開かない傘

たまに、道端に傘が置いてあることがある。

それは歩道に横たえてあったり、ご丁寧にブロック塀に掛けてあったりする。

大抵はガサいビニール傘か派手な色の女性用傘で、しかも把手などが目に見えて汚れている場合が多いので、交番に届けるどころか、手を触れることさえ憚られるため、何日もそこに置きっぱなしなのだ。

京介は、先からほつほつと降り出した雨が本降りになってきたうえ、財布を持ち合わせていないため、やむなくそういう傘を手に取ることにした。通りがかりの駐車場の、ポールとポールとの間に渡してあるロープに掛けてあった折り畳み傘である。人の目はなかった。京介は手に取った傘を素早く開こうとしたが、開かなかった。壊れているのか?と、彼は思った。彼は、そばにあったシャッターの閉まった建物…きっと個人経営の美容室か何か…の日除けテントの下に入った。改めて傘を開こうと試みる。が、しかしやはり開かなかった。頼む、寒いんだよ…薄手の服しか着ていない京介に、十月下旬の雨は堪えた…金具に手をかける。傘は開かなかった。京介は傘を開くことを諦めたが、いつか開いてくれることを期待して、右手で傘を持ったまま日除けテントの外へ出た。

とにかく今は早急に家に帰りたい。たかが傘一本に邪魔されるわけにはいかないのだ。


少し歩くと、車がそれなりに行き交っている通りに突き当たった。歩行者はいなかった。

京介は、『おしてください』と表示された信号機の押しボタンのスイッチを捻り、向かいの信号が青に変わるのを待つ間に再び傘と格闘し始めた。しかし一向に車通りが収まる気配がない。スイッチの表示を見ると、まだ『押してください』のままだった。もう一度…銀色の部分を摘んで…捻る。表示は変わらなかった。

おいおい、勘弁してくれよ。壊れているのか?傘もお前も、俺が家に帰るのを邪魔しているのか、ええ?

京介は警察かどこかに故障を報告してやろうと思ったが、あいにく携帯電話も持っていなかった。車通りも多かったため、仕方なく、彼は遠回りして、押しボタン式ではない横断歩道を渡った。


またしばらく歩いた。今は住宅街の一本道を歩いている。かなり傾斜のついた上り坂だ。先ほどのような車通りは全く無く、人の姿も見えなかった。雨は先ほどよりも幾分か強くなっていた。京介には、水浸しのスニーカーも、肌に張り付くリネンの生地も、冷たくなって動きにくい手も、家までの長い道も、何もかもがどうしようもなく不快に感じられた。歩きながらまた傘を開こうとしてみる…開いたところでもう使うつもりは無かった…が、傘は開かなかった。

透明なスライド部分を摘み、持ち手側に引っ張る。開かない。やはり壊れているのだ。まあいい、と京介は思った。もう少しで家に着くのだから。その矢先、またもや邪魔が入った。京介の背後から車が突進してきたのだ。京介はけたたましいクラクションに驚いて飛びのいた。車…白いワゴン車…は彼を横切り、少し離れた路肩に寄って停車した。京介は思った。きっと降りて来て因縁をつけてくるつもりだろう。冗談じゃない。俺はちゃんと左車線を歩いていたってのに。どいつもこいつも俺が家に帰るのを邪魔しやがって。


ワゴン車から男が二人、傘もささずに出て来た。どちらも同じ格好で、白のポロシャツに白のズボン。胸元には赤い紐のネームプレートがぶら下がっている。

男の一人が京介のそばに小走りで駆け寄って来た。小柄で狐のような顔をした男だ。

「木原京介さんですね?」

もう一人の男…背が高くて小太りなメガネの男…はいつの間にか京介の背後にまわっていて、彼は二人の男に囲まれていた。

捕まってたまるか。京介は弾かれたように走り出し、二人の隙間をすり抜けようと試みたが、背後の男に左腕を掴まれて引き戻された。その衝撃で右手に持っていた折り畳み傘を落としてしまった。背後の男は京介の両腕をがっちりと掴み、彼の背で組ませ、車の方へ連れて行こうとする。京介は咄嗟に、

「傘が!」と叫んだ。

それを聞いた小柄の方が、京介が落とした折り畳み傘を拾った。

「傘は一緒に持って行っていですから。ほら、車までさしていきましょうね。」

小柄の男が手早く傘の柄を伸ばしてスライド部分を奥の方へ滑らせると、傘はその動きに合わせて簡単に開いた。彼は京介に傘をさして言った。

「車内にタオルがあるので体を拭きましょう。着替えは病院に到着するまで我慢してください。」

ぱんと張った傘がバタバタと雨を弾く。水浸しのスニーカー、肌に張り付くリネンの生地、冷たくなって動きにくい手。ワゴン車の後部座席に押し込められながら、京介は心底から家に帰りたいと思った。

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