遺産の歌

@watakasann

第1話 前編



「おはよう、アトリちゃん。今日も来てくれたんだね」


 優しい声で、鳥里弁護士は孫より少し年上の女性に声を掛けた。


「おはようございます先生」


この繰り返しをまるで小学生の頃のようにやっているが、アトリは日に日に頭がより低くなっていた。そして先生の方は元々音響の実験室であった広い場所へ、アトリの方はそこをガラス越しに見る事の出来る部屋に行った。


 以前この部屋にあったはずの音響のシステムは撤去され、代わりに頑丈そうなパソコンが一台、デスクとともに置いてある。そして大きくないこの部屋の隅には椅子があるが、そこには警備員が抜き打ちのように座ることがあった。


アトリは当然のようにパソコンのスイッチを入れたが、ここに来た当初はそれも鳥里弁護士の仕事で、部屋にも十数人からの人がいた。あれから四ヶ月が過ぎ、日勤しているのはもうアトリ一人となっていた。立ち上がったパソコンから画面を呼び出し、アトリはノートとペンで画面の文字を、誰もいないので言葉に出しながら写し始めた。


「昨日の挑戦は、と「ラサ・サヤンゲ」 インドネシア民謡、ああ、彼にインドネシア人の親友がいたからだ。この研究機関はまだ一回目なんだ、遅いな。えーっとベートーベンの第九、ああ、合唱の部分か、あ! この人個人だ。使っていた音源はバイロイト祝祭歌劇・・・」


自分の研究とは全く無関係なこのことを、アトリは研究室のために続けなければならなかった。


 

 2050年、この年の大きな出来事は今世紀最大の発明者と言われた人物の死去であった。発明自体は更に二十年ほど前になるが、コンピューター上の「揺るぎないシステム」を構築した人物だった。


その当時から淀みなく続く不正アクセス、詐欺行為などを完全にシャットアウト出来る、信じられない夢のようなシステムだった。しかし実際にそれは正常に作動し、形を変えながら現在に至っている。悪人を捉える極小の網なのだ。


 発明当初は、これほど優秀なシステムであるとは信じられなかった。それは、アインシュタインの相対性理論同様、彼の考えを「理解できる人」が少なかったからだ。

「彼はネット上の不正行為で得た総額以上の金を手に入れた」と言われ、莫大な富を得ることになった。だが、と言うべきなのか、彼には仲の良い妻がいたが、子供がいなかった。前年に妻を亡くし、追うように彼も帰らぬ人となった。

その死の直後、結婚式の招待状のような手紙が、この国の研究施設、個人の研究者に送られてきた。


「私の全遺産を「歌の鍵」を開けた我が国の研究者、施設に贈与します。挑戦権は二回まで、また私の死後、半年たっても鍵が見つからない場合は、国に寄付します」

という内容だった。

勿論、この挑戦場所も記載されており、鳥谷先生のいる音響室にある大きなパソコンが、歌う相手であった。なので、その部屋にも警備員が座る椅子があり、そこが空になると、アトリの部屋にいるという具合だった。

 警備員は一人だけだが、この場所に入るにはかなり厳しいセキュリティーがある。携帯電話、パソコンなどはもちろん御法度。遺産のためのコンピューターに、万が一でも害がある物は持ち込んではいけなかった。

 だがこの部屋のパソコンは外部と繋がっており、曲目、挑戦日時、組織、個人名、研究対象も含めてどこでも閲覧することは可能である。しかしながら、さすがに莫大な遺産の歌の情報のため、アクセスするにはかなりの時間と手順をかけねばならない。故に、アトリの生物科学研究室ではこうなってしまった。


「アトリちゃん、あそこ君の実家のすぐ近所なんだってね、頼むよ、みんなの夢のために。アトリちゃんも最新のゲノム解析器欲しいだろう? それにアトリちゃんは礼儀正しいから弁護士にも好かれると思うんだ、声もいいし、面倒なことも嫌がらずやってくれる。もしかしたらいい人を紹介してくれるかもしれないよ」


教授から、美人と一言も出てこない褒め言葉をもらったアトリは、嫌と言うことなどできようはずも無い。結果実家のパソコンから、日々報告を続けているのであった。

すると、この部屋に鳥里先生の声が響いた。

「アトリちゃん、今から挑戦者が来るんだ、彼らのためにパソコンを空けておいてくれないかい?」

「はい、わかりました」とアトリは部屋を出て、しばらく別の場所で時間を潰さなければならない。挑戦者がこのパソコンで曲目等の入力を終えてから、挑戦を実際に見て帰る、これも一体何度繰り返したかわからなかった。


 音響部屋にはステレオがあり、そこに録音音源を入れ、流すことになっていた。この音源も、実はここに来るまでに何度も調べられている。緊張した面持ちで、挑戦者の集団は小さなカードをステレオに入れた。このパソコン室にも歌が流れ始め


「テイク・ファイブ? ああ、彼が着信音に長いこと使っていたっていう、ジャズの名曲、歌詞があったんだ! それに他の部分はボイスパーカッション・・・うーんこれは変化球かな」


アトリはちょっと正解は難しいだろうと、研究生達との会話を思い出していた。


「あのグループ結成三十年で、作った曲は三千曲だって! 三日に一曲作っているんだよ、俺、自分が全く努力していないと思ったよ」

 

 この挑戦で、アトリももちろんだが、この世の中には本当に多くの歌があると身にしみて知った。微生物から恐竜まで、今までこの地球上に存在していたすべての種の数より、きっと歌の数の方が多いと、研究者達は悟った。

「後半に二回の挑戦と行こうじゃないか」という明るい教授の声とは裏腹に、どの曲かを絞り、もしかしたら特定の歌い手でなければ、鍵は開かないという懸念まであった。今まで、彼の好きな歌、妻が好きな歌、どこから入手したのか、本人の幼児の時の歌もあった。

「最初はアトリちゃんが決めていいよ」という教授の言葉は、どこか投げやりであったが、そうならばとアトリは色々なことを調べ始めた。鳥里弁護士の事までも。その中で、彼が弁護士として、かなりの信念を持った人であることを知った。なりたての頃は思うように稼げず、弁護士なのに、「豊かではない母からの仕送り」で食いつないでいた時もあったという。


「びっくりしたよ、急に私の所に来られてね、遺産のことで協力して頂きたいたいと言うんだ」

笑い話のように彼は、今回のことを含め、アトリに昔話をしてくれた。


「鳥里先生ってとても立派な弁護士の方なんですね」パソコンで教授に報告していると

「知らなかった? その筋では有名な人だよ、賄賂って言葉が辞書にない珍しい人だって」教授の言葉に、研究室の面々は、忘れかけていたこの人への尊敬を取り戻した。


 まだテイク・ファイブが流れる中、部屋に一人の若い男性が入ってきた。何度か顔を見たことがあるが、話をしたことは無かった。だが今日の彼は少し目つきが違って、どこかアトリを引っ張るような強さが感じられ、案の定、彼は初めてアトリに話しかけた。


「この選曲は素晴らしいですね」

「どうしてですか? 」

「テイク・ファイブの作曲者は、この曲と数曲の著作権を、アメリカの赤十字に寄付しているんです」

「そうなんですか!! 」素直に感動したアトリの声がした。

 

 曲が終わり、挑戦者達はコンピューターをじっと見つめていたが、この部屋の二人は会話を続けていた。

「あら・・・長い。いつもはもっと早く画面に「残念ですが違います」と文字が出るけれど」

「ええ、そうですね」彼が答えた後すぐに、数人の落胆した姿が目に入った。そして鳥里先生が何故か微笑みながらこちらを見ているのがわかった。

数分後、先生は部屋に来て

「ああ! 良かった! 椋君! 彼女アトリちゃんって言うんだよ、君達を会わせたくってね。鳥の名前を持つ私がとりもつなんて、ハハハ」

 

アトリというオレンジ色が入った鳥の名前、野鳥好きの彼女の祖父が考えたのだ。

「先生、さっきの挑戦、パソコンの調子が悪かったんですか? 」

「そうじゃないと思うけど。確かに判定まで時間がかかったね。昨日の椋君の第九のときも」

「あ、あなたが第九を。椋さんって、ジンガザハムシの研究者でいらっしゃるんですね」

「ジンガサハムシをご存じですか? 」

椋君はとてもうれしそうな顔をした。


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