に近づくそれは、まさに「終わり」の気配そのものであったから。
「そら、十余年もかけたのだ。
もう少し踏ん張ってくれねば、暇つぶしにもならぬではないか」
「ぎゃうっ!?」
「ひぎゅっ!?」
無造作に蹴り上げられ、姉妹の体が軽々と宙を舞った。
雪に叩きつけられ、止まらず転げる二人の体は、ただそれだけで傷ついていく。
すでにずたずたに破けた巫女装束の下には、無数の傷があった。
特に胸部や腹部からはどす黒く変色するほどの血が流れ出していた。
肋骨が何本が骨折しており、呼吸するたびに鈍い苦痛を感じる。
下半身に至っては、もはや感覚がないほどズタボロになっていた。
ジリジリと痺れるような痒みがあるのは、体が少しずつ癒えている証拠だろう。
だが、既に体力など残ってはいない。
「あ、ぅ……、ぅ、……ッ」
「ぃ、た……ぃ、ぃ……ッ」
それでも二人は、虫のような無様さで、四臂二足、六本の手足をばたつかせた。
それは痛みによる反射であったのか、立ち上がろうという意志であったのか。
「おっと、やりすぎては困るな。いかんな、いかん。つい、我を忘れてしまうのだ」
だがいずれにせよ、ナラカには関係のない事だ。
足音が打ち付けられるように迫る。
「ひ、」と。スクナか、ヒコナか、その喉から――悲鳴のような、声が漏れた。
這いつくばるような姿勢から見上げた先には、鬼がいた。
逃れようのない、終わりがあった。
「気はいくらやってくれても構わんが、体が壊れては支障が出るからな。
まったくもって、面倒なことよ」
「あ、ぁ……」
「うぁ、……」
震えるようにして伸ばされた手。
何を求めているかも分からぬままに差し出されたそれを、姉妹は共に握りしめる。
この後にどのような運命が、末路が、待ち受けているのか。
――姉妹は知っていた。
生まれた時から、知っていた。
弄ばれ、踏み躙られ、何もかもを否定され、押し潰されて、壊される。
母たちのように。母たちの、そのまた母たちのように。
そのために自分たちは生かされている。そのために。たった、それだけのために。
この後に生まれる、娘たちも。
二人はぐずぐずと啜り泣き、手を繋ぐことしかできぬまま。
けれど思うことは一つだった。
せめて体が、二つあったなら。
かわって、やれるのに……!
産まれて初めて、彼女たちは、決して離れられぬこの身を呪った。
だが姉妹の絶望も悲しみも、怒りも、何もかも、大した意味などはない。
どれほど心血を注いで鍛えようと、どれほどの鬼を降伏して技を磨こうと。
何の価値もない。
無意味だ。
スクナは、せめて妹にはその光景を見せまいと、彼女の頭を手で抱きしめた。
ヒコナは、せめて姉には悲鳴を聞かすまいと、口元を手で覆って指を噛む。
「ま、良い、多少の手間暇、面倒も――子育ての、楽しみのうちよ」
そうして鬼の手が、二人に伸び―――――……。
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