今日は本当に疲れた。

部活動が長引いたし、ようやっと帰れると思った矢先、バスは渋滞にはまり、おまけに電車は事故のせいで遅れていた。もしも計太郎けいたろうに読書の趣味でもあれば、それで読み終わっていない本でも手元にあれば、こう言った時間も、まあそこまで悪いものにはならなかっただろう。しかし彼にそんな趣味はなく、あいにく手元には教科書連中しかなかった。ゲームでもしようかと思えば、携帯電話の充電が、ひょっとして放っておくだけで蒸発してしまうほどしか残っていなかった。母に、帰宅が遅れるという旨のメールを送ると、返信が付くなり、最後の力を使い切ったかのように(いや実際そうなのだ)、画面がふっと消えた。ということがあったのがバスに乗って始めの方だったので、延々と続く暇のせいで、家…マンションの三階だが、階段も廊下もいつもより長く感じた…に着く頃には、とにかく気持ちが疲労していた。

リビングの時計を見ると、時刻は二十二時三十分らしい。どうやら母はもう眠っていた。

計太郎は自室に入るや、背負っていたリュックをベッドに放って、その隣に自身も仰向けに倒れ込んだ。

「あぁ、いけない」

彼は無造作にそう漏らして、ブレザーの内ポケットから箱を取り出した。白無地で、厚紙を折り重ねてできたような、小さい箱である。

もらったのはいつ頃であろうか。小学三年生の頃にはすでに持っていた記憶がある。もっと早い時期から持っている子を見たことがあっても、自分がそうだったという記憶はない。隠すようなものではないが、見せるようなものでもないので、他人の箱がどうなっているかはよく知らないが、計太郎が知っている限りはみんな白無地である。中身は見たことがない。小学生の頃には、中身を見ようとして、親や教師からよく叱られたものだ。こっそり開けてみようと思ったこともあったが、しかし叱られた後では蓋に手をかけることさえも憚られた。当時の友人たちも、箱を開けようとしてこっぴどく叱られたと聞いたし、いつしか開けてみようとも思わなくなった。振ってみるとカタカタ音がするので、何かが入っているとは思うのだが、中身は不思議と気にならなかった。

やはり疲れているときなどは、このように大切なものでも無下に扱ってしまいそうになる。気をつけなければ、と、彼は思い、ベッドの正面の机まで歩き、箱をそっと置いた。箱は常に持ち歩かなければいけないし、それでいて大切にしなければいけない。例えば何かの拍子に潰してしまったら、それは恥ずかしいし、情けないし、とにかく非常識でありえないことなのである。そんなことをしたら、どんな目で見られるか分かったものではない。だから箱は大切にしなければいけない。

計太郎は再びベッドに倒れ込むと、そのまま眠ってしまった。


・・・


まずいことになった、というのは、往々にして手遅れになったあとで思うことである。現に計太郎もそうである。どうやら、常に持ち歩かなければいけなかった箱を家に忘れて来てしまったらしい。そのことに彼が気付いたのは、学校に着き、一時間目が始まったころであった。今ぼくは箱を持っていない。それがばれたらどう思われるだろう?いっそ早退でもしてしまおうか。いや、でも…計太郎は教科書に目を向けていたが、その実、文字など一つも読んでいなかった。考えが同じところをぐるぐると回り、それが『箱を持っていない』を通過するたびに心臓が冷えるのを感じ、『ばれたら』を通過するたびに嫌な汗をかいた。一方で彼の冷静な部分は、『ばれるはずがない』と頑なに言い張るので、余計に彼を混乱させるのだ。結局計太郎は、冷静な彼の意見に従うことにした。つまり、誰も箱を見せろなどと要求してこないし、そもそもふつう箱の話題になどならない、というものだ。幸いにも彼の意見は正しかったようで、この日は事なきを得た。

帰宅した計太郎は、部屋の机に素知らぬ顔で居座っている箱を恨めしそうに見た。お前のせいで一日中散々な気分だったんだぞ。彼は机の前にあるキャスター付きの椅子に腰かけて、溜め息をつき、箱をつまみ上げて、めつすがめつしてみた。どこからどう見ても、ただの真っ白い紙製の箱だ。それにとても軽い。

…中身は何なんだ?と、ふと計太郎は思った。良からぬことを考えている自覚はあったが、しかし今日は、気分を害されるに値するような何かが入っていないと、どうも落ち着かなかった。何を怖がっている?親の言いつけにびくびくする年頃でもないだろう?そうだ、その通りだ。

計太郎は箱の蓋に指をかけ、そして引き上げた。箱はあっけなく開いた。中身は空だった。彼は、開けた拍子に中身をこぼしたのではないか…本心からそう思ったのではない…と足元を見渡したが、結論は変わらなかった。どうも作りがお粗末だったらしい、箱の蓋の裏側で、糊止めの甘い厚紙がひらひら動くようになっていたのだ。振ったときに鳴った音はこれが原因だった。箱の中身は空だった。

計太郎は、途端に馬鹿らしくなったし、腹が立ってきた。こんな、空っぽで出来の悪い厚紙の箱を、今まで大事にしてきたのか、ぼくは。こんなものに気を使って、肝を冷やしたり、後ろめたくなっていたのか。ゴミにでも出してやろうか?いや、やる。ボロボロにした箱を皆に見せつけて、誰かに何か言われたら教えてあげよう、「これは空っぽですよ」と。

計太郎は、まず握力でもって箱を潰し、次に蓋を潰して丸め、潰れていびつになった箱に押し込めてやった。そしてそれを今日のうちに、制服の外側の胸ポケットに、わざと頭を出させるように詰めた。


・・・


翌日。

いつもより少し早めに家を出た計太郎は、いつもより少し長めにバスを待つことにした。そして待っている間、歩道の方を向いたり、体をひねらせたりして、通行人や並んでいる人たちの注意を箱に向けようとした。しかし一向に誰も反応を示さなかった。明らかに彼の胸ポケットに視線を向けた人でさえ、表情一つ変えなかったのだ。計太郎にしてみると、これが面白くなかった。

彼はバスに乗ると、席が空いているのに座らず、少しの揺れで大袈裟に体を壁にぶつけたり、同じく立っている人にわざと寄りかかったりした。挙句には胸ポケットからぐしゃぐしゃの箱を出して手でもてあそんだりしてみたが、しかし依然として彼の箱には誰も興味を示さなかった。また、これは電車でも同じことだった。

計太郎は、学校では周りの反応も違うだろうと踏んでいたのだが、実際バスや電車のときとさほどの違いは無かった。友人たちは彼の胸ポケットから覗くものを見ても苦笑するばかりで、何か尋ねたりということはしなかったのだ。これは教員たちも同じことで、見て見ぬような素振そぶりをする。いや、まあいい、と計太郎は思った。むしろ、今のところ箱の中身を、本当のことを知っているのはぼくだけなのだから、しばらくは…誰かに箱について聞かれて、ぼくが答えるまでは…この優越感に浸っていよう。

そうして、同じように、つまり誰も計太郎の箱について触れぬまま二日が過ぎた。


・・・


あっと声を上げたのは、計太郎の同級生の三洲みしまである。

昼休みに入った直後、購買に一番近い東階段までの狭い廊下はいつも混雑するのだが、それにも関わらず真っ向から真中まんなかを突っ切って歩いてきた計太郎に、三洲は正面からぶつかってしまったのだ。計太郎はよろけただけだったが、三洲は尻もちをついて倒れた。彼は壁に背中をぶつけたが、さほど大きな音はしなかったために野次馬は集まらず、しかし人々は彼らの周囲を避けて歩いた。

「ああ、ごめん。」

計太郎はそう言って、三洲が立ち上がるのをただ見ていた。どうやら三洲には怪我は無さそうだぞ、と思ったからだ。しかし三洲は、立ち上がるなり胸ポケットをまさぐり、慌ただしい挙動でその中身をほじくり出した。そのポケットからは、潰れた白い箱が出て来た。彼はそれを計太郎に突き出して見せ、無言の訴えを仕掛けて来た。

「なんだ、そんなもの。」

計太郎はそう言い放って立ち去ろうとした。事実彼は、もう箱の価値なんぞこれっぽっちも頭に無かった。ところがこの三洲という男はそうでもなかったらしく、

「そんなもの、とはなんだ。」

と突っかかって来た。計太郎はそれを聞いて少々足取りを緩め、

「その中は空っぽだぜ。」

とだけ言い返して、再び歩みを進めた。三洲は何も言ってこなかったが、計太郎が歩いて二人に距離が空いた(というのは、このとき廊下の混雑は解消されていて、この二人しかいなかったのだ)とき、意外な…まさしく計太郎にとってはかなり意外な…発言が飛び出した。

「そんなことは知っている!」

計太郎ははたと足を止めて聞き返す。

「なんだって?」

「箱の中身が空なことくらい、みんな知っているさ。いや、みんなというと語弊があるかな。きみのように最近知ったやつもいれば、まだ知らないやつも少しはいるだろう。でも大抵のやつは知っている。」

計太郎は頭だけ振り返って聞いていたが、やがて体を三洲の方へ向け、歩み寄った。歩きながら、計太郎は茫然自失といった状態だった。三洲の前に立つと、計太郎は言った。

「じゃあ、箱自体が大切なのか?」

「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。つまるところ考え方によるな。きみはどう考えている?」

「出来の悪い厚紙の箱だ。」

「どうりで」(と三洲は言って鼻を鳴らし、続けた。)

「いいかい。きみはさっき、尻もちをついたぼくに手を貸さなかったね。その前はどうだ。人混みを悠然と突っ切って来やがった。おかげで僕の箱はこの有様さ。つまりだね…」

三洲の話は中断された。通りがかった教員に、何かの用事で呼び出されたようだった。そこで計太郎は教員に断り、三洲から最後の言葉を聞こうとした。

「つまり、なんなんだ?」

三洲は、まだ分からないのか、と言わんばかりの眼差しを計太郎に向け、

「つまり、箱自体が大事なのさ。」

とだけ言って、向こうに見える東階段をすでに下り始めていた教員に、小走りでついて行った。

廊下にはもう、計太郎のほかには誰もいなかった。

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