ある発泡ポリスチレンの温みの記憶
月宮アル
ある発泡ポリスチレンの温みの記憶
真っ暗闇に、橙色の薄いあめ細工が揺れている。
揺らめくそれを眺めていたけれど、目が染みて、もう限界だ。
分厚い布団をめくって顔を出すと、途端に猛烈なたばこの煙が顔に吹き付けられる。
「コレ! こたつに潜ったら危ないから駄目だって!」
「だって寒いし退屈なんだもん」
「綿入れ着てろ!」
大晦日に病院なんて空いてないんだからな、と渡された、あんこみたいな色の綿入れはひんやりと冷気が染みていて、ずっしりとしたこたつ布団の下に放り込みたくなる。そんなことしたら、豆炭から火が付くと、余計怒られるからやらないけど。
大きなテレビでは、着物姿の女の人が知らない歌を歌ってる。
たぶんそろそろだよなぁ。夜ご飯がまだちっともお腹で動かないけれど、今じゃないとアレは食べさせてもらえないし。去年も失敗したけど、もう少しガマンしとけばよかった。
そう思ってすぐ、いとこのおばさんが、母さんとおばあちゃんと一緒に、台所からお目当てを運んできてくれた。
「そろそろ年越しそば出すけど、赤と緑とどっちがいい?」
「緑!」
取られたくなくて、真っ先に声をあげる。だって、年越し「そば」、なんだし。
「
「あんれ、じゃあ誰が赤食べるかねぇ」
「お義母さん、じゃあ私が。お湯は大丈夫ですかね」
「お義姉さん、さっきお茶の時沸かしたからまだ大丈夫。あ、緑ほしい人、大きいの小さいのどっち?」
「大きいの!」
「お、挑戦する? おっきくなったし?」
「いい、いい! うちの子、夜もかなり食べてたし、寝られなくなるから小さいのにさせて」
「ちぇっ」
いらいらしながらお母さんを睨んだが、これでもう僕の分は決定された。
花柄の背の高い魔法瓶の後ろに膝を付いたおばさんが、重そうなボタンをくり返しくり返し押し、カップに湯を注いでいく。
「僕できるけど、手伝う?」
「
「病院は開いてないんでしょ、分かったよ」
「明日も起きてお参り行ってお節食べるんだから、たくさんなら残しなさいね」
「はーい」
テーブルのように広いこたつの上に、大小様々なの赤と緑が並んで、隙間から湯気を立てている。
「うどんまた残っちゃうわね」
「だって油揚げしか入っていないんだから、損じゃん。なんで天ぷらうどんにしないんだろうね」
「食べたい人がいるからでしょうね」
言っていると、ぽそぽそとした、あのそばの匂いがしてきた気がする。揚げがじゅわっと染みてしゃくしゃくする感じが一年ぶりに引っ張り出され、わくわくしてくる。
――そんな感じで、暮れは父方の家で過ごすのが習わしだった。東北の沿岸沿いにある平屋の大きな旧家は、お盆の頃は釣りや虫取りができて楽しかったが、暮れはとにかく辛かった。大人はみな忙しく、テレビをつけても肝心のチャンネルは3つしかなく、しかもずっとニュースか歌番組で、退屈この上ない。
そして何より広々とした間取りはどこにいても寒い。この寒さの中、元日の朝には元朝参りと言われて日の出より早く起こされる。
暖を取れるのは、唯一、広間にある馬鹿でかい掘り炬燵だけ。
翌日、地方都市ではあっても町中にある母方の実家に行くと、石油ストーブや電気こたつの
だけれど、除夜の鐘まで起きていていいよ。と言ってくれたり、深夜にカップ麺を食べさせてくれたりするのは、父方だけだった。
その自由を満喫したい気持ちと、暇と寒気との戦い。その行き着く先が、掘り炬燵の底に置かれた豆炭、つまり練炭の火鉢に近づき、揺らめく火を眺めたり、時に燃えるものを放りこむ形で現れる。
一家どころか親戚の自分たちも含め全員座れる、信じがたい巨大さの掘り炬燵は、子供にとっては秘密基地でしかなく。時折感じた息苦しさが本当はとても怖いことなんて、知るはずもなかった。
進学で上京してからも、まず両親の元に戻り、そこから二段階帰省だなんて父の車が冬道を走った。
祖母がいなくなってからは、二段階目の帰省は日帰りになり。
そしてそれすらしなくなって――今年でもう、10年が経つ。
「あー! 今年は雪じゃなくてよかったよね。タクシーもすぐ来たし」
NRTとプリントされた破れかかった薄紙を付けたトランクを玄関、いやポーチに置き去りにし、スマホ片手の妻が、部屋のライトを片っ端からつけていく。
その後ろを、年賀ハガキをめくりながら自分が付き従う。
「えー、北海道吹雪で100台立ち往生だって。お正月なのにかわいそう。帰省って大変よね」
「年末年始はどこ行っても混むよな」
話しながら妻はエアコン、自分は床暖房のスイッチに手をかける。ガス給湯器の操作盤によると、風呂はもう沸いている。
「んー、片付ける前に、なーんかちょっと食べたいよね。コンビニ寄ってくればよかったね?」
「俺の夜食用のカップ麺でよければあるよ」
「あ、いいかも。片付けなくていいし」
賛意が得られたので、俺は戸棚からちょうど2つ残った麺類を引っ張り出す。
「赤いきつねと緑のたぬき? なんかめちゃ懐かしくない?」
「好きなんだよ。なんか急に食べたくなる」
「わかるかも。そばのカップ麺ってあんまないよね」
「ないわけじゃないけど」
「わたし知らないよ」
「普段食べないからだろ」
ハワイ帰りはコートが邪魔だよねと、ハンガーに引っ掛けはじめた妻の背に、とても大事な質問を投げ掛ける。
「お前、どっちにする?」
「緑の方。だって油揚げだけじゃ物足りないじゃん」
「違う。卵とかまぼこも入ってるぞ」
「おまけでしょ。きつねうどんってボリュームないし、誰に需要あんだろうね」
「食欲ないときとか、太りたくない時とか」
「そういう人カップ麺食べないでしょ。揚げ物食べたいからやっぱり緑。えーとかき揚げって、後乗せするんだっけ?」
「それは他の会社のだよ。いいよ俺やるから」
土産の紙袋を気にかけている妻を台所から追い出し、タップのオレンジ色を点灯させる。電気ポットを手に取り、蛇口のハンドルに手をかけたところで、めざとく俺の無精を見つけた妻から、咎めの声が飛んだ。
「家空けてたから、ポットに入れる前にはしばらく水、流してよ」
「わかってる」
んな数日で発酵も腐敗もしないだろうに日本の水道水は、と心の中だけで悪態をつきながら10秒待って、浄水器のスイッチを「浄水」に切り替え、有害物質とやらが抜けた水を電気ポットに注ぐ。
ドン、と置いてスイッチを入れると、メインディッシュの準備。
ラッピングのビニールを剥がし、環境に優しくプラごみ入れへ。
蓋を少しめくり、いぶし銀な袋を取り出す。
だがお前とはもうお別れだ。
無言のまま真っ二つに引き裂き、茶色の粉末をかき揚げにぶちまける。
サディスチックな気持ちでカップに向き合っていると、早くも背後で小さく、スイッチが切れる音がする。
なんとか顔を出す丸い赤へ、顔を洗えとばかりに、沸き立てのお湯を滝のように振りかける。
薄くついたラインの気持ち下まで注いだところで、浮かんでくる、かき揚げ。
蓋を閉めるのを忘れ、俺はつい、余計な言葉を口にする。
「なぁ」
「ん?」
「実家に、顔見せに行きたいんだけど」
しばしの無言。
それを放置したまま、俺は赤い方をめくって、今度はまだ固い茶色い四角に、粉をぶっかける。
「――急に言われても」
「泊まるわけじゃない。ただ元気にしてるかって挨拶するだけだ」
「男の人はそうかもしれないけど、女性は帰省って行ったらいろいろと気を遣うの。ましてや義理のご両親なんだから。行くならいつものハワイ土産だけってわけにいかないし、なんか一品ぐらい作ってお持ちしないと」
「じゃあ、一人で行ってくる」
「行かないって言ってるんじゃなくて。ねぇ今日は疲れてるんだからやめにしない?」
こうしている間に、3分経ったか。
大文字の書かれたトレードマークをはがすと、茶色の汁の合間に浮かぶ、田舎そばのような黒色。
うまく出来た事を確認すると、俺はブルーのストライプのダスターを絞り、ナチュラルウッドのテーブルを拭いて、割り箸と一緒に器を向かい合わせに並べる。
「あれ? 何でフタしたままなの?」
「こっちはまだなんだ」
大人になるまで知らなかったが、赤い方は5分必要なんだ。
「そういや、年明けはうどんだったよな」
「あー、ちょっと前から急に推しだしたよね」
「年越しそばに対抗してだよな、待たせるの悪いからもういいや」
頷き、ぺりと蓋をめくると、目に優しいひらひらの乳白色。暖かい部屋の中、ささやかにあがる湯気に混じって、懐かしい香りがする。
日々工夫を凝らしている会社の方には申し訳ないけど、俺の中の印象は、昔からずっと変わらない。
「この油揚げって食べたことないかも。どんな味だっけ」
「ちょっと分けるか」
「麺も欲しいし、途中で交換しよ」
そうか。
唐突に長年の謎が解ける。
このふたつがあるのは、こうして交換するためか。
胸のつかえがとれた心地で、俺は改めてふたつのカップを、片方を妻が取り上げ、口をつけるのを眺める。
「……ん、美味しい。日本の味って感じ」
「だろ。子供の頃は、年越しそば、いつもこれだった。なかなかでかい方は食べさせてくれなくて」
「思い出の味?」
「まぁ」
「――確かにここ数年、お正月には行ってなかったわよね。初売りでお土産買って、成人の日のあたりなら、行ってもいいけど」
「わかった」
本当は明日にでも行きたかったけど、この辺りが、落としどころかな。
ずっと影薄かったけど、お稲荷さんってぐらいだし、お前のご利益と思うことにするよ。子供の頃は、邪険にしてごめんな。
指にひっつきそうな日の出の赤色を指で確かめて、俺は凹んだどんぶりの温みをつるりとなでた。
ある発泡ポリスチレンの温みの記憶 月宮アル @A_tsukimiya
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