第2話 後編
「人がいないところでお話しできないでしょうか」という椋君の申し出を、アトリは恋愛のことも少し考えながら「ハイ」と返事をした。でもそれは予想通り、遺産の歌についてであった。
「歌が鍵ではないってどういうことですか? 」
アトリは自分の選んだ人気の無い公園で、驚きの声を上げた。それに対し椋君は、話し始めから至って冷静だった。
「昨日僕が第九の歓喜の歌を流したときも、判定に時間がかかったんです。さっきのテイク・ファイブも人の声です。人の声、きっと多くの人の声が鍵なんじないかと思うんです。星の数ほどある曲の中から、一曲を探し当てるなんて無理ですよ」
「だったら歓喜の歌で開きませんか、大人数ですから」
「プロでは駄目だと言うことでしょう。考えてみてください。貰うのは研究者です。それが一人でも組織でも、莫大な金額になる、人生を誤りそうなお金です」
「そうですね、山分けしようなんてうちの研究室でも言っていますから」
「つまりです、歌うのは「僕らでなければならない」と思うんです。決して上手ではない僕たちが協力して歌う、それが幅のある音になる、これこそが鍵だと思うんです。僕は個人ですから、同じように虫を研究している人間は知っています。でも他の研究をしている人までは知らないんです、出来ればあなたに・・・」そこで椋君は黙った。
「わかりました! 私もあなたの意見に大賛成です。でも、多くなればなるほど、もらえる金額は少なくなりますよ」
「開けることが大事なので」
二人は早速行動を開始した。
「それ大正解かもしれない」
研究室のほとんどの人間が言ったが、やはり最後は鶴の一声が必要になった。すると教授はパソコンの画面に映ったまま、電話をかけ
「よう、大悪人、歌の謎が解けたぞ! 解いたのは昆虫学者だが」
「お前には無理だろう、肝っ玉も、あそこも小さい男だから。まだ一度も挑戦してもない卑怯者め!」
「慎重なんだよ、俺のこと悪く言うと誘わないぞ! 」
電話の相手はライバルと言われている教授だった。
この面白い会話を、教授はわざわざみんなに聞かせてくれた。
本番のための準備に二週間以上がかかったのは、多くの組織、そして個人の研究者に至っては、ほぼ全員このことに同意したからだった。何故ならこの場所にわざわざ来るための交通費も、研究に回したいという人がほとんどなのだ。手紙をもらっていない研究者も勿論いる。彼らが本当に研究をしているかとの審査も、鳥里弁護士の仕事であったから、急に先生は忙しくなった。アトリと椋君も、参加者のリストに抜けが無いかということを、何度も何度も確認する日々だった。
そして本番の日がやってきた。
「久しぶりだな、老けたな」
「お前は元々老け顔だから」教授達のやりとりに
「君達はまだそんな風なのかね、若いなあ、懐かしい」と、とても落ち着いた感じの老紳士がしみじみと言ったので
「はい・・・教授、お元気そうで」と二人の恐縮した姿を、他の研究者は笑った。
音響部屋にはかなりの人と、賛同者から前もって取った歌の音源があった。歌は何でも良いだろうが、結局「第九」になった。主な理由は、歌うのにそう難しくないことだったが、やはり誰かが「ドイツ語で歌った方が」と言うので、ドイツ語と母国語で歌うことにした。両方とも二回ずつ、そして、アトリと椋君が何よりも自信となったのは、鳥里先生が若い頃合唱部の指揮をしていたことだった。なので録音音源も、先生の「一、二、三、はい」で始まっていた。
「皆さん、とにかくちょっと練習してみましょうか」と鳥里先生が言って、一度ドイツ語で歌ってみると、意外に音の外れた人間がいなかったので、その場にいた椋君とアトリは、ちょっと苦笑した。
「皆さん、想像以上にお上手です。でもこれが鍵ならば、大きな声で歌いましょう、さあ、よろしいですか?」皆は姿勢を正し、咳払いの音があちこちに響き、それが治まってから、先生はパソコンのボタンを押した。同時にステレオの音も流れ始めたのだが、最初はメトロノームであった。そしてそれを聞きながら、先生はゆっくりと手を顔の高さに上げ、
「・・・二、三、ハイ」
歓喜の歌が部屋一杯に響いた。
短い歌なので、挑戦はあっという間だった。鳥里先生は、その場にいた全員に静寂を求め、この時間が長くなるにつれ、アトリと椋君は満面の笑みになった。ヒソヒソと「合格なの? 」「し! 」という会話も聞こえたが、それを制するようにコンピューターから大きめの声が流れた。
「皆さん、おめでとう、正解です。
皆さんが何の歌を歌ったかは知ることは出来ませんが、協力してここにいることを、誇りに感じます。我が国は先進国とはいえ、国が研究費にかける予算はとても少ない、これは残念な事です。
参加者が多くなれば、最初の金額より少なくなりますが、それぞれの研究に役立ててください。これから先は、鳥里弁護士に一任します。どうか、皆さん仲良くしてくださるようお願いします」
富豪の肉声であった。
「うわ!!!」
歌以上のものすごい歓声が部屋をしばらく包んだ。
「ありがとう、椋」「アトリ!ナイス!」
喜びに満ちていたが、それが静まって、鳥里先生はみんなに言った。
「これからもう一度、参加者のリストの確認を行います。金額については細かな枠組みもあるようですので、それに従いたいと思います。ですが、ご質問、批判等はすべてこの私に。墓場まで持っていきますので」
その一言で幕が下りた。
それから半年後、アトリの研究室には念願のゲノム解析器が到着した。
「あぶく銭は使わなきゃ」と教授の言葉に従い、結局ほとんどが機器に消えてしまった。椋君達個人の研究者には「ありがたく思える金額」が入ったという。
「機械を使いたいのなら、いつでも連絡してくれと言われたんだ」椋君は何よりもそれを喜んでいた。
だがそれは椋君一人だけでは無くて、今回のことで色々な人との繋がりが出来た。もしかしたらこのことが富豪の願いであり、最大の生ける遺産なのではとアトリは考えている。
季節にかかわらず、研究は順調に進むようになったが、夏になり、椋君は忙しくなった。今度、アトリは昆虫採集の手伝いをすることにしている。
そして何故か、鳥里弁護士はこのことを知っていた。
遺産の歌 @watakasann
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