天啓を待つのみのシリンダーボックス

ドアベルを鳴らす。

ジリリリ…

ドアベルから指を離し、ノックを三回。

コンコンコン

ドアベルを鳴らしながら、更に強く三回。

ジリリリ…ドンドンドン

鍵が開く音がして、腹立たしげに勢いよく扉が開く。それはまるでドアの前にいる者にぶつけようとしているようで、実際ミアも、鍵の開く音を聞いて身を引いていなかったらぶつかっていただろう。

確かにノックもドアベルもしつこかったと思うが、しかしここまでしないと彼は出てこないのだ。ミアが彼と会うのはこれで三回目になる…一度目・二度目は廃棄物が散乱していた件の聴取…が、彼女は先の二回でそのことについて学んでいる。

彼は相変わらず、髪がボサボサで、こけた頬まで無精髭を生やしていて、メガネの薄いレンズの端にはチラホラと水垢のようなシミが見えた。おおよそ清潔で丁寧な生活を送っているようには見えないし、加えて言えば三十三歳よりも老けて見えた。今日は特に清潔感を欠いて見えたのは、彼の着ている作業着のせいだった。赤やら黒やら緑やらの絵の具がベタベタと付いた灰色の作業着が、今日は絵の具の他に、フチが茶色い黄ばんだシミや、赤黒いシミなどがそこここに出来ている。そして彼からは…正確に言えば家の中からは…異臭がした。顔をしかめてしまうほどのこの悪臭は、実は家の外にも大いに漏れ出しており、今日ミアが来たのはこのためだった。

「なんだよ」

彼…ダルジマブ・マダンチップが不快感をあらわにするように言った。

「市役所環境課のミア・ラーダーです。マダンチップさんのお宅から異臭がすると当局に通報があり…」

ミアが話している最中に彼がドアを閉めようとしたので、彼女は慌ててノブを掴んで止めた。

「ドアなんて開けてたらもっと苦情来ちゃうよ。」彼がドアの隙間から言う。

「そういうことじゃなくてですね…まず異臭の原因を確認したいのですが。」

ミアがそう返すと、今度は彼女を押し返す強さでドアが開かれた。

「じゃあ、とっとと確認して帰ってくれ。」


彼に先導され、廊下を進む。廊下の壁には彼の描いた大小様々な絵が飾ってあり、さながら画廊のようだった(ミアは一度だけ、小学生の頃に『教養』のためと両親に半ば強引に連れて行かれたことがあるが、裸の女の絵が飾ってあることと、走ったら知らないおじさんに叱られることしか印象に残らなかった)。絵の下にはもれなく、題名と制作年と制作方法が記述したプレートも一緒に掲示されている。ミアにはどれもピンと来ない。

鉛筆で描かれた精緻な住宅街の風景画の中央に、油絵で緑色の牛が描かれている『形而上的体裁』

丘の上から見る日の出と日の入りの風景が、それぞれ一つのキャンバスの上下に分けて描かれている『空転する水』


画面の三割ほどが剥がれ落ちたように白くなっている、海底に沈んだ橋の絵『天啓を待つのみのシリンダーボックス』の側の扉を開ける(このときの異臭は凄まじかった)と、異様に広い部屋に出た。それは、この家の面積の半分近くは占めているのではないか、というほどの広さだった。

「ずいぶんと広いお部屋ですね?」

「台所と、廊下を挟んでもう一つ部屋があったんだが、壁をぶち抜いて一つにしてしまったんだよ。」

彼は自慢げにそう語った。色々と気になるところはあった…賃貸のはずだが大家の許可は取ったのか?建築規制上の問題は無いのか?そもそもどうやって…が、あまり踏み込むと面倒なことになりそうだったので、ミアは少し感心したように「なるほど」とだけ返して、部屋を見渡してみた。

部屋の奥には窓があり、向かって右手の隅に洗面台、左手に勝手口が見える。部屋に入ってすぐ左にある長机の上には色々な道具…ミアに分かるのは、筆、パレット、色付き粘土のようにも見える絵の具の塊くらいであった…が散乱している。洗面台の右側、つまり部屋の側面に備え付けられたキッチンのコンロからは、大きな鍋が煮立つ音がグラグラと聞こえており、立ち登る白煙が上方の換気扇に吸い込まれて行くのが見えた。色々なものが置いてある部屋だが、なによりも彼女の目を引いたのは、洗面台の手前に横たわる、大きな赤い肉の塊だった。

「あの赤いものは?」

ミアはシャツの袖を被せた手で顔の下半分を押さえながら言った。この部屋は特に臭気が酷かったのだ。

「あれは極北のシカさ。猟果通販サイト(狩猟したものの消費できなかった分をネット上で販売するサイト)で見つけて、ほぼ丸々一頭を安く仕入れた。現地で、畑を荒らすってんで駆除されたやつ。通例なら狩った獲物は食うらしいんだがね、鉄砲でくたばらないのを毒矢で仕留めちまったもんだから食えなくなったんだと。」

「…それを、何のために購入なさったんです?」

「膠を作るためだが。」

「膠?」

「きみはものを知らないな。キャンバスやパネルの地作りで塗ったり、顔料に混ぜたりして使うものだよ。動物のはらわたや骨なんかを煮込んで、煮出した汁を乾燥させて作る。」

彼は得意になるでもなく、心底から、なぜそんなことも知らないのだ、とでも言いたげな様子で語った。ミアは心の中で、知ったこっちゃないわよ、と言い返した。

「市販の商品ではダメなんですか?」

彼女がそう聞くと、彼は、

「売り物に依存したくはないのだよ。」

と言った。ミアにはその言葉が、あの『形而上的体裁』や『空転する水』を見たときと同じくらいに理解できなかった。


・・・


ミアは芸術家という人種が嫌いだった。

それは、退屈な画廊を作るからでも、そこを走り回ると知らないおじさんに叱られるからでもない。彼らの活動は、その多くが周囲への迷惑を顧みない。そしてあまつさえ恥を知らず、傲慢に、『芸術』という大義名分のもと、自己の価値観を他者に押し売るからである。

そういうわけで、彼女は、恨みはないが、デリカシーの無いカメラマンや、物乞いのようなストリートミュージシャンを嫌悪していた。なかんずく最も嫌いだったのは、生活保護で食い繋ぎ、いつか一山当ててやろうと画策する無名の画家…あるいは自称画家…だった。

そして彼女は今日、その自称画家と四度目の対面を果たすことになっている。前回の訪問から、わずか一ヶ月ほどぶりの再開であった。

ドアベルを鳴らす。

ジリリリ…

ドアベルから指を離し、ノックを三回。

コンコンコン

ドアベルを鳴らしながら、更に強く三回。

ジリリリ…ドンドンドン

鍵を開ける音が聞こえ、扉はまたもミアを殴りつけるかのような強さで開いた。

「またあんたか。」

ダルジマブ・マダンチップが言う。今日は例の異臭はしなかった(が、画材のために水代をケチった彼自身は、全身からそれとは別の不快な臭いを放っていた)。

「今日はどんな文句をつけてくれるんだ?」

いつものことだが、起き抜けにバケツの水をひっかけられたかのような不快な表情をしている。

「今日は要件が二つあります。まず、近隣の住民から通報があったため、実情を確認しに来ました。」

「通報?」

「マダンチップさんが、ご自宅の裏に廃棄物を埋めていると。」

「…敷地内だが?」

「ということは、通報は事実なんですね。」

ダルジマブは口を閉じ、左目の下瞼をピクリと痙攣させて舌打ちした。ミアは話を続ける。

「敷地内でも敷地外でも、廃棄物を地面に埋めるのは不法投棄になります…今回は環境課の方で処理しておきますが、逮捕されるかも知れないので今後は注意してください。そして…」

ダルジマブが不満そうに口を開くのを見て、ミアは、彼がひょっとして屁理屈をこねて繰り出す前に、足早に要件を伝えようと思った。

「二件目ですが、次に不法投棄…並びに、異臭などで近隣住民から役所へ通報があった場合、マダンチップさんにはこの家を強制的に立ち退いていただくことになりました。」

度重なる通報と苦情…または、ミアの感知しないところで起きていたらしい近隣トラブルなどに耐えかねた役所と警察とが、この自称画家の出方次第でいよいよ強行に出ることにしたわけだ。そしてその事実は、この画家の首に括る首輪にもなる。顔には出さなかったが、ミアは、一発お見舞いしてやった、という気分になった。立場上難しかったが、以前からガツンと言ってやりたかったのだ。少しの沈黙…彼女はダルジマブの動きを伺っていた…彼はその間ミアの目を見ていたが、そのうち含みのあるような笑みを浮かべながら言った。

「それなら構わない。今、ちょうど荷造りをしていたところだ。」

これにミアは不意打ちを食らった。いや、一発お見舞いしてやったのならカウンターとでも呼ぶべきか。厄介な変人を押さえつけられた、という喜びも束の間だった。

「どういうことでしょうか、それは…おっしゃる意味が。旅行でもなさるんですか?」

彼女はあからさまな動揺を見せてしまった。その様を見たダルジマブは、余裕を持った口ぶりで答える。

「引越しさ。海の外へな。この国の国民には、私の芸術は難しいようだからね。もう少し頭の良い国へ行くよ、絵と画材だけ担いでね。」

ミアは、その態度と言葉に腹を立てたが、毅然とした態度で返す。

「お言葉ですが…ご存知ですか?生活保護受給者の渡航は制限されています。」

「正規のやり方ではね。」

この言葉をミアは決して誤解しなかった。しかも、そのせいで、いままで首輪を繋いでいた言葉が唇の隙間から抜け出してしまったのだ。

「誰も買わないわよ、あんな絵。」

ダルジマブの目から、一瞬にして穏やかさが消えた。そして、これも一瞬のことだったのだが、ミアの左頬に強烈な平手が打たれた。彼女はあまりの衝撃のため、すぐには何が起きたか分からなかったが、ふと気付くと鼻血をダラダラ垂れ流して座り込んでいた。殴打の衝撃でよろけ、玄関の横の柵に鼻を強打したのだ。口も血の味がする。頬に触れたが、感覚が鈍かった。ダルジマブが彼女を蹴倒そうとしたとき、通行人たちが駆け寄ってきてそれを止め、ミアを引っ張って彼から離した。しばらくすると数名の警官が到着し、通行人たちに抑えられていたダルジマブは、二名の警官によってパトカーへと押し込められた。


・・・


ルーカー・ラーダーは今年で六歳になる。今はテレビの前に鎮座し、チョコレート味のコーンスナックをつまみながら、トゥーニー・チャンネルの、皮肉屋なコードヒーローのウサギが主人公の人気アニメ『鳩目のコニー』を絶賛視聴中だった。

ルーカーというのは、ミアの父親からもらった名前である。あのダルジマブの件の後、ミアはそれまでも交際があった同僚の男と結婚し、翌年の初めに子供が産まれ、仕事も辞めた。

彼は…あの自称画家は連行されたが、何らかの精神疾患を患っていたとのことで、気の毒にもどこかの施設に収容させられたそうだ。しかしきっとそこでは食事が三食出されるし、定期的に入浴することになる。むしろ今までよりも健全な生活と言えるのではないのだろうか。

そこに未だに彼がいるのかは怪しいところだが、まあいずれにせよ、私の預かり知らぬところで預かり知らぬように生きているなら…あるいは野垂れ死んでいても…それで良い、と、ミアは思っていた。

また、彼の住んでいた家は取り壊された。一階の間取りが大幅に変えられており、改修が難しかったせいだという。その際、家にあった絵はどうしたのか知らないが、きっと誰の目も触れられないことになったのには間違いないだろう。

仕事を辞めた今、どこへやらと消えた自称画家のことなど思い出したくもないし、普段は頭をよぎることもないのだが、ルーカーがこうしてアニメを観ている姿などを見ると、あの壁にかけてあった奇態な絵…タイトルまで頭に残っている。天啓を待つのみのシリンダーボックス…を見たときと似た気分になる。

これが不愉快であったミアは、いまやコーンスナックをつまむことも忘れてモニターに釘付けになっている息子を怒鳴りつけた。

「くだらないアニメなんか観ていないで、チャネルをニュースに変えてちょうだい。」

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