山へ
蓮乗十互
【本文】山へ
祭りが終わった。村の広場にしつらえられた祭壇も青年たちの手で既に片付けられ、三日にわたって繰り広げられた聖なる狂乱も、静かな日常の中に再び埋没しようとしていた。喧噪の後のけだるさを胸に、人々は地面を引きずるように広場を掃き清めている。子供達はまだ興奮醒めやらぬ面持ちで、犬を追いかけはしゃぎ回る。そんな広場の様子を夢のように眺めながら、ハルは村長が来るのを待っていた。
ハルは幼い頃から、この年に一度の祭りが大好きだった。食べ放題の御馳走と、音楽と歌と踊り。さんざんはしゃいだ後の、ぽっかりと心にあいた空白は、奇妙に心地よいものと感じられるのが常だった。しかし、今年の祭りはハルにとって特別な意味を持つものであった。彼は去年の秋に精通を迎え、この祭りを境に大人として認められることになったのである。
ハルをはじめ今年成人を迎える四人の少年たちは、この祭りの主役だった。大人たちから祝いの言葉を投げかけられ、初めて酒を飲んだ。すっぱくて口が焼けるようにひりついたが、ハルは我慢して喉に押し込んだ。くらり、と世界が回ったような気がしたけれど、じきに慣れて、続いて身体の奥から熱が沸いてくるように感じた。
祭りが終わっても、まだハルたちのやるべき事は残っていた。この村で成人を迎えたものは、大人になる為の試練として、旅に出なければならないのだ。ハルは、生まれてからまだ一度も村から遠く離れたことはなかった。それだけに、これからの旅を思うと期待と不安がないまぜになった気持ちになる。他の者も同じ気持ちと見えて、誰一人騒ぐことなく、静かに村長を待っていた。
やがて、村長がやって来た。手に何かを抱えている。よく見るとそれは、四本の木の枝と四個の鳥型のブローチだった。
「君達の旅の順番と語り部が決まったから、よく聞くように」
最初に名前を呼ばれたのは、ボンだった。ボンは四人の中でも最年長で、もうすぐ十六になる。村長は手にしたものを一組ボンに渡しながら
「君が最初に旅立つことになる。語り部は西の森のヨゴセだ。ヨゴセの家に行ったら、これを渡すように」
といった。
「次は、ハル」
「はい」
ハルは緊張した。
「君は二番目だ。語り部はコノイ。いいね」
「はい」
ハルは村長から、木の枝とブローチを受け取った。
試練の旅には、それぞれ一人の呪術師が語り部として同行することになっていた。ハルたちは旅をしながら、呪術師からこの世界の成立と神々の物語を学ぶのだ。ハルと旅を共にすることになったコノイは、高位のシャーマンとして村の中でも尊敬を集めている老人だった。ハルは彼とはあまり話をしたことがない。不思議な術で作物の採れ具合を占ったり病気を治したりするコノイは、ハルにとって遠く、恐ろしく、近寄り難い存在だった。
村長はあとの二人にも同じように語り部の名を告げ、木の枝とブローチを手渡した。
「わかっているとは思うが、帰ってきたら君たちには結婚相手を選ぶ権利が与えられる。今のうちに相手を考えておくんだね」
ハルは、ちらり、とボンの顔を見た。年令からいって、ボンが最初に花嫁を選ぶことになるだろう。ハルは二番目だ。そしてボンとハルは、同じ娘に思いを寄せていた。
「さあ、行きなさい」
村長が促すと、四人はそれぞれの語り部の家へ向かうべく歩き出した。ハルもコノイの家を目指して広場を後にした。
歩きながら、ハルはノンモのことを考えた。ハルとボンが好意を抱いている娘だ。
ノンモは、今年十五になる美しい娘で、去年の秋に成人儀礼を終えていた。村の若い男の多くがノンモと結婚したいと願っていたが、去年まで彼女は結婚相手としての資格を得ていなかったのだ。だから、今年成人式を迎えたハルたちは、ノンモを射止めるチャンスを得た者として、村の若い男連中の羨望とやっかみを集めていた。
ハルもボンも、ノンモのことが好きだった。ノンモはどちらかといえば、ハルの方に好意を寄せていた。少なくとも、ハルはそう思っていた。
でも──とハルは考える。ボンは俺より年上だから、俺より先に花嫁を指名する権利がある。ボンはきっと、ノンモを指名するだろう。そしたら俺は──。
そこまで考えると、ハルの胸は締めつけられるように痛んだ。くやしさと寂しさが入り混じって、知らず知らずのうちにブローチを握りしめていた。
ちょうどその時、道の向こうからオルがやって来た。オルはハルに気がつくと、にっこりと笑った。
「終わったのかい」
「うん」
ハルは小さくうなずいた。
ハルには兄弟が六人いたが、中でもハルは、五つ年上のこの長男が大好きだった。オルもまた、ハルをよくかわいがっていた。彼は非常に頭がよく、都会の高校を主席で卒業し、この春から首都の大学で勉強を続けることになっていた。
ハルは、オルがよそ行きの服を着ていることに気がついた。この村ではあまり見かけない、スーツに革靴という恰好だ。オルの手にしたスーツケースに目をやりながら、ハルは言った。
「もう出発するの?」
「ああ。バスが出る前に、先生たちにも挨拶しておきたいからな」
「俺、決まったよ。やっぱり二番目だ」
「そうか、頑張れよ」
オルはハルの肩をたたいた。オルの手は大きく、ハルの肩にほっとするような暖かさを伝えた。
「もう少し、兄さんとゆっくりいたかったな」
「仕方ないさ。俺もお前も、今は大事な時なんだから」
「向こうに行っても、手紙おくれよ」
「わかってる。じゃあな」
二人は手を振って別れた。ハルはオルに会ったことで、少し気分が晴れたような気がした。
*
コノイの家は、村の北のはずれにあった。
ハルが戸をくぐると、コノイはすでに呪術師の正装をし、椅子に腰掛けて待っていた。白いあごひげと顔に刻まれた深い皺が、ハルの何倍にもなる老人の年令を物語っていた。
ハルはコノイに三回おじぎをして、木の枝と鳥のブローチを手渡した。
「ポポイの血の一族のハルです。どうか私を、いにしえの神々が歩いた道に導いて、私に村人の証を授けてください」
父親から教わった通りの作法で、ハルはコノイに挨拶をした。しかしコノイは、無言でじっとハルの目を見つめている。何か作法を間違えたのだろうか。老人の目は深く静かな色をたたえて、ハルの目を通して心の底を覗こうとしているかのように思われた。
「あの──」
ハルがしびれを切らして声をかけようとした時、ふいにコノイが口を開いた。
「お前さんは、この木の枝と鳥の意味を知っておるかね」
しわがれた、地面に響くような声だった。ハルはどきりとして、思わず首を横に振った。コノイはそんなハルの様子に目を細め、笑った。
「小指の先ほどの水飲み鳥が海の水を二十一回飲み干す間くらい昔の話じゃ。その頃は人間は火を持っておらず、鉄器も土器もなかった。しかし神々は火を使って、豊かな暮らしを営んでおったのじゃ。その時、ドンメンという神様がおっての、人間を哀れんで火を恵んでやろうと思い立ったのじゃが、他の神々に強く反対されてしもうた。そこでドンメンは、内緒で人間に火を与えようとして、ある時こっそり木の枝を持ってルーフルの火吹き山へ登った。しかし他の神々がそのことを知り、ドンメンが枝に火をともした途端、怒って彼の身体を八つ裂きにしてしまったのじゃ。その時、ドンメンがかわいがっていた一羽の小鳥が木の枝を掠め取って、人間の所まで運んでくれたのじゃよ」
ハルの村に伝わる古い神話だった。内容自体は、幼い頃におとぎ話として聞かされ、ハルもなんとなく知っていた。しかし老人の言葉は、深く、ゆっくりとハルの心に響いて胸の奥を震わせる。それは何か、よくは分からないけれど、非常に深い意味を持つ物語として聞こえてくるのだった。
「じゃあこの枝とブローチは、その時のものなんだね」
「そうじゃよ。察しのいい子じゃのう」
コノイはにこにこと微笑んだ。ハルは内心、俺はもう子供じゃないぞ、と思ったが、口には出さなかった。この老人から見れば、ハルの父親だって子供に見えるに違いない。
「さて、この話にはまだ続きがある。小鳥はうまく神々の手を逃れたつもりじゃったが、冥府の神がその火に呪いをかけていたのじゃ。人間が喜んで火を使うと、呪いで子供が七百人、老人が三百人死んでしもうた。それ以来、人間は死ぬことになったということじゃ」
「ふうん。じゃあ、それまで人間は死ななかったの?」
「そうじゃ。人間は火と引き換えに、死ぬ事をおぼえたのじゃ」
ハルには、「死ぬ」ということが実はよくわからなかった。ハルにとって死は、葬儀祭礼のにぎやかなイメージがつきまとうものだし、幼い頃に仲の良い友達が川で溺れ死んだ時にも、どこか遠くへ行っちゃったんだという認識しかなかった。無論今では、観念的にはなんとなくわかっている。しかし、それでもなにか不確かであやふやな感情が残っていた。
今の老人の話によれば、昔は人間は死ななかったという。昔は死なずにすんだ人間が、今は死ななければならない。この不条理な事態にハルの頭は混乱してしまった。
「死ぬって、なんだかよくわからない。どういうことなの?」
ハルは疑問を素直に口にした。コノイはその言葉を聞くと、少し口元で暖かく笑った。しかしすぐに真顔に戻り、いった。
「それはの、人間が精霊の世界に行くことじゃ。普通は一度精霊界に行ってしもうたら、もう戻ってはこれん。じゃから死は、人間がこの世と別れることを意味する。昔は人間は、精霊界と自由に行き来しておったのじゃが、呪いでその入り口が閉ざされてしもうたのじゃ」
それも、ハルの村で広く信じられていることだった。ハルはそれ以上追及しようとはしなかったが、決してこの答えに素直に納得したわけではなかった。それは、オルのせいだった。
オルはこの村の古い習俗や迷信を毛嫌いしていた。そんなだからこの国はいつまでも遅れているんだ、というのがオルの口癖だった。彼は大学を出て技術者になり、この国の近代化を進めるのが夢だった。
ハルはこうした信仰や神話物語が大好きだった。しかしそうした話をオルの前ですると、オルは馬鹿にしたように笑うのが常だった。「お前はまだそんな子供みたいな事をいってるのか」とオルがいう。その度に、ハルはなんだかよくわからなくなってくるのだ。オルのいうことが間違いだという確信は持てなかったし、といって神話が嘘っ八だとは思いたくなかった。
コノイは、ハルがまだ何かいいたそうにしているのを見て、にやりと笑った。
「お前さん、信じてないな」
「そういうわけじゃないけど──」
「まあよい。いつかわかる時も来るじゃろう。さてハルよ、お前さんはわしと一緒に、ルーフル山に登ることになっておる。人間の火が元あった場所への。そこでお前さんは、何かを見つけて帰ってくることになる」
「何を?」
「それは自分で見つけるんじゃな。わしの役目は、その手助けをしてやることじゃ。出発は五日後、それまではここにいて、わしの仕事でも見ているがいい」
そういうと、コノイは立ち上がった。こうして、ハルとコノイの顔合わせは終わった。
*
それからの五日間は、ハルにはとても楽しいものだった。コノイの呪術師としての仕事を見ることは、ハルに大きな刺激を与えた。
毎日、五~六人の村人がコノイのもとを訪れ、病気の癒しを頼んだ。コノイは、これでも最近減ってきているのだといった。政府が人々に、呪術師ではなく近代的な病院にかかることを奨励しているからだ。それでもハルの村の人々は、まだ呪術師に診てもらうことを望む者が多かった。
コノイの治療は、年老いた普段の彼の姿からは想像できないくらいに激しいものだった。火を焚いた部屋の中で喚き、震え、白目を剥いて患部を激しく撫でこする。時には指を腹に刺し入れ、悪い部分を取り除くことさえあった。精霊がわしに降りて癒すのだ、とコノイはいう。確かにそれは、いつものコノイではないようにハルには思えた。コノイ以上の、いや、人間以上の力がそこに働いているのがわかった。暗い淵を覗いたような恐怖と、ふらふらとのめり込んでしまいそうな陶酔。そうしたものが部屋の空気を支配して、ハルは何度も眩暈をおぼえた。
「精霊が戻らなくなることってないの?」
ある夜ハルは、コノイにこう尋ねた。コノイは治療が済むと、いつも急に冷めて、さっきまでの狂乱がまるで嘘のようにいつもの様子に戻るのだった。その急激な意識の変化が、ハルには不思議だった。
コノイはハルの言葉を聞くと、笑っていった。
「若い頃には、よく戻れなくなることがあったの。ある時なぞは、患者をほったらかして丸三日も精霊に憑かれてしもうた」
「それで、どうなった」
「別に。その後もう三日、寝込んだだけじゃ。結局あれは悪霊だったのじゃな。わしも若かったから、精霊を選びそこねてしまったのじゃ。ある程度経験を積んでからは、そうしたこともなくなったがの」
ハルはコノイの顔をまっすぐに見つめながら、話を聞いていた。彼は少しずつ、この老人を尊敬し始めていた。
*
五日が過ぎ、とうとう出発の朝がやって来た。
麻袋に食糧を詰め、背中におう。ハルのまだ成熟し切らない体格に、重すぎる荷物がのしかかった。コノイは旅立ちの儀式を済ませ、ハルと共に家の外に出た。ようやく東の空が白み始め、鶏の声が遠くで一日の始まりを告げていた。
「行くぞ」
「はい」
老人と少年は、朝の光を背に受けながら歩き出した。
しばらくの間、二人は無言だった。コノイはじっと前を見据えて速足で歩き、ハルはコノイに遅れまいと一所懸命で喋る余裕などなかった。時間が経つにつれ陽光は高く輝き、二つの人影を地面に縫いつけるように照りつける。地面から熱気が上がって、ハルの心までふらふらと舞い上がってしまいそうだった。
「疲れたか」
ふいにコノイがいった。ハルははっとして、首を振った。
「ううん、まだ大丈夫」
「もう少し進んだら、バルク川に出る。そこで休憩しよう」
そういうと、コノイは再び前を見つめて歩き出した。ハルも気力を振り絞って後に続いた。
しばらく歩いた頃、急に空気がひんやりと涼しくなった。バルク川にたどり着いたのだ。ゆうに二百メートルを越える川幅を持つ、この国一番の大河である。川岸に沿って樹木が並び、大きな木陰を作っている。二人は木の根元に腰を下ろした。
「なんじゃ、若いのにだらしがないのお」
肩で呼吸を整えているハルを見て、コノイがにやにやと笑った。ハルはムッとしたように口をとがらせ
「コノイは手ぶらじゃないか。俺はこんなに荷物を背負ってるんだぞ」
「わしゃあ年寄りじゃからの。年寄りはいたわるもんじゃ。まあ、荷物を降ろして水でも飲むがいい」
コノイはあごで川を指した。川面に陽光がきらきらと反射して、ハルの顔を照らしていた。さっきまでハルを苦しめていた刺すような陽光ではなく、それはとても柔らかな光だった。ハルは両手で水を掬い受け、すすった。冷たい水が身体の奥にしみとおるようだ。
「さて、一息ついた所で始めるとするかの」
「えっ、何を?」
「まずこの場所で、わしはお前にこの世界の成り立ちの物語を伝えようと思う。これはずっと古くから口伝えにされてきたものじゃ。一言一句、聞き漏らすでないぞ」
コノイの表情が真剣なものになっていた。これは、そう、彼が人々に精霊から聞いた言葉を伝える時にいつも見せるような、超然とした顔だ。ハルも自然と姿勢を正し、コノイの目を真っすぐに見つめた。
「この世界の始まりには、どろどろに溶けた土の塊があるだけじゃった。それはとても熱く煮えたぎって、その熱の中では何物も存在することは不可能じゃった。それがある時、急に熱が失われ出して土が固まりだした。しかし今度はどんどん冷たくなっていって、すべてが凍りついてしもうた。その冷たさのなかでは、何物も存在することは不可能じゃった。それからまた気の遠くなるような時間が経つと、また土は溶けて熱くなった。こうして冷えたり熱くなったりが七回続いた後、土は丁度良い温度になって人の形に固まった。それが、タルバの神様だったのじゃ」
ここでコノイは一旦口を閉じ、ハルが自分の言ったことを理解しているかどうか、確かめるようにハルの顔を眺めた。そしてハルの熱心な表情を見て取ると、再び話を続けた。
「タルバは生まれたばかりの、いってみれば赤ん坊の神様じゃ。しかし回りには、親も遊び相手もいない。世界にはタルバしかいなかった。そこでタルバは天と地と、万物を作ろうと決心したのじゃ。天はすぐにできた。それは何もない場所じゃった。しかし地面を作ろうとしても材料がない。そこでタルバは、自分の身体を使うことを思いついた。タルバが横たわって地面の様子を思い描くと、彼の身体はだんだん崩れていって、様々なものになっていった。彼の目は沼と湖になった。口は海になった。鼻は丘に、耳は森になった。そして、陰茎はルーフル山になった」
「インケイって、何?」
「おちんちんじゃよ」
「じゃあ、ルーフルの火吹き山は、タルバのおちんちんなんだ」
「そうゆうことじゃ。こうしてタルバは地上を作っていったのじゃが、自分の身体を地面に変えることはとても苦しいことじゃった。木や湖がひとつできる度に、ものすごい痛みがタルバを苦しめた。その痛みにタルバは泣いて、その涙が流れてバルク川になった。そしてとうとう、あまりの痛さに耐え切れずに、タルバは死んでしもうたのじゃ。タルバの死ぬ瞬間、ルーフルが爆発してどろどろに溶けた土の塊を天にぶちまけた。中でも一番大きい塊が太陽になり、二番目に大きな塊が月となり、無数のしずくが星になった。こうして、天と地のすべてが出来上がったというわけじゃ」
ハルの頭の内側にヴィジョンが浮かぶ。土くれの神が虚空に横たわり、腐食し崩れ、世界が萌える。くらり、と眩暈がしたように感じてハルは目をしばたいた。どくん、どくん、胸が高鳴る。凄まじいイメージだった。この世界のすべてのものがタルバという神の壮絶な産みの苦しみを経ていることに、ハルの心は激しく揺れた。しかしコノイは、ハルの動揺に気がつかぬように、深く澄んだ目をして先を続けた。
「さて、太陽ができて世界が明るくなった。その光が地上に降り注ぐと、次々に生命が生まれた。まず湖から神々と精霊が生まれ、森では鳥や動物が生まれた。神々は人間が自分と同じ湖から生まれるものと思い、祝いの準備をして待っておった。しかし人間はいつまでたっても湖から現れなかった。人間は神々の知らぬうちに、タルバの涙であるバルク川からひっそりと生まれてきたのじゃ。それ以来、バルク川は人間界と神々・精霊の世界を隔てる境界となったというわけじゃ」
コノイは話を終え、ハルの顔を見つめた。ハルはなかなか口を開こうとはしなかった。いや、開けなかったというべきだろう。この老人の口から語られる神話には、これまで大人たちからおとぎ話のように聞かされてきた物語とは異質の、激しい情動が感じられた。
「どうした、どこかわからない所でもあったか」
「ううん、そうじゃないけど、なんだか──恐い」
コノイはハルの言葉を聞くと、満足したように顔をほころばせた。
「世界の成り立ちの物語はこれでしまいじゃ。続きは、これからの旅の途中に聞かせることになる。つまり、この川の向う側での」
「えっ、じゃあこの川を渡るの?」
「そうじゃ。ルーフル山は、川のずっと向こうにある」
「でも、バルク川の向こうは精霊の世界なんでしょ。そこに行くってことは、死ぬってことじゃないの? 帰ってこれなくなるんじゃないの?」
「わしは呪術師じゃからの、精霊の世界とは行き来ができる。しかし、お前さんは死なねばならんな」
ハルは驚いて、目を見開いた。コノイは、ほっほっほ、と笑い、ハルの頭を撫でていった。
「本当に死ぬわけではない。これまでの、子供の心が死ぬんじゃよ。ただ生きるだけで、村のまつりごとに参加することのなかったお前さんの、心が死ぬんじゃ。試練の旅を終え、再びこの川を渡ってこちら側に戻って来たとき、お前さんは新しい村の大人に生まれ変わるのじゃ。これは、その為の旅なのじゃから」
コノイは立ち上がった。
「さあ、もう少し上流に渡し舟がある。そこで川を渡るとしよう」
そういうとコノイは、ハルに構わずすたすたと歩き出した。ハルは慌てて荷物を背負い、老人の後を追った。
歩きながらコノイは、昔は試練の旅に赴く者は泳いでこの川を渡ったものだ、と語った。しかしこの川には鰐が棲息し、毎年何人かが犠牲となっていた。そのため二十年ほど前から渡し舟が使われるようになったという。
「この川を泳ぎ渡ることが試練のひとつだったのじゃがな。今では楽になったものじゃよ」
渡し守りに金を払い、小さなカヌーに乗り込む。人の良さそうな中年の渡し守りが、オールを巧みに操ってカヌーを川に漕ぎ出した。日差しは相変わらず強かったが、川面を走る冷たい風が膚に気持ち良かった。ハルが川を眺めていると、カヌーの前を一頭の鰐が悠然と横切って行った。
向こう岸でカヌーを降りると、コノイがハルに聞いた。
「どうじゃ、死んだ気になったか?」
「よくわかんない」
少し考えて、ハルは答えた。コノイとハルは、同時に声をあげて笑った。
「さて、行くか」
「はい」
老人と少年は、再び歩き出した。
*
二人の旅は、いわくのある沼や大木など、いにしえの神や精霊が残した足跡をたどるものであった。大きな神話的事件の起きた場所に来る度に二人は足を休め、コノイの口から物語が語られてゆく。神々による人間の抑圧と反抗、文化英雄ドンメン、村の発生、社会の発生、王の誕生。ひとつひとつは断片的な物語に見えるのだが、それがいつしか壮大な神話体系として時間軸の中に位置づけられ、ハルの心に焼きついてゆくのだった。
旅の途中でコノイがハルに語るのは、そうした神話ばかりではなかった。村のしきたりや祭礼の行い方、近所づきあいの方法や作物の取り入れの時期の決め方など、村の成人として必要な様々な知識を、コノイは噛んで含めるようにハルに伝えていった。神話を聞く時ほど面白くはなかったものの、ハルも熱心にコノイの話を聞き、覚えていった。
このようにして日中は、旅と教導に多くの時間が費やされた。日が傾き夜になると、ようやく二人に休息が訪れるのだった。
火を起こし、干し肉とパンを焼く。コノイは小型の酒甕から一杯だけ酒を汲み、毎晩嗜んだ。ハルも誘われるままに、ほんの少し付き合った。ハルはまだ酒をおいしいとは感じなかったが、アルコールが頭に回る感覚は好きだった。そういうと、コノイは
「お前さんも、いい酒飲みになるぞ」
と笑った。
酔いが回ると、コノイは饒舌になった。神話を語る時の彼とは違った、人の良い老人の顔が現れる。自分の何倍もの人生を生きて来た老人のよもやま話が、ハルには心地よかった。
「白い人間がこの国にやって来たのは、二十年ほども昔じゃった」
三日目の夜、コノイは白人のことを話題にした。
この夜のコノイは上機嫌であった。気持ち良く酔い、ハルに民謡をいくつか歌って聞かせた。その後、ハルの求めに応じて呪術師の仕事にまつわる面白い話を語っていたのだが、話題はやがて政府が伝統呪術を重んじないことの不満に移り、そしてこの国に近代文明をもたらした白人の話になったのである。
「彼らは文明とやらをもたらした。明るい光や、井戸のない所に水を引く施設など、それは便利なものじゃった。じゃが彼らは、そうしたものと引き換えにわしらの神を捨てることを求めたのじゃ。王様は文明に目がくらみ、神を捨てた。そして、わしらにも神を捨てるようにいう。とんでもないことじゃ。のう、ハルよ?」
同意を求めるコノイの言葉に、ハルは曖昧に頷くだけだった。ハルはオルを思い出していた。近代化を進める夢を持って、都会の大学に向かう兄の事を考えていた。ハルには、コノイがオルを糾弾しているように聞こえて、つらかった。しかし酔ったコノイはそのようなハルの様子に気づくこともなく、話を続けた。
「白い人間はわしらに、彼らの神を受け入れさせようとしておる。わしらにはわしらの神がいる。じゃが彼らはわしらの神を笑うんじゃ。わしらの神を見下すんじゃ。そんな傲慢な奴らから学ぶことなど、ありゃあせん」
「でも、白い人達の文明のおかげで、ものすごく便利になったんでしょ。政府は、僕らの生活を良くするために近代化が必要だっていってる。学校で習ったんだ」
「ほう、ほう、ほう!」
ハルの言葉に、コノイは目を剥いた。
「お前さんの口からそんな言葉が出ようとはの。では聞くが、良い生活とは一体何じゃ。昔この国の人間は、神と精霊に守られて幸せに暮らしておった。じゃが今は、物欲しさに目が眩んで、どんなに働いても満足ということをせん。まるで悪しき精霊に取り憑かれたように、近代化とやらに我を忘れて苦しんでおる。そんな生活が、幸せなのか?」
「でも──」
ハルの頭の中で、オルの言葉が蘇った。大学に行かせてくれるよう家族を説得した時の、オルの言葉だ。白い人間の文明は僕たちを幸福にしてくれる。医学は死に病だって治してくれるし、化学は畑から多くの収穫をもたらしてくれる。この国の古い文化を捨てるのは苦しいことだけれど、いつまでも迷信にしがみついてちゃいけないんだ。この国は近代化しなきゃ、駄目なんだ。そう家族に語るオルの瞳は、熱く輝いていた。ハルはオルの言葉がぼんやりとしか分からなかったけれど、彼が真剣に何かをしようとしていることだけはハルにも理解できたのだった。
「オルが──兄さんがいうんだ。これは必要な努力なんだって。この国を早く近代化して、人間らしく生活できるようにしなきゃいけないんだって」
「ほう──オルがのう」
「知ってるの?」
「大学に行くほどの秀才じゃからの、村中の人間が知っておるわい。それにあ奴が成人した時、わしがあ奴をルーフルに導いたのじゃ」
コノイは遠くを見るような目をして、少し言葉を切った。
「──オルは早熟で聡明な子じゃった。ルーフルへの十日ばかりの旅を一緒にしたのじゃが、あ奴はわしの語る神話を喜んで聞いておった。丁度今のお前さんのように、本当に夢中になって聞いておったよ」
この言葉はハルには意外だった。神話や習俗を嫌う今の兄の姿と、コノイの話を喜んで聞く少年時代のオルの姿は、なかなかひとつにならなかった。
「しかし同時にあ奴は、学校で学ぶ白い人間たちの学問にも興味を持っておった。旅の途中、オルはわしにゆうた。自分にはどちらが正しいのかわからぬとな。奴は奴なりに悩んでおったのじゃ。今の政府の学校は、白い人間の世界の見方を学ぶ所だし、成人式の旅はわしらの世界の見方を学ぶものじゃ。選択をせまられ、結局オルはわしらの世界を捨てたのじゃよ」
「──俺、なんにも知らなかった」
「さっきお前さんは、人間らしい生活といったな。人間らしさとは、一体何じゃろうの。今の政府はわしらに文明化を要求する。しかしそれは、白い人々にとっての人間らしさなのではないか? それはわしらの世界ではない。わしらには、神々や精霊と共に生きる生活こそが本当なのじゃ。白い人間は彼らの文明の中で幸福に暮らしているのかも知れない。ひょっとすると、幸福ではないのかも知れない。ただ少なくとも、彼らの世界の中ではわしらは幸福ではないのじゃよ」
コノイは口を閉じると、空を見上げた。冷たい夜風が星空を横切り、焚火の炎がふらりとゆらめく。
「ああ、すっかり酔いが醒めてしもうた。寝るとするかの」
コノイはそうつぶやくと、ごろりと横になった。ハルはコノイの顔をしばらく眺めていたが、やがて自分も横になった。
様々な思いが胸をよぎって、ハルはなかなか寝つけなかった。コノイは規則的な寝息を立てて眠っている。ハルはその背中を、ぼんやりと眺めていた。老人の背中は、案外と小さなものに見えた。
眠れぬ少年を優しく包み込んで、森の夜は静かに更けていった。
*
翌日の昼過ぎ、二人は先発していたヨゴセとボンに出会った。彼らは既にルーフルに登り、村へ帰る途中だった。
ハルはボンに会うと、彼の顔をまじまじと見つめた。彼は既にルーフルで何かを見つけ、村の大人に生まれ変わったのだろうか。もう自分とは違う人間になってしまったのだろうか。しかし外見からは、それ以前のボンと違う様子は見いだせなかった。
「ハルよ、わしはヨゴセと話がある。お前たちはあっちに行ってなさい」
「はい」
ハルとボンが少し離れた木の下に行ったのを見届けると、コノイとヨゴセは腰を下ろした。
ヨゴセは三十半ばの若い呪術師だった。とても逞しい身体つきをして、旅の疲れは少しも見えない。彼は十九の時に「土ウサギがバルク河の向こうからもたらした」高熱を出す病にかかって一週間ほど床に伏せ、視力を半分失ったのをきっかけに神の声を聞くようになったのだった。
「時代、というものでしょうか。私が神々の物語を語って聞かせても、ボンはあまり興味を持ってくれません」
ヨゴセは白く濁った目をコノイに向け、そういった。コノイは水筒の水を一口飲んで応えた。
「そうか。ハルの方は熱心に聞いてくれているのじゃが」
「ボンはこの旅に真剣じゃありません。私はとても大切な事柄を教えようとしているのに、彼の心は浮ついています。これでは何も伝わらない」
「まあそう怒るな。あ奴も今に分かる時がくるさ。それにしても、少しペースが遅いのではないか。普通なら昨日あたりに出会っておる筈じゃが、何かあったのか」
「ああ、西の登山道が崩れてしまって、南へ回っていたものですから。どうも山の様子がおかしいですね。山鳴りがして、何カ所か蒸気が噴き出しています。噴火が始まるのでしょうか」
コノイは西の方角を見上げた。四日間の旅程で既にルーフルの山影は大きく迫り、青い空にそびえていた。
「最後に噴火があったのは、まだわしの生まれる前じゃ。しばらく眠っておったのじゃが、何かが神を刺激しているのじゃろうか」
「そのせいか、岩盤がもろくなっています。気をつけて登って下さい」
「うむ」
コノイの胸に、もやもやといやな予感がわだかまっていた。精霊が何かを語りかけようとしているのは分かるのだが、そっと耳を澄ましても、その声は聞き取れなかった。
一方ハルとボンは、少し離れた木陰に腰を下ろしていた。話題は勿論、この旅での出来事だ。しばらく話をしてもハルにはボンが変わっていないように思えた。
「まったく、子供だましだよなあ。まあ学校に行ってるよりは面白いけどさ」
ボンは笑ってハルにそういった。十代半ばの少年特有の、いたずらっぽい笑いだった。
「お前も聞かせられたろ、タルバとかなんとかの神話。くっだらねえよな。今時、あんなの信じる奴いないぜ」
「そうかなあ。俺は面白かったけど」
「そりゃ、お前が馬鹿なんだよ。今や近代化の時代だぜ。ああいうのを迷信ってんだ、迷信」
ハルは少しムッとしたが、敢えて反論しようとはしなかった。ボンはそんなハルの様子に気づくことなく、先を続けた。
「なあ、山の上に何があったか、教えてやろうか。ただの岩だよ。なんかぐにゃぐにゃして、変な形だった。それにベタベタ触って、それでおしまい。こんなことの為に苦労して旅してたなんて、拍子抜けもいいとこだぜ、まったく」
「ふうん」
ハルは西の空のルーフルを見上げた。きっと何か由来のある岩なんだろう。コノイがまた教えてくれる。ハルはその時のことを考えると、今から胸が躍るのだった。
ボンはルーフルを見上げるハルを黙って見つめていたが、やがてプイと横を向いて、いった。
「俺、ノンモと結婚するぜ」
ハルは、はっ、としてボンに目をやった。ボンはじっと前を向いたまま、続けた。
「俺はノンモが好きだ。他の女じゃ駄目なんだ。年令からいって、指名権は俺が一番だ。俺はノンモを指名する。お前は諦めろ」
ハルはうつむいた。おそらくボンは、そのことだけを考えて旅を続けていたのだろう。ハルも忘れていたわけではないが、コノイの話す物語に夢中であまりノンモのことは考えなかったのは確かだ。今改めて、ハルはノンモに対する自分の想いを自覚しようとしていた。
ボンは押し黙って前を見つめ続けた。ハルも無言で地面を見ていた。
ノンモはハルよりひとつ年上だった。家が近所だったせいか子供の頃からよく一緒に遊び、ハルはノンモを姉のように慕って、ノンモはハルを弟のようにかわいがった。やがて年が上がるにつれ、ハルの中でノンモに対する気持ちは恋愛のそれに変わっていった。ノンモは美しい娘に成長し、年頃の少年たちの憧れの的となっていたが、彼女は特に誰かを好きになる素振りは見せなかった。
ノンモが初潮を迎え結婚の資格を得たと知った時、ハルは彼女に好きな男はいるかと尋ねた。何気ないふりを装ってはいたが、ハルにとってそれは非常に勇気のいる質問だった。ノンモはハルの問いに首を振った。そして、くすっ、と笑ってこういった。
「でも、ハルが大人になったら結婚してもいいな」
それは年下の友人をからかう、他愛のない言葉だったのかも知れない。だがハルにとって、その言葉はどんな宝石よりもキラキラ輝くものだった。
それからしばらくして、ハルは精通を迎えた。
ハルの胸で、ノンモの笑顔が揺れていた。その笑顔がボンに奪われると思うと、心臓のあたりが裂けてしまうように痛んだ。
いやだ。
絶対にいやだ。
ハルはたまらなくなって、思わず立ち上がった。ボンは眩しそうに目を細め、ハルを見上げた。
「お前には渡さない。俺がノンモと結婚するんだ」
ハルの言葉に、ボンは口元で少し笑った。
「──無理だ。指名権は俺が先だ」
「駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ!」
ハルはボンの胸倉をつかんだ。
「ノンモは俺のもんだ。誰にも渡さないぞ!」
ハルがこぶしを振り上げるより早く、ボンがハルに足払いを食らわせた。倒れたハルにのしかかるようにして、ボンはハルを殴りつけた。
「勝手なこといってんじゃねえよ。村のしきたりに逆らうつもりか」
「知るかよ!」
ハルはボンの腹を思いきり蹴った。ボンは宙を飛んで地面に転がり、呻いた。ハルはすかさずボンに飛びかかり、何度も何度も殴りつけた。
「こら、何をやってるんだ!」
コノイとヨゴセが飛んできて、二人を取り押さえた。ハルはヨゴセの腕の中でむちゃくちゃに暴れ、ボンに殴りかかろうともがいた。ボンもハルを睨みつけていたが、コノイの腕を振りほどこうとはしなかった。
ヨゴセは平手でハルの頬を殴ると、地面に強く押しつけた。ハルは抵抗する力を失って、地面に倒れたまま宙を睨んだ。
「一体何が喧嘩の原因なんだ」
ヨゴセの問いかけに、ハルはキッと口を結んで答えなかった。
「ボン、何が原因かいってみろ」
「知らないよ。ハルに聞けよ。いっとくけど、先に手を出したのはハルだからな!」
そういうと、ボンはぷいと横を向いた。コノイとヨゴセは、やれやれ、といった面持ちで顔を見合わせた。
とにかく二人を一緒にしておくのはよくないと判断して、彼らはその場を立ち去ることにした。ヨゴセとボンは村へ、コノイとハルはルーフル山を目指し、別れた。
コノイとハルは、しばらくの間無言だった。コノイは前に立って黙々と歩き、ハルがその後をとぼとぼとついてゆく。やがて口を開いたのは、ハルの方だった。
「──ごめんなさい」
コノイは立ち止まり、ハルを振り返った。ハルはコノイの顔を見ることができず、うつむいていた。コノイはハルの肩に手を置いて、いった。
「子供は他愛もないことですぐに喧嘩するものじゃ。しかし、お前さんはもう立派な大人なのじゃから、理由があるはずじゃな。教えてくれんか」
促されて、ハルは自分の胸にわだかまっている問題を語り出した。ノンモのこと、結婚のこと。最後まで聞くと、コノイは少し笑ってハルの頭をくしゃくしゃ撫でた。
「女を取り合って喧嘩するとは、お前さんも一人前じゃな」
「どうしよう。俺、このままじゃ、ノンモを失っちゃう。そんなのいやだよ」
「ボンが他の女を選ばない限り、仕方あるまい。といって納得できるわけでもないだろうがの」
コノイはハルを促して、再び歩き出した。しばらくコノイは空を見上げ、何事かを考えていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「──わしも若い頃はな、惚れた女がおったものじゃ」
ハルは顔を上げ、先を立って歩くコノイの背中を見つめた。この年老いた老人にも若い頃があったというのが、ハルには想像しにくかった。
「わしが惚れておったのは、やはり村一番の美人といわれた女じゃった。誰もが彼女と結婚したいと願っておった。わしは彼女を愛していたよ。誰にも負けぬくらいにな。わしはその頃、既に呪術師になることが決まっておった。子供の頃から精霊と話ができたからな。そして、成人した呪術師は、年令に関係なく最優先で花嫁を選ぶ権利が与えられておったのじゃ。それは神の花嫁を選ぶことでもあったからじゃ」
「じゃあ、コノイはその人と結婚できたんだね」
ハルはそういった。しかしコノイは、ハルの言葉を無視するように続けた。
「──今から六十年近くも昔のことじゃから、まだまだ村には古い習俗が残っておった。呪術師に選ばれた娘は、神の花嫁として最高の祝福を受けた。そして三日間の新婚生活を送った後、首をはねて神のもとに捧げるしきたりになっておったのじゃ」
「えっ、ど、どうして……!」
「花嫁は呪術師の精を体内に入れてむこうの世界に行く。そこで子を産み、呪術師と精霊の世界との結び付きを強くするのじゃ。また花嫁の血は酒に混ぜて村の成人全員にふるまわれた。それを飲むことで、村人は聖なる力にかかわることが出来るのじゃ」
コノイはそこまでいうと、口を閉じた。ハルは言葉を失い、老人の背中を見つめた。
好きな娘と結婚したい。しかし結婚したなら、その娘は殺されてしまう。そんな不条理なことが有り得るなんて、ハルはそれまで想像もできなかった。目の前にいる老人は、遥か昔にその状況に直面したのだ。自分のものにして殺すか、生かして他の男に譲るか。コノイはその時、どちらを選んだのだろう。ハルはたまらなくなって、口を開いた。
「──それで、どうなったの」
「わしは悩んだよ。好きな女を殺したい筈がない。しかし、他の男に奪われるのも我慢できなかった。どうすればいいのか、誰も教えてくれる者はいなかった。自分で決めるしかなかったのじゃ。苦しかった。いっそ自分が死んでしまえばいいと本気で思った。苦しんで、悩み抜いて、結局──わしはその娘を、嫁に選んだ」
冷たい風が上空から舞いおり、二人の首筋を静かに通り過ぎていった。鳥の鳴き声もいつしか途絶え、コノイの声と二人の足音だけが森に響いていた。
「最初の夜、わしは泣いて女に謝った。女は許すといった。神の花嫁になるのは名誉なことだと笑った。わしは女を抱いた。三日の間、何回も何十回も抱いた。それから女は、わしの目の前で死んでいったのじゃ」
ハルは泣いていた。悲しかった。そして、それ以上に恐かった。一体何故そう感じるのか自分でもよくわからなかったけれど、彼は確かに恐怖していた。
俺が同じ立場にいたら、どうするだろう。ノンモの命を救うために諦めるだろうか、それとも──俺は、ノンモを殺すだろうか。
「二十年前に白い人間がやってきて、わしらの伝統や習俗を破壊した。花嫁供犠も、残酷だといって禁止した。わしは白い人間のやり方には反対じゃ。しかし、このしきたりを禁止してくれたことだけは、感謝せざるをえんのじゃよ」
コノイはそれっきり口をつぐんでしまい、黙々と歩いていた。ハルは声をかけることができず、涙を止めることもできずに、コノイの後をうつむいて歩き続けた。
*
二人がルーフルのふもとに到着したのは、旅立ちから五日目の午前であった。
ルーフルは鐘状活火山で、はるか昔から何度も噴火を繰り返していたことが記録されている。粘性の高い安山岩質のマグマは噴火の度に火山弾を撒き散らし、近辺に住む人々に多くの犠牲者を出していた。腹の底に響くような地鳴りと爆発音、夜の闇に輝く灼熱の流れ。いにしえの人々はこの火山に、深い戦慄を覚えていたに違いない。
最後にルーフルの噴火が確認されたのは、およそ八十年前のことだった。それ以来、この山は静かな眠りについていた。
コノイは地面に耳をつけた。ゴゴ、ゴゴゴウ、と微細な振動がコノイの全身に伝わって、地殻活動が活発になっていることを示していた。
「山が目覚めようとしているのかも知れんな」
ハルは山の中腹を見上げた。白い蒸気が何カ所も噴き出して、岩場が崩れているのが遠目にもわかった。
コノイは立ち上がると、ハルにいった。
「少々危険かも知れんが、行くしかあるまい。これを乗り越えねば、お前さんは村に戻れんからの」
身軽にするため、荷物はここに置いていくことになった。ハルが目印となる大木の横に荷物を降ろすと、コノイは荷の中からブローチと枝を取り出した。祭りの直後、ハルが村長から手渡されたものだ。
「これはお前さんが持っていけ。山の頂上の御神岩への捧げ物じゃからな」
「はい」
ハルはそれを受け取ると、胸元にしまった。そしてコノイの後に続いて、登山道を歩きだした。
山の中腹までは、路は森の中を蛇行するように続いていた。それは道というよりも、むしろ溝のようなものだった。雨期になれば、この路は小さな排水溝の役目を果すのだろう。
コノイは歩きながら、ハルにルーフルと神々を賛美する詠歌を教えた。この付近の部族に伝わるもので、ルーフル山に登る時に好んで歌われるものだった。ハルはコノイに合わせて歌いながら歩いた。路は急坂を含む険しいものだったが、歌のリズムが自然に足を導いてくれるようで、ハルは新鮮な驚きをおぼえた。
「どうじゃ、歌を通じて精霊が助けてくれているのが分かるじゃろう」
コノイの問いに、ハルは頷いて笑った。
山は時折り思い出したように鳴動した。身体に感じる振動はごく微弱なものだったが、この足の下で確かに何かが蠢いているのがハルには分かった。
やがて二人は森を抜け、岩肌をさらけ出した山の中腹にさしかかった。登山道から少し離れた岩の裂け目から、蒸気が勢いよく噴き出して、辺りは湿っぽい熱気に包まれていた。蒸気を避け風通しの良い場所を探し、休息を取るために二人は腰をおろした。
「ハルよ、お前さんはこの山をどう見る?」
一息ついてから、コノイはハルにこう尋ねた。
「つまり、お前さんはこの山に登ってみて何を感じているか、ということなのじゃが」
「そうだなあ」
ハルはぼんやりと景色を眺めながら考えた。この高さから地上を一望するのは、ハルには初めての体験だった。どこまでも青い空を雲が流れてゆく。数日前に越えたバルク川が、遥か遠くを流れているのが見えた。ハルの尻の下では、岩を通じて山の脈動が鈍く響き続けていた。
「よくわからないけど、確かにここは人間の世界とは違うよ。村とは全然違う。清らかで、すがすがしくて、でも同時に乱暴で、僕なんかとても太刀打ちできないような大きな力を持ってる。恐いけど、でも、なんだか心がひきつけられてしまうんだ。不思議だな」
ハルの言葉に、コノイは微笑んだ。
「いいぞ。やはりお前さんはいい感覚を持っておる」
コノイは山の西の斜面を指さした。そこは中腹から麓にかけて、ごつごつとした岩の帯が走っていた。
「あれを見ろ。あれは、八十年ほど前にルーフルが噴火して流れ出した熔岩の跡じゃ。わしはまだ生まれておらんかったが、その時には死者も多く出たという話じゃ。ふもとにあった集落は全滅した。熔岩の跡には未だに木も生えん。ルーフルの噴火は、全ての生ある者を破壊する、大いなる力なのじゃ。じゃが、ルーフルは破壊するばかりではない。同時にその地熱で、多くの植物を育てておる。またこのあたり一帯の地面は、ルーフルが撒き散らした灰でできておる。わしらが口にしている作物は、ルーフルが育んだものなのじゃ」
ハルはコノイの言葉を聞きながら、目の前に広がるパノラマを見つめていた。一面に広がる樹林の間を縫うように道が走っている。所々にぽっかりと空間が開いているのは、人の集落があるのだろう、幾筋かの煙がたなびいて青い空に拡散してゆく。気の遠くなるような長い時間、ルーフルは人間たちの営みを見つめ続けて来たのだろう。ルーフルの懐にいだかれて、小さな人間たちは懸命に生きて来たのだろう。
「ルーフルはわしらを生かし、殺す。それは両面的な力じゃ。わしら人間は、そのルーフルの営みに干渉することはできぬ。白い人間とて、ルーフルの前ではまったく無力なのじゃ。そうしたルーフルの力の源である神や精霊に、わしらは守られて生きてゆくしかないのじゃよ」
「はい」
ハルは素直に頷いた。これまでコノイが教えてくれた神話や色々な話が、今、少しずつ自分の身体に染み通ってゆくのをハルは感じていた。
「──ハルよ、わしはな、お前さんが気にいったよ。わしは呪術師になってから、何十人もの子供達をルーフルに導いた。中でもお前さんは、最もいい生徒じゃ。わしの語る神話を、村の生き方を、お前さんは深く受け止めてくれる。バルク川のほとりでタルバの創世神話を聞いた時、お前さんは『恐い』とゆうたな。これまでの子供達で、恐いとゆうた者はおらんかった。お前さんは神話の恐さを知ることのできる数少ない人間じゃ。その心を、失うでないぞ」
ハルは誇らしかった。コノイの言葉は、自分を大人と認めてくれているように響いて、心地よかった。
「さて、もうひと頑張りじゃ。ぼちぼち行くかの」
「はい」
二人が立ち上がろうとしたその時、突然地の底から唸るような振動が響いてきた。それは、それまで時折り聞こえていた山鳴りとは較べようもないくらい太く鈍い音だった。そしてそれは、すぐに激しい揺れに変わった。
「おっ」
「あっ!」
二人は立っていることができず、地面に手をついた。
山全体が身震いをしていた。ゴーッ、と嵐のような音がハルの耳を襲う。ハルは恐怖し、うずくまった。
その時、激しい爆発音と共に、ハルの視界が赤に染まった。ルーフルの西の中腹が裂け、灼熱の熔岩が宙に噴出したのだ。
「噴火じゃ。八十年ぶりの御神火じゃ……」
コノイはひれ伏し、その方角を拝んだ。
熔岩は、噴火口から溢れるように流れ出し、斜面をどろどろと滑り降りてゆく。それは八十年前の噴火で出来た熔岩の道だったが、流れは周囲の森をも飲み込む勢いだった。木々は灼熱の流れに巻かれると、一瞬のうちに溶けるように燃え尽きた。
ハルは、がちがちと身体が震えだすのを押えることができなかった。恐かった。山が恐ろしい力を秘めていることは分かっていたつもりだったのだが、目の前に繰り広げられる光景は、そんな言葉を失わせてしまう程の威力に満ちていた。彼は今、まったくの無力を感じていた。
「ハル、この光景を目に焼き付けておけ。これがルーフルの力なのじゃ」
コノイは静かにそういった。いわれなくとも、ハルの目は恐怖のあまり深紅の流れに張りついて動かせなかった。
地面の震動が少しおさまると、コノイは立ち上がった。
「さあ、行くぞ」
「えっ、どこへ!」
「頂上に決まっておるじゃろうが」
「でも、噴火が始まってるんだよ」
「引き返そうにも、じきにあの森は火に包まれるじゃろう。一度上に登って、北の登山道を降りるしかあるまい」
「でも、頂上にも噴火口があるんでしょ」
「ああ、でかいのがな。あれが火を吹いたら、どこにいたって助からんわい。ともかく、わしらには頂上にしか道は残されておらんのじゃ」
仕方なく、ハルも立ち上がった。腰が抜けそうで、足元がふらふらとおぼつかなかった。
その先はかなり険しい岩場だった。両手をつかって、しがみつくように登っていく。時折り地面が揺れる度に、岩のかけらが転がり落ちていった。
「ハルよ、お前さんは神に見込まれたようじゃの」
慎重に登り続けながら、コノイはいった。
「成人の旅のさなかにルーフルの目覚めに出会うなど、そうそうあることではない。わしが思うに、ルーフルはお前さんに反応して目覚めたのじゃ」
「どうして?」
「お前さんが神や精霊に近い人間だからじゃろう。わしのようにな。そうした人間に神は試練を与える。わしにとってそれは、惚れた女を殺すことじゃった。その試練を通過することで、わしは一段と神に近づくことができた。そして、これがお前さんの──」
すぐ近くで爆発が起こった。地面が激しく揺れ、ハルは岩にしがみついた。ハルの視界の隅で、二百メートルと離れていない場所から真っ赤な熔岩流が噴き出した。がらんがらんと音を立てて、上から岩が崩れ落ちてきた。ハルは思わず目を閉じた。
それは一瞬のようでもあり、長い時間が経ったようにも思えた。揺れがおさまり、ハルは目を開けた。最初に視界に入ったのは、すぐ足元の窪地を流れる灼熱の熔岩だった。その流れは、つい三十分ほど前にハルとコノイがいた道を飲み込み、その下の森を焼いていた。激しい熱風が立ちのぼり、ハルは思わず顔をそむけた。その時、前方にいた筈のコノイの姿が見えないことにハルは気づいた。
ハルは驚いて辺りを見回した。コノイの姿はすぐに見つかった。ハルのいる場所から五メートルほど下の岩棚に、老人は倒れていた。彼の腹の上には、ひと抱えもありそうな岩がのしかかっていた。
「コノイ、コノイ!」
ハルは老人の名を叫びながら駆け下りた。
コノイは既に虫の息だった。彼の腹と腰は完全に潰されて、岩の下敷になっていた。
「コノイ、ねえ、しっかりしてよ!」
コノイはうっすらと目を開け、何かを語りかけようとするように、かすかに口を動かした。ハルはコノイの口元に耳を近づけた。
「ハル……頂上へ行け」
「駄目だよ、コノイを置いて、行けないよ!」
「これは……試練だ……大きな人間に……なれ」
死にゆく者の、最後の力を振り絞った言葉だった。いい終えると、張り詰めた糸が切れるように、コノイは息を引き取った。
岩場のあちらこちらが割れ、蒸気と熱湯を吹き上げていた。小規模な爆発が絶えず地面をゆるがせ、熔岩の赤と熱気が空気を染める。それはまさに地獄図だった。人間が生きていられる場所ではなかった。
ハルは心を失って、しばらくの間、呆然とその光景を目に映していた。
熔岩。赤。血。ルーフルが吐き出す血液。コノイの身体から流れ出る熔岩。赤。赤。死。爆発。熱。光。赤。焼ける。焼ける──。
どおん、とひときわ大きな爆発音がハルの腹に響いた。それはひょっとすると、ルーフルの爆発ではなかったかも知れない。ハルの心の奥で何かが弾けた音だったのかも知れない。ただ少なくとも、その音でハルの心が戻った。
行こう、頂上へ。
ハルは立ち上がった。そして、頂上を目指して再び岩場を登り始めた。
熔岩と蒸気のせいで、辺りは異常な高温に包まれていた。ハルの肌は真っ赤になって、既に熱さはむしろ冷やかな痛覚にも感じられた。ちりちりと肉の焼ける音が聞こえるような気がした。俺の身体が焦げ始めているのかも知れない、とハルは思った。
熱湯のしぶきや、震動で落ちて来る岩のかけらが、ハルの身体を鞭打った。それはまさに苦行だった。タルバの苦しみはこんな具合だったのかな、とハルはぼんやり考えた。ふらり、と心が熱気流と共に飛んで行きそうになり、慌てて彼は頭を振った。
顔を上げると、そこにコノイがいた。ハルの目に、前を歩く老人の姿が映っていた。
(行くぞ、ぐずぐずするでない)
(はい)
ハルは老人の後に続いた。
ハルがくじけそうになる度に、コノイは彼を叱りつけた。コノイの叱咤を聞くと、ハルは力を振り絞って、再び歩き出すのだった。
ある場所で、コノイの幻影は登山道を少し迂回する道をとった。ハルは疑いもせず、コノイの後を歩いた。その直後、火山弾が登山道を直撃して、道を深くえぐった。まっすぐ進んでいたら、ハルも巻き込まれていただろう。
(わしについてくればいいのじゃ。信頼せい)
コノイは柔らかな笑みを浮かべてそういった。その表情を見ていると、ハルの心はゆっくりと、不思議に澄んでゆく。激しい熱も、まばゆい赤も、渦巻く気流や土砂の音も、全てがゆるく溶け合って、いまにも身体が宙に浮きそうになる。酒に酔った時のようだ、とハルは思った。けれども酒と違い、意識は次第に鋭く研ぎ澄まされてゆく。
登山道は谷に沿って走っていた。谷には熔岩の熱い流れがたたえられ、激しい熱気流がハルを巻き込もうと踊った。ハルは岩壁につかまり、じりじりと歩を進めていった。
しばらく行くと、土砂が道の上に崩れている箇所に出会った。崖と谷に挟まれて、迂回する余裕はなさそうだった。先に進むには、もろい土砂の上を越えて行く外はない。
コノイは、すうっ、と簡単に土砂を越えて向う側に立った。ハルも覚悟を決めて、足を踏み出した。つま先を差し込むように、一歩々々登ってゆく。足を踏み外せば、煮えた熔岩の中に転落してしまうのだ。ハルは慎重に歩を進めた。
やがてハルは土砂の頂点に達した。後はいざとなっても、向う側の道にジャンプできる。ハルは、ふう、と息をついた。その時、土砂全体が谷へ向かってふいに崩れた。
「あっ!」
ハルは足を取られてバランスを崩した。頭から転げ落ちるように谷に吸い込まれそうになり、ハルはとっさに目についた岩をつかんだ。ざああ、と土砂が谷にばらまかれ、溶けてゆく。
ハルは宙づりになりながら、コノイを見た。コノイは手を貸そうとはしなかった。ただ無言で、ハルの顔を見つめ返している。
ハルは登ろうとしてもがいた。その拍子に、胸元からプローチがこぼれ、熔岩の渦に落ちていった。ハルは思わず目で追った。ブローチは、真っ赤な熱の塊に飲み込まれ、一瞬のうちに燃え尽きた。
なんとかハルは這いあがり、コノイの前に立った。
(ブローチ、燃えちゃったね)
(構わん。これからお前さんが鳥になるんじゃ。鳥になって、村に火を持ち帰るのじゃ)
コノイはそういうと、再び先に立って歩き出した。
それからどのくらい歩いたのだろう。強い光と熱に身体中を焼かれ、ハルの心が限界に達しようとしたその時、ふいに彼は見晴らしの良い場所に出た。
そこはルーフルの頂上だった。半径百メートルの巨大な火口が、ボウル状に広がっていた。そしてボウルの底には赤。小さなマグマの池が、山腹の火口の様子とは打って変わって、静かにたたえられていた。しかしその静態は、獲物を狙う狼のそれと同じであることにハルは気づいていた。今にも爆発してハルを飲み込んでしまおうと、隙を狙っているのだ。
いつの間にかコノイの姿は消えていた。ハルは、ボンのいっていた石がどこにあるかと思い、首を巡らせた。遠く東方の端に、それらしき小さな社が据えられているのが見えた。ハルはそちらに向かって歩き出した。
山頂は強い風が吹き荒れていた。山の西側の上昇気流と東側との気圧差によるものなのだろう。冷たい風が、焼かれたハルの肌を冷してゆく。上空には黒い雲が集まっていた。もうしばらくすれば、雨が降り出す筈だ。雨はやがて熔岩を冷し、ルーフルの山影を新たなものに変える。このような営みが長い年月繰り返されてきたのだ。
社は小さなもので、ハルの背の高さくらいしかなかった。扉はなく、奇妙な形の石が剥き出しになっていた。
ハルは石を覗き込むと、ぎくり、として目を見開いた。
それは女性性器をかたどった石だった。陰石である。タルバの男根であるルーフルの頂上に祭られた陰石は、生と死、豊饒と破壊の両面を司る激しいエネルギーに対する怖れと敬いの対象なのだろう。
ハルはまだ、女性の性器を間近で見たことはなかった。だからこの石から表面的に込められている意味を読み取ることはできなかった。ハルは一瞬、岩に圧し潰されたコノイの腹を思い出した。
しかし、ハルがこの石に見ているものは、性器でも内臓でもなかった。ハルが見ているのは、死であった。彼は陰石の向こうに、死の影を直感して、たじろいだのだ。奇妙にうねる襞の隙間から、死の薫りが立ちのぼって、ハルの心に侵入しようとしていた。
不思議だった。コノイの死に直面した時、そして噴火のさなかに自らの死を感じた時、ハルの心にあったのは恐怖だった。しかし今、ハルの心にあるのはむしろ陶酔であった。なにもかもほうり出してそこに没入してしまいたくなるような、甘美な誘惑だった。
周囲の時間が止まった。風も音も光も熱も、ハルの感覚はそうした一切を遮断していた。ただ自分と、そして目の前の石があった。危険な誘惑。死の魅力。ハルはそっと手を伸ばした。指先が、ためらいで震えていた。
指先が石に触れる瞬間──。
巨大な風と、音と、光と、熱。凄まじい感覚の奔流が突然ハルを襲った。ルーフルの山頂火口が爆発したのだ。爆発は社の周囲の岩盤ごと、ハルと石を宙に吹き飛ばした。社は破壊され、陰石が投げ出された。宙を舞いながら、ハルは夢中で陰石を抱きかかえた。
そして、ハルの心も飛んだ。
*
ハルは夢を見た。
いや、それは夢とはいえないかも知れない。現実にしては、あまりにおぼろげだった。幻にしては、あまりに生々しかった。
ハルは真っ暗な空間の中で、ゆったりと横たわっていた。ゆらり、ゆらりと身体が揺れる。それはあたかも、羊水に浮かぶ胎児のような感覚だった。
どっ、どっ、どっ。音も揺れる。静かに揺れる。それは母の心音か、それとも地下に蠢くマグマの脈動か。音は不快ではなかった。むしろ、ハルの心の奥深くに優しく語りかけ、ハルを落ち着かせた。
目を開けると、そこはハルの家だった。苦しんでいる。母が苦しんでいる。そばにいるのは、近所の産婆だ。盥にたっぷりたたえられた湯。呻き。血。汗。やがてハルの目の前で、ずるり、と赤ん坊が頭を出した。
赤ん坊がこの世で最初に発した言葉は、ほんぎゃあ、という泣き声だった。痛いのだ。恐いのだ。光と音と痛覚。羊水の暗闇で保護されていた彼は、今、己の感覚を激しく揺さぶる情報の洪水に脅えているのだ。ハルにはそれが、手に取るように分かった。
産婆は手早く臍の緒を切り取って、赤ん坊を産湯につけた。彼の身体中にまとわりついていた血が優しく洗い流されてゆく。やがて赤ん坊は産着を着せられ、母親の胸に抱かれた。母の表情は、疲れてはいたが、深い愛情にあふれたものだった。
父が入ってきた。そして、兄弟たちが入って来た。みんなが赤ん坊の回りに集まっ
て、笑った。赤ん坊は──大人たちの保護がなければ一時も生きていられない弱々しい生命は、多くの目に見守られていた。それに気づいて安心したのか、それともただ泣き疲れたのか、赤ん坊は眠りに落ちていった。それに合わせるように、ハルも目を閉じた。
次に目を開けると、ノンモがいた。まだ子供の頃のノンモだ。
「ハル、遊ぼ」
ノンモはハルの手を引いた。ハルはノンモと一緒に駆け出した。楽しかった。どこまでも、どこまでも、永遠に駆け続けているようにハルは感じた。
「ハルが大人になったら、結婚してもいいな」
ふいに立ち止まって、ノンモはそういった。ハルの脳裏を、何度か見た、夜の闇に蠢く両親の裸身が横切った。
ノンモは裸になっていた。それは、さっきまでの子供のノンモではなく、成熟した大人のノンモだった。十四才の現実のノンモよりも年が上に見えた。滑らかな肌の曲線が、青空の下、草原に立っていた。
ハルは自分も裸になっていることに気づいた。ノンモはそっとハルの手を取ると、自分の胸に当てた。それは、想像以上に柔らかく、温かだった。ぬくもりが手の平を通して伝わり、ハルの心に忍び込んでくる。ハルは、自分の中でマグマが目覚めようとしているのを知った。陶酔。甘美。それは危険な誘惑だった。
ノンモはハルを導くようにして横になった。ハルは抗うことができず、草原に横たわった。ノンモの腕がハルに絡みつく。胸と胸が触れた。ノンモは潤んだ目をして、顔を寄せた。
「ハル、目を閉じて」
いわれるままに、ハルは目を閉じた。
目を開くと、コノイがいた。若者の姿をしていたが、ハルにはそれがコノイだと分かった。横には美しい娘が寄り添っていた。
「コノイ、その人がコノイの好きな人なの?」
ハルの問いに、コノイは笑って答えなかった。コノイと娘は、ハルに背を向けて歩き出した。
「コノイ!」
コノイは振り返ると、手を振った。それは老人のコノイだった。そして再び前を向き、歩いてゆく。遠ざかってゆく。
「コノイ、さよなら──さよなら」
ハルは急に眠たくなってきた。まぶたが鉛のように重く、閉じてゆく。ふんわりと眠りの世界に落ちながら、ハルはもう一度口の中で、さよなら、といった。そしてハルの意識は拡散した──。
*
ハルが発見されたのは、ルーフルから二十キロメートルも離れた森の中だった。近くの村落の人間が、狩りの途中で見つけたのだ。ハルは気絶していた。彼の横には、ルーフル山頂に祭られていた陰石が転がっていた。
村で手当を受け、ハルは目を覚ました。ハルがいきさつを話すと、誰もが驚いた。ルーフルの噴火に遭遇して生きて帰れるなど、まず信じられないことだったからだ。しかし、ハルの横にあった御神石が証拠になった。
それにしても、ハルはどうやってここまでたどり着いたのだろう。噴火のエネルギーで二十キロも飛ばされたのなら、生きていられる筈がない。といって、重量のある陰石を抱えて、一体どのくらい歩いてこれるものなのか。奇跡だった。村人たちはハルを、神に守られた少年なのだと考えた。
奇跡はもうひとつあった。あれだけの長時間熔岩の熱に焼かれた筈のハルのやけどは、信じられないくらいに軽いものだった。体力はひどく消耗していたが、それも村人の看護で次第に回復していった。
ハル生還の報は、すぐさまハルの村に伝えられた。三日と置かず、村長と父親が迎えにやってきた。ハルは父親を見ると泣いた。父親も、一度は生存を諦めていた息子の頭を抱えて、泣いた。
体力の回復を待って、ハルは帰途についた。
道すがら、ハルは村長から、お前は呪術師になるのだよ、と聞かされた。ハルの体験が逐一村に報告され、呪術師たちの合議の結果、ハルが神に出会ったのだと認められたのだ。本人の意思は関係なかった。ハルは否応なく呪術師になることが決められていた。それが、神と通ずる人間の使命だった。
「ハルのような激しい体験をした人間はおらんだろう。お前はコノイを凌ぐくらいの、いい呪術師になるぞ」
村長は笑っていった。コノイの名を聞くと、ハルは少し目を伏せた。
帰り道から見えるルーフルの山容は、数日前とは一変したものだった。中腹の噴火口が熔岩で盛り上がり、あたかも山頂がふたつになったように見えた。いまだに幾筋かの噴煙が、青い空に立ち上っている。あそこから俺は帰って来たんだな、と思うと、ハルは不思議な感慨を覚えた。
村の入り口には多くの人が迎えに出ていた。ハルは英雄だった。あの激しい噴火から、聖なる力を手にして生還したのだ。その力が、村を幸福に導いてくれる。誰もがそれを確信していた。
母がいた。兄弟たちがいた。ヨゴセとボンがいた。そして、ノンモがいた。口々に賛辞を投げる群衆の中で、ノンモはただ目に涙を浮かべ、ハルを見つめていた。ハルもノンモに目をとめ、笑った。
呪術師になることで花嫁の第一指名権を得たことに、ハルはまだ気づいていなかった。供犠の慣習は廃止されても、神の花嫁の大切さに変わりはないのだ。
群衆にもまれながら、ハルはぼんやりと、大好きなオル兄さんに今回の体験をどう綴ろうか、と考えていた。
了
山へ 蓮乗十互 @Renjo_Jugo
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