脳通短編集
脳通
自然主義者
ライザ・ロッキンベリーは、予定のない休日に、気まぐれで小旅行に行くことにした。
週に一度の休日。今週はいつものように身体疲労(平日に職場の友人たちに誘われて爛れた生活を送り、遊び疲れること)や神経衰弱(触れなくても良い人間関係に首を突っ込んだ結果の憂鬱)に悩まされることなく、珍しく早起きができ、また活力もあったため、きちんとした朝食…目玉焼きとピーナツバターを塗ったトースト…をとり、シャワーを浴びた。シャンプーを泡立てているときにふと、こんな爽やかな日には、見慣れない街の景色でも見たいと思ったのだ。
ライザはシャワーから上がると、外着に着替え、財布と携帯電話と家の鍵とをジーンズのポケットに詰めて家を出た。
ライザは車を持っていなかったので、電車に乗るためにセントパークシャー駅へ行った。しかし時刻表によると、めあてのラドコブ行きはあいにく、定期点検のためにしばらくこの駅には来ないのだそうだ。時刻は八時三十分。残念ながら駅内のカフェはまだ開いていなかったが、今のライザには、早朝のガラガラな駅前で物思いにふけるのも粋なものだと感じられたので、駅前の広場に二つ並んでいるベンチの左の方に腰掛けた。右のベンチには先客がいたのだ。
「あら、ライザじゃないの。」
ライザが振り向くと、その先客が見知った人物であることが分かった。マリア・ピースマンである。パーマをかけた赤毛、真っ赤な口紅、厚化粧。この痩せた女は、ライザの職場の同僚である。今日は大きな黒いリュックを脇に置いていた。
「奇遇ね。」
ライザはそっけなく答えた。マリアとはできるだけ会話をしたくなかったのだ。
しかしマリアはそうでもないらしく、
「どこか行くの?」と聞いてきた。
「アインパークシャーに。たまには遠出してみるのも良いかと思って。」
「ずいぶんな軽装ね?」
「ポーチなんて持ったら買い物袋が持てないもの」
ライザには、マリアが自身の話をしたがっていることが分かった。マリアにはライザの嫌いなところがいくつもあったが、その一つが『自身の話をしたいがために他人に話しかけている』というところだった。
「あなたこそ、どこに行くつもりなの?」ライザは彼女の期待通りの反応をしてみせた。
「
自然派。マリアからその言葉を聞くや、ライザは彼女に話を聞き返してやったことを後悔した。マリアは自然主義者なのだ。
自然派、自然主義者というのは近年出現した思想(といっても、もちろんルソーのような崇高さは持ち合わせていない)で、『人間は生き物(自然の産物)なので、自然に帰依すれば、生き物としての高みへ進化できる』というものである。
この思想は、よく『ライオンの例え』を用いて説明される。
動物園に収監されたライオンは、急死したり早死にしたりしやすい。
一方、サバンナで奔放に暮らすライオンは、被食者の返り討ちに遭うか、非捕食者(縄張り争いやオス同士の喧嘩を指すこともあるが、しばしば人間という意味で使われる言葉だ)に殺されるかしない限りは、大抵が天寿を全うする。
このように、人工的な処置が施されると、『自然的な生命が損失する』…これは彼らの言い分だが…のだそうだ。
「私が通っている
「へえ。」ライザの爽やかな気分は崩れかけていた。自然派の話題が続くのは非常に良くない。マリアは、ライザが友人と酒を飲みに行く相談をしているところに割って入り、酒は本来は毒であるといった旨の話を力説してきたことがあったし、つい先日など、ライザが昼食に市販のサンドイッチを食べていたところに寄ってきて、化学調味料の味はどうだと嫌味ったらしく言ってきたこともあった。もちろん個人の主義や主張は自由だが、こういった少数派で特異な意見を持った集団の中の人間の多くは、自らの考えを他者に押し付けようとしてくるのだ。そしてマリアもその一人だった。
「このリュックの中にはね、食材が入っているのよ。野菜と肉。」
「バーベキューでもするの?」
「まさか!調理なんて自然的じゃないわ。」
「生で食べるつもり?」
マリアとの会話を早急に終わらせたいというのに、ライザは思わず食いついてしまった。マリアの思い通りに動いてしまったことに少しの悔しさと苛立ちを覚えた。
「そうよ。自然主義者向けの生食用食肉の真空パウチなの。」
マリアはリュックからそれを取り出して見せた。透明なビニールの皮膜が、厚切りのステーキのような肉の形に沿ってピッタリと張り付いている。真っ白で、まるで医療用具のようなパッケージの右上には、赤字で《滅菌済》と書かれているのが見えた。
「野菜もいっぱい持って来ているのよ。ナスにトマトにキュウリに…もちろんみんな無農薬だし、有機栽培だし、ワックスも塗っていないからそのまま食べられるのよ。」
「じゃあ…芋虫ごと食べるのも自然的な行為ってわけ?」
「ばかね、虫なんて入ってないわよ」マリアがきっぱりと言う。
「屋内で栽培しているのよ。
マリアは得意げに締めくくったが、ライザはまたも、へえ、と気のない返事をしたきり何も喋らなかった。マリアがまた口を開く。
「ライザ、あなた、元気が無いようだけど?」
「ちょっと気分が悪くなってきて。」(ライザは正直に打ち明けた。)
「あなた、朝食は?ええ?…トーストにピーナツバター!きっとそれのせいだわ…食品添加物に化学調味料の塊。それとあなた、アルコールをよく飲むわよね。焼いて熱で変質した肉も食べるし、農薬のついた野菜も食べる。あなた、非自然が体に堆積しているのよ。違いないわ、肌着の材質はきっと合成繊維でしょう?それと…」
ライザの不快感がいよいよ爆発して口から噴き出すというところで、駅員のアナウンスが流れて来た。
「ラドコブ行き電車は点検を終え、間もなく当駅を出発いたします。お乗りの方はお急ぎください。」
「まあ、遅れてしまうわ!」
マリアは、野菜と真空パウチを半ば強引にリュックに突っ込んで、ファスナーを引っ張り、それを背負いながらベンチを立った。
「じゃあねライザ、お大事に!」
彼女は小走りで駅の中へと消えた。
さて、ライザ・ロッキンベリーは、駅の壁の時計を見た。現在の時刻は九時一分。ちょうど駅内のカフェが開店したころだ。彼女はカフェに赴き、ラムレーズン・パウンドとコーク・フロートをゆっくり楽しんでから、マリアが乗った電車の五本後のラドコブ行きに乗車してアインパークシャーへ向かった。携帯電話の天気予報によると、ついさっきまでアインパークシャーに停滞していた雨雲は、ラドコブの方へ流れていったのだそうだ。目当ての駅に近づいたころには、快晴の空と、陽光を撥ねて輝く美しい海が車窓から一望できたので、ライザは良い一日になる予感に胸を躍らせたのだった。
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