(2)


「ああ。これはこれは、島津屋の旦那様ではありませんか。血相を変えてどうなされたのですか?」

 おたまの時とは打って変わって、どこか冷ややかな口調で祥之心が訊ねれば、

「どうもこうもあるものか!」

 どん! と、上がり框に足を乗せる音がした。

 お陰で依代は理解した。

 ああ。こいつか……と。

 どうしておたまの前に来てくれなかったのかと恨みがましくさえ思う。

「なんだその顔。なんか文句でもあるのか!」

「店の者に凄むのはおやめください」

 すみれが素直に顔に出してしまったのだろう。すかさず祥之心が口を開き、すみれから自分へと注意を向けるべく、男を睨み付けるのが伝わって来た。

 その上で、男は言う。

「おい! 小娘!」と。すみれと祥之心の間にいる依代に向かって。

「なっ!」と気色ばむのは祥之心。

 だが、依代はふわりと微笑みを浮かべて「なんでしょう?」と応えた。

 お陰で男の怒りは更に燃え上がる。

「なんでしょうじゃねぇ! 俺の大事な大事な息子が、絵から出て来た鬼に連れて行かれたんだ! ありゃあ、一体全体どういうことだ!」

「どうとは?」

「は?」

「連れて行かれてしまったことは大変ですが、それで私どもにどうしろと仰るのでしょうか?」

「お、お前は……」

 男の声が怒りによって震えていた。

「ふざけるのも大概にしろ!!」

 びりびりと店を揺らすほどの大音声だった。

 だが、依代は顔色一つ変えずに微笑んだままさらりと返した。

「ふざけてなどおりませんが、何をそんなに怒っていらっしゃるのですか?」

「息子を鬼に攫われたと言ってるんだ!」

「はあ」

「はあ……じゃないだろ! 何なんだアレは!」

「鬼の姿だったのであれば、鬼でしょうねぇ」

「そんなものが本当にいるわけがないだろ!」

「であれば、鬼ではないのでしょうねぇ」

「じゃあ、何なんだ!」

「存じ上げません」

 憎らしいほどまでに完璧な微笑みを浮かべ、怒りを逆撫でするように穏やかに切り返す依代。お陰で男の顔は茹でダコ状態。こめかみには血管が浮き上がり、破裂するのではないかと思ったと、後に祥之心とすみれが口にするが、知っていてやっているのだから依代は気にしない。

「鬼が攫ったと仰る一方で、鬼などいないと言われてしまえば、それが何だったかなど、見てもいない私どもには答える術はありません」

「アレは貴様のとこから借り受けたものだろ! だったら、どうにかしろ!」

「何故ですか?」

「は?」

 殊更不思議そうに小首を傾げれば、間の抜けた声を上げる男。

 ああ。楽しい……とは思ってはいけないと自身を戒める依代。

 だが、依代は怒っていたのだ。せっかくの気持ちのいい朝を台無しにされたのだから。

 所詮自業自得。八つ当たりをされるいわれはない。

 故に依代は、わずかに瞼を下ろして男を見据える。口元にはまだ笑みを湛えたまま、

「あの絵をお貸しする前に、再三、再四、しつこく何度も繰り返しお貸しする条件をお伝えしましたよね?」

「それがどうした!」

「きちんとお守りくださいましたか?」

「は?」

「お守りくださいましたか?」

「それは………………………守ったさ」

「見苦しい嘘はおやめなさい」

 刹那。依代は笑みを浮かべるのをやめた。

 ヒュッと男が息を吸い込んだ音が耳に届く。

「条件を守っていて、どうして御子息が鬼に攫われる事態に陥るというのですか」

「そ、それは……」

「それは?」

「…………」

 重ねて問い掛けても答えはない。当然、答えられるはずもない。

「あなたはお貸しする条件を破った。決して破ってはいけない約束を破ったのです。私は説明したはずです。約束を……条件を破ったその時は、大切な御子息を失うことになりますよと。本当にお分かりですか? と。何度も何度も繰り返し説明しましたよね? 念を押しましたよね?」

「だ、だからって、まさか鬼が出て来て絵の中に連れ去るなんて、どこの誰が想像できるって言うんだ!」

「出来なかったご自分が悪いのでは?」

「なっ」

 あまりの突き放した発言に、男が言葉を束の間失う。

 依代は同情の欠片も見せずに畳み込む。

「医者でも治せぬ病を治してくれる絵に縋っておきながら、人外の力が及んでいるモノに助けを求めておきながら。その奇跡の恩恵に預かっておきながら、鬼の存在だけは認められないと? それはまた随分と都合の良い考えをなさったものですね。私は言いましたよ。約束を破った暁には、大切なものを失うと。確かに方法はお伝えしませんでしたが、伝えたところで何が変わっていたというのですか? 初めから鬼が攫って行きますよと言えば、あなたは約束を守っていたとでもいうのですか? 毎日一度感謝してくれればいいという約束。人ですから、一日ぐらいは忙しくて忘れることもあるかもしれません。そのぐらいの配慮はあの鬼もしてくれます。ですが、あなたは破り続けた。破り続けない限り現れることのない鬼が出るまで、あなたは約束を破り続けた。違いますか?」

「ぐ……」

 何物も映さぬ銀色の瞳にまっすぐに見詰められ、男が顔を引き攣らせる。

「あなたが約束を破らなければ、あなたは大事な御子息を失うことはなかったのです」

「だ、だからって、誰もこんなこと……」

「想像しなかったのはあなたの罪です。想像できるだけのことは説明をしました。何度も何度も念を押して、本当に理解できたのかと繰り返したとき、解かったから早くしろと怒鳴り付けたのはどなたでしょう。条件を記載した同意書に、名を記したのは誰でしょう?

 よろしいですか? 人外の力を手に入れるときは、それ相応の条件を守る必要があります。それを甘く見たのはあなたの責任。これは、自業自得以外の何物でもないのですよ」

「だが、じゃあ、息子はどうなる?!」

「さあ。いつ攫われたのか存じませんが。急がなければ鬼の餌にでもなっているのではありませんか?」

「だ、だったら、あの絵を持って、祓い屋なりなんなりに駆け込むぞ!」

「どうぞ。それで助け出せるものならばいくらでも。速くしないと手遅れになりかねませんよ?」

「訴えてやるからな!」

「誰にです?」

「何?」

「何の容疑ででしょうか? 私どもはただの損料屋。調べられたところで埃の一つも出ては来ません」

「鬼を使って人を攫っただろ!」

「それをどうやって立証するのでしょうか? 鬼など、存在すると本当に信じているのかと疑われるのはあなたの方なのでは?」

 眼を細め、口元を吊り上げる。

 男が怒りのためか何なのか、何かを言い返そうと口を開閉する気配を感じる。

 指だけは確実に突き付けているのは解かるが、腹が立っているのは依代の方だった。

 おたまはちゃんと守ったのだ。

 だが、この男は守らなかったせいで、大事だとのたまう息子に恐ろしい思いをさせている。

 それに関して愁傷に救いを求めて来るのであればまだ救いはあっただろう。

 だが、この男は自分の行いを棚に上げて被害者面をするだけ。救いを与えた依代を、ひいては病を治してくれた《菩薩》のことまで悪く言っているのだ。

 大人げないと言われようと、気に入らなかった。

 故に、たった一つだけ好機を与えてやることにした。

 その答えによってはすぐにでも助けてやろうと。

「ああ。そう言えば一つだけすぐにでも御子息を救う方法がありました」

「な、なんだそれは!」

 と、男が上がり框の上に両手を付く気配。

 依代は、ふわりと慈愛に満ちた笑みを浮かべて告げた。

「あなたと御子息の居場所を交換するのです」

「は?」

 本日何度目かの間の抜けた声。

「ですから。鬼に攫われた御子息と、あなたの身柄を交換するのです。そうすれば、あなたは鬼の元へ。御子息はこの世に舞い戻ることが出来ます」

「戻るって、戻るって……」

 意味を理解し、絶望に滲んだ声を上げる。

「誰よりも大切な御子息なのでしょう? あなたが約束を破ったせいで鬼に攫われて、想像を絶する恐怖を味わっているのです。本当に大切なのであれば、いくらでも身代わりになれるのではないですか? 果たして、一体どんな世界があなたを待っているのでしょか? おそらく、本物の術者を見つけて鬼をどうにかしてもらうより、こちらの方が手早く助け出せると思うのですが……」

「ほ、他に方法はないのか?」

「ありません」

 否定は速かった。

「この世とは違う場所に攫われたものをただで取り返すことなど出来るわけがないのです。交換するしかありません。さあ、どうされます? 御子息の命を取るか、ご自身の命を取るか。あなたが軽く考えていた結果これなのです。誰が悪いわけでもありません。恨むのであればご自身を。これは自業自得以外の何物でもないのですから」

 ふふふ。と、重ねて笑って見せれば、

「お、覚えてろよ!」

 男は大切だと口にしていた息子よりも自分の命を選んで出て行った。

 そこへすかさず、ずっと廊下で待機していたらしい齢十になる愛らしい顔つきの童が、塩の入ったツボを持って現れた。

 とことこと帳場を縦断し、はだしのままで暖簾を潜り、ばさりばさりと塩を撒く。

 そして、再び暖簾を潜って戻って来た咲助は、「よくやったよ!」とすみれに力いっぱい抱きすくめられて絶賛された。

 咲助は声が出ない。それでも嬉しそうにすみれの腕の中で笑って見せる。

「しかし、どうしますか?」

 と妻と咲助の微笑ましい光景を横に、表情を曇らせて祥之心が訊ねれば、依代は深々と溜息一つ吐いて立ち上がる。

「どちらへ?」

「鬼のところです。契約者が不幸に見舞われる分にはどうでもいいのですが、息子さんには罪はありませんからね。多分。そんな息子さんの命が掛かっても、自分の命を差し出す根性もないのですから嘆かわしい限りですが、少し鬼のところへ行って話をしてきます。あとは、その御子息とも話をしてみてからどうするかを決めようかと思います」

「ですが、大丈夫ですか?」

「ええ。私には《彼》がいますから」

 と、腰の刀の柄に手を添えれば、即座にガチャリと不快気に一声鳴かれた。

 当然のことながら、依代は綺麗にそれを無視し、祥之心が眉尻を下げる。

「本当に、この件で少しは己の行動を顧みてくれればいいのですが……」

 と、祥之心に何かを言われる前に独り言ちて歩き出す。

 向かうは《奇跡の掛け軸》がある商品庫。



 人々の想いが宿りし物の名は《付喪神》。

 奇異なものが生まれ宿ったその種を、いかに育て摘み取るか。

 心を寄せれば良きことが。

 見向きもせねば災いが。

 全ては己の行動次第。

《自業自得》と主は告げる。

 全ての結果は自己責任。

 それが《奇生種屋》と呼ばれる、不思議な品々を扱う損料屋の生業と。


「さあ、迎えにでも行きますか」

『独りで行け』

 うんざりしている黒雷を連れ立って、人のいい依代は再び掛け軸の中へと踏み込んだ。



                                     『了』

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《奇生種屋》 橘紫綺 @tatibana

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