終章 『奇生種屋』

(1)


「皆さんおはようございます」

 依代は店の奥にある商品庫の戸口を開いて声を掛けた。

 その耳には『おはよう』と気軽に返すもの。『おはようございます』と丁寧に返すもの。『おはようさん。今日も可愛いね』と軽口を叩くもの。様々な《声》が返って来る。

 傍から見れば、そこには綺麗に整理整頓されてお呼びがかかるのを静かに待っている損料屋の道具たちにしか見えないだろう。

 だが、依代には《視えて》いた。豪奢な着物を纏うもの。質素な着物を纏うもの。妖艶な笑みを浮かべる美姫。愛らしい女童。毛並み豊かな猫や伊達男たちの姿が。

 皆、《もの》に宿った付喪神たち。

 それらが一斉に己たちの主に向かって挨拶を返す。

 依代はその姿を見るのが何よりも楽しみだった。

 それは彼らにしても同じだったのだろう。依代の姿を見た瞬間、わっと押し寄せて先を争うかのように子供の姿を模った付喪神たちが群がって、一生懸命に気を引こうと話し掛けて来る。

 それを毎度のように年長者である付喪神たちが、苦笑を浮かべて見守って、時に落ち着かせて依代の助け舟となる。

 いつも漂う温かな空気。自分に向けられる絶対の信頼感が依代は何よりも愛おしくて嬉しくて。

「ここにはもう、慣れましたか?」

 新しい仲間としてやって来てから早二か月経った掛け軸に声を掛ける。

 壁に掛けられた掛け軸は、あの《奇跡の掛け軸》。そこから抜け出した《菩薩》は、とても穏やかな表情浮かべて『はい』と頷いた。

『皆さんとても良くしてくださいますので、すっかりと打ち解けることが出来ています』

 途端に、『《菩薩》って面白いんだぜ。この間なんか』と、話し始めたのは根付の付喪神の一人。

 それが呼び水となって、次々と話題に乗っかって来る小さな付喪神たち。《菩薩》はどうやら小さな付喪神たちに大層なつかれていると知り、依代の心は温まる。

《眼》を失って視えるようになった存在が愛おしくて堪らない。

 この温かな空間が好ましくて堪らない。

 長い間人々の想いを向けられて宿った付喪神。人の姿を模り、人のために役立てることを嬉しそうに語る姿を視ることが、話を聞くことが、依代にとっての何よりの楽しみ。

 そんな付喪神を生み出した人間を、依代は捨てたものではないと思っている。

 一族の仕事をしていただけでは絶対に抱くことのなかった気持ち。

 彼らと出会えたからこそ、今では人間のことを心から好きでいられる。

 付喪神を生み出す人間のことを好きでいられるし、助けてあげたいとも思える。

 そう思わせてくれる彼らのことがとてもとても大切で好きだった。

『ただ――』

 と、そんな幸せな空気を遠慮気味に破ったのは、憂い顔の《菩薩》。

 どうしたのかと依代が改めて視線を向けると、他の付喪神たちも途端に口を噤み表情を曇らせる。

『ここにいらっしゃる皆さまは本当によくしてくださるのですが……』

「何かあったのですか?」

『ええ。《彼》が少し……』

 それだけで何が起きたのか依代は察した。

 わずかに依代の眉間に皴が寄る。

『なんだって、人間って、約束守れないんだろうな』

 むすっと頬を膨らませて口を尖らせる付喪神。

『ワタシたちを生み出したのも人間だというのに』

 物悲しげに瞼を下ろす付喪神。

『きちんと守ってくれる人間もいるのに』

 残念そうな様子の付喪神。

 ああ嫌だ。と依代は思う。せっかくの穏やかで、賑やかな空気を壊されるのは本当に嫌だった。

 自分たちを生み出した人間と同じはずの人間が、どうして自分たちを大切にしてくれないのか。いろいろな人間がいるということは頭ではわかっていても心では理解し切れない。

『それが人間というものですよ』

 と、この店で最も古い瑠璃色の花瓶の付喪神が穏やかに宥めれば、なんとも言えない空気を醸し出しながらも静かに黙りこくる面々。

『ね、主様』

 と、少し寂しそうに微笑まれて、依代も同じ顔をする。

「本当にすみません。でも、きちんと約束を守って下さる方も沢山います。あまり気を落とさないで下さいね、皆さん」

 と励ませば、

『では、《彼》らはどうすれば……』

 と、不安を隠し切れない《菩薩》が問う。

 故に依代は答えた。

「まず、それが本当なのであれば、そろそろ当事者が来るでしょうから。話はそれからですね」

 申し訳なさそうな笑みを向け、

「では、今日も一日よろしくお願いしますね」

 気を取り直すように声を掛け、様々な思いを乗せた『は~い』と言う返事を聞きながら、依代は商品庫を後にする。


◆◇◆◇◆◇◆


 さて。一体どこの誰が約束を破ったのかと思いながら帳場へ向かうと、何やらとても賑やかな声が響いて来た。

 一体全体何事かと、廊下と帳場を隔てる暖簾を潜って見てみれば、

「や~ん。可愛い! 可愛すぎなんだけど! え? なんで? お腹空いてるのかしら」

 女中であるすみれが、黄色い声を上げてデレデレになっていた。年の頃は二十も半ば。愛嬌のある顔立ちの、落ち込んだ姿など一度も見たことがないほど賑やかで明るい女性である。とにかく小さいものと可愛いものと美男子が大好きで、依代は良く『可愛い!』と言われて抱き着かれて頬擦りされている。

 残念ながら、そんなすみれの顔を依代は一度も見たことがない。ただ、すみれはとても暖かいので傍にいると心地よい。ただ、

「いい加減解放しなさい。住み着いてしまったらどうするつもりですか」

 呆れ返った苦言が向けられる。相手は依代の留守中もしっかりと店番をしてくれる番頭である祥之心。彼は《身代わり人形》である祥之助が具現化する際に見本となってくれている男だった。年の頃は三十手前の、驚くほどの美形だと周囲で評判。その写しである祥之助が、何故ともに出歩いていて同じように婦女子たちに騒がれないのか依代には不思議ではならないが、

「その時は招き猫にでもなってもらいましょうよ! ねぇ。シロちゃん」

 にゃー。

「誰がシロちゃんですか。流れも良く返事もしてますが、駄目です。返しなさい」

「え~旦那様の意地悪」

 にゃー。

「意地悪で結構。あまりわがままを言うと、離縁ですよ」

「えーっ!! それはダメダメ! ごめんね、シロちゃん。私、やっぱり白ちゃんより旦那様の方が大事なの!」

 にゃー。

「本当に、あなたには申し訳ないとは思うのよ? でも、私、美男子が好きなの! 旦那様にものの見事に心の臓撃ち抜かれてるから、手放されるわけにはいかないの! ごめんね!」

 にゃー。

「ああ。本当にごめんなさい。お願いだからそんな声で鳴かないで!」

 にゃー。

「なんなんですか、その茶番は。まるで私が鬼のようではありませんか」

 正真正銘夫婦であり、妻であるすみれのわざとらしい大袈裟な言動に、心の底から呆れた声を出す祥之心。

「朝から本当に賑やかで面白いですね、すみれさん」

 と、祥之心の傍に座って声を掛ければ、

「朝からうるさくて申し訳ありません、依代様」

「いいえ。楽しくていいですよ。まさか本日最初のお客様が猫だったとは……」

「でもでも、その人が脅しをかけてまで追い出せって言うんですよ」

 うっうっう。と、袖口で目元を押さえている様がありありと想像できる気配に、依代は笑い、

「ものには言い方というものがあるだろうに」

 と、溜め息交じりに呆れる祥之心。

 このやり取りが、大体定番の朝。

 いつもの朝を迎えたと内心で思っていると、

「あの。おはようございます」

 少し遠慮がちな若い女人の声がやって来た。

「はい。いらっしゃいませ」

 と、開口一番に反応するのはすみれ。

「ああ。これはこれはおたま様。その後如何ですか?」

 と一度来店した客と名前は忘れない祥之心が要件を訊ねる。

 お陰で依代は来訪者が誰なのか把握すると、どうぞこちらへと上がることを勧めたが、

「いえ。お構いなく。本日はお礼を言いに来ただけですから」

「お礼……ですか?」

「はい。あと、こちらをお返しに……」

 と言って、若い娘は懐から丁寧に四つ折りにした紙を取り出した。

「これは……一月前にいらっしゃったときにお渡しした《奇跡を起こす菩薩の絵》……」

 受け取った祥之心がわずかに眉を下げたのだろう。

「あ、いえ。特に不調があったというわけではないんです!」

 おたまは慌てて否定した。

「では、どうなされたのですか?」

 と依代が問えば、おたまは答えた。

 少しはにかんだような様子で、体の前で手を組んで。

「おかげさまで、そちらの絵のお陰で、父の病気はすっかり良くなりました」

「それは良かったですが……」

「はい。本当に、お医者様でも匙を投げた原因不明の病がすっかり良くなって、こちらでお借りしてから三日と経たずに仕事も普通にできるようになっていたんです。ですから、私たち親子ともども、この絵にはとても感謝していました。いえ、今も十分に感謝していますし、毎日粗末ながらにもお供えもして手を合わせています」

 その言葉に嘘偽りがないということは依代には分かった。

 とても暖かかったから。おたまが心の底からそう思っているということは満面の笑みを視ずとも分かっていた。

「では何故、返しにいらっしゃったのでしょうか? こちらの絵が治せるのは一枚につき一つの病のみ。その家にある限り、二度と同じ病には罹らない御守りとしても効果があるということは最初にご説明したと思いますが……」

「はい。初めに説明されました」

「では、何故?」

「すっかり良くなったからです」

「……」

「すっかり良くなって、心からありがたいなって親子で話していた時です。ふと、父が言ったんです。こんなありがたいモノ、俺たちだけが使っていていいものかと。俺たちが持っていることで、他の人が病を治せないなんてことになってたりはしないかと」

 ああ……と依代は心が温かくなるのを感じた。

「だから、この絵は返しに行ったらどうだろうかと言う話になりまして。そうすれば他の人も救われるんじゃないかって。ですから今回、お返しに来ました。長い間お借りしてすみません。でも、ありがとうございました」

 と、屈託のない笑顔を浮かべて頭を下げる気配に、依代の顔には自然と笑みが浮かんでいた。

 祥之心とすみれの顔にも満足げな笑みが浮かんでいるのが察せられた。

 何と気持ちの良い娘だろうかと依代は思う。

「むしろ、こちらこそ感謝申し上げます」

 ごく自然に、依代は床に手を付いて深々と頭を下げた。

「え、いや、そんな! あ、頭を上げてください」

 途端におたまが慌てだす。

 だが、そうしたくなるほどに依代は嬉しかったのだ。

 約束を守り、他者を労わり、物を大切にしてくれる心の持ち主が。

「あなた様のお心遣い。しかと受け取りました。ですが、絵が無くなったからと言って――」

「はい。解っています。感謝の気持ちは忘れません。忘れられるはずがありません。この絵があったから、私は路頭に迷うことがなかったのですから。父を失うことなどなかったのですから。これからもその絵と、その絵を貸してくださったこちらのお店には感謝し続けたいと思っています」

「本当に、ありがとうございます」

 と、依代は再び頭を下げた。

 それに倣い、祥之心とすみれも頭を下げる気配が続く。

 そうしたくなるほどに、清々しいまでに気持ちの良い娘だった。

 願わくば、その心がずっと続いてくれますようにと祈りを込めて、依代は頭を下げる。

 今は良くてもずっと続けることは難しい。習慣になってしまえば話は別だが、続かないことも知っている。続けることは本当に難しいということを。出来ればおたま親子が再び不幸に見舞われないことを心から願いつつ頭を上げる。

「では、また何かあったときは遠慮なくお立ち寄りください。御贔屓にしてくださる方には値引き割引いたしますので」

 と、少し悪戯っぽく微笑んで見せれば、

「是非そのときはまたよろしくお願いします」

 と、おたまもにやりと微笑んで深々と頭を下げて出て行った。

 その姿を三人で暫し見送ったのに、

「なんて可愛らしい子なんでしょ」

 口を開いたのはすみれだった。

「いつもいつもあんな子ばっかり来てくれたら、こんな幸せなこともないのに」

「まったくです」

 と、祥之心も深々と同意する。

 だが、悲しいかな。幸せな時間は割とすぐにぶち壊される。

「おい! 奇生種屋! お前たち一体どう責任を取ってくれるんだ!」

 足音も荒く、暖簾を切り裂かんばかりの勢いで払いのけてやって来た、身形のいい壮年の男が、今回の破壊者だった。


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