コラム・井の中の井の底

彼は読書家ではなかった、というより、本を全く読んだことがなかったのだ。しかし、ある冬の日のことである。あまりに寒いので、彼は暖を取るために、通りがけの本屋に立ち寄った。

体が温まってそろそろ出ようというころ、ある短編集が目についた。聞いたことのない小説家の本で、帯も付いていなかったし、表紙の絵…海底に沈んだ橋の絵…もぴんと来なかったのだが、なぜか目について、気づけば買っていた。

彼はそれをゆっくりと読み進めた。なにしろ本を読むことに慣れていなかったし集中力も無かったので、同じところを読み返したり、字だけ追って内容が頭に入って来なかったりすることが多々あった。

しかしそれでも面白いことは分かった。いや、その話々に、文体に、魅力に引き込まれていった。そうして彼が短編集を中ほどまで読み進めたころである。彼はなんだか、その小説家を理解したような気になっていた。彼は、この短編集に倣って、自分も一本の話を書いてみよう、と思った。ちなみに彼にこの行動を起こさせたのは、決して作品に触発された純粋な創作意欲ではなく、持て余した暇と自己顕示欲のせいだった。

ジャンルはこの短編集と同じSFにしよう。それで、イルカ漁師の話だ。背びれ目当ての密漁でイルカが絶滅寸前に追いやられて…そう、タイトルは「マフィー」にしよう。主人公が出会うイルカの名前だ。

彼は短編集を読みながら、その傍らで執筆を進めていった。もともと知っていた言葉に加えて、短編集で学んだ語彙や文法も用いた。そしていよいよ「マフィー」が完成したころ、短編集は最後の話に入ろうとしていた。その話は、彼よりも豊富な語彙でつづられており、心情の描写も細かく、主題も明確で、まさに最後を飾るのに相応しい作品であった。


タイトルは「ニドルバーニ」。この世界では、バンドウイルカは、背びれ目当ての密漁のために絶滅してしまった。彼らの背びれからは麻薬が作られるのである。イルカ漁師のジャドがいつものように漁に出ると、漁場の沖を一頭のバンドウイルカが跳ねたのを見る。ジャドはイルカにニドルバーニと名前を付けて、自らの仕事も忘れて、彼をやくざな連中から守るために追い続ける…

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脳通短編集 脳通 @No-do-ri

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