第2話 己にプリンを寄越せ

 それは饕餮とうてつが暴れ回った当日の、朝。

 大井埠頭の突端に近い位置にある廃倉庫には表通りに面した一階シャッター部分と、横の路地から入る出入口に黄色のテープが張り渡されていた。『立入禁止』と『Keep Out』が交互に印刷されたもので、俗にバリケードテープと呼ばれるものである。

 東京湾岸警察署に勤務する巡査、鬼本おにもと万夏まなつはシャッターの前で両腕を後背に組み、直立不動の姿勢───研修で真っ先に叩き込まれた立哨体勢───のまま小さくコホリと咳をした。機能的な内ハネのボブカットに囲まれた顔は緊張感に固定されながら、柔らかな目尻の瞳と可愛らしい上向きの鼻のおかげで愛嬌を保っている。

 命令されればわずかな身じろぎもせずに半日は過ごす事ができる。警察官採用試験に合格する決め手となった、高校最終学年での東京都剣道大会女子部優勝の精神力と体力は伊達だてではない。署での訓練は男女を交えたものだが、そこでも彼女は部活で培った経験を遺憾なく発揮する若き俊英だ。

 今、きつめの制服に包まれてなお女性らしい丸みを持った彼女の胸は、奥底から燃えている。

 護るべき正義、尊ぶべき理想のために激しく静かに火花を散らしている。

 人間が肉体の形状を崩された事例としては、これまでに飛び降りを二件、暴走運転による重大過失事故を一件見てきた。最初に駆けつけた現場は、タワー型マンションの住人が仮想通貨の投機に失敗してベランダから手摺を乗り越えたというもの。

 携帯を構えてシャッターを切る野次馬を追い払い、飛び降りた本人の近くに行った次の瞬間、その日の昼食を全部そこで吐き出してしまった。それから丸一ヶ月、肉という肉を受け付けない状態だったのも新人らしい思い出。

 その日から数えて早くも四年。さまざまな訓練にも耐え、生きた凶暴犯との格闘も乗り越えてきた。その彼女からしても、この倉庫の四階奥の部屋は経験を軽く上書きしてしまう凄惨な現場だった。いや、そう推察できる痕跡だった。

 鑑識班が目ぼしい証拠品と遺体を回収したあとに現場保存の責任者から見せられた、四階の奥まった部屋。冬眠明けの熊か絶食十日間のライオンが、威勢よく食事でもしたのかと思わせる太く長い血飛沫。書道家が赤いインクと大筆でもって大作に挑戦したらかくもあらんという血糊ちのりが、天井といわず壁といわず暗赤色のおびを残していた。

 そして聞かされた犯行の内容。口外禁止なのは無論だが、おっつけ世間の話題の頂点に駆け上がる事は疑いようもない。

 内臓をすっぽり抜き取られ、筋肉をこそぎ落とされた骨。人間の残骸、まさしく骸骨がいこつ。しかも口外禁止だが、被害者が為された犯行なのだ。おまけに頭部は持ち去られている。

 骨には生々しい噛み跡までくっきりしていたそうだ。人間業ではない…いや、とても人間のする事とは思えない。想像するだに怖気おぞけをふるうが、つまりはそういうこと───というわけだ。

 カルト集団か、人肉嗜好の変態か。

 どんなに無念だったろう。どれほどの苦痛を味わったろう。立哨についてから幾度も被害者に想いを馳せ、その度に万夏は背中から火をつけられたかのように義憤がめらめらと燃え上がる。腰の後ろに組んだ手の掌に、爪が食い込むのを感じた。

「あ〜体の芯まで凍りつきそうですねえ。僕、アイスクリームで言うならクランベリーショコラになりそ。そう思いませんか鬼本さん」

「さん」の部分を微妙に「っつぁん」に近い発音をしてきたのは、同じく立哨についている後輩の櫻井さくらい渡夢とむ巡査。大卒のため万夏よりも歳上だ。直立不動もどこへやら、凍えた両手をさかんに擦り合わせて欠伸がてらの白い吐息を吹きかけている。

「そんな風に考えたら余計に寒くなるでしょう」

「そっすね、鬼本さんは…」

 週二で日焼けサロンに通っているという櫻井はいつも笑っているような垂れ目を細め「レモンクリームのベイクドチーズケーキすね!」と言い放つ。

「…関連性が皆無じゃないの?」という万夏のツッコミは完全に聞き流している。普段話になるといつもこうだ。仕事の会話以外が成立することは滅多にない。

「ふぁぁ〜、眠いですねぇダルぃですねぇ。帰りてぇ〜!もう証拠品も死体も回収したんだからさっさと解放して欲しいですよ。そんでファミレスであったか〜いグラタンとか食べたいなぁ。どうです?」

 その「どうです」には単に同意を求めるだけでなく自分と一緒に、という勘違いを相手にさせる含みがあった。

 櫻井は辞令をもらった直後から「蒲田のジャニーズ」と称されていた。天然なのか計算なのか分からない、一種少年のまま成長したような好青年なので、当然モテる。

 署内の女性警官ならほぼ100%でOKを出すさりげない誘い文句。しかし万夏は意にも介さない。

「きみね、もう少し緊張感を持ってあたりなさい。犠牲者の遺族のことも考えて」

 櫻井はワックスで辛味を出した癖っ毛を整えながら面白くなさそうにふぁぁい、と返事をした。

 万夏は心の中で溜息をついた。この後輩も悪い人間ではない。だが勤務に対して情熱がなさすぎる。新人なら、それも新卒採用なら望んで就いた職種に気合が入っていていいものだろうに。むしろ意気込みすぎて空回りするぐらいの方が可愛かわがあるというものだ。

 もっとも万夏のようになれというのはハナから無理な話だろう。櫻井は叔父が所轄警察署のトップ。つまり純粋なる縁故採用なのだから。

(もし彼と同時期に受験していたら、私は受からなかったのかな…)

 そんな事を思いながら、もう一度姿勢を正す。コネは悪習などとは違う。応募者の身元がしっかりしており、反社会勢力の身内などではないとお墨付きがある証拠なのだから。

 万夏の立哨は、本人はそれを知らないが、立ち姿の美しさから署内の男性警官により「蒲田に咲いた白いスイートピー」と称されていた。

 時折大型のトレーラーが通る他にはそれほど交通量のないエリアである。建物の間隔も広く、周囲を警戒するのは易しい。

 視界に入ってきたその四人組は、万夏が意識する前に忽然こつぜんと歩道に現れた。

 一番体格が立派なのは、最後尾にいる牛のような白人の大男。背丈は万夏よりゆうに頭三つ分は抜けている。スラヴ系だろうか、ボサボサの黒髪で角ばった顎から突き出した分厚い唇、胡乱うろんなアッシュブルーの半眼。身につけた黒スーツは肉付きではちきれんばかりというか、もはや衣服で包装されたボンレスハムといったほうが近しい。

 その前には一見してなんの変哲もないオフホワイトのロングコートに、少しくすんだ灰色のスラックスと白手袋を組み合わせた痩身禿頭とくとうの男。仏陀のように人のさげな笑みを浮かべた糸目に極東モンゴロイドらしい彫りの浅い顔立ちは、雑踏に紛れたら瞬時に溶けてしまいそうな印象の薄さだ。唯一存在を主張するのはこめかみを挟む高価たかそうなヘッドフォン。音楽に合わせているのだろう、ラッパーのように歩きながら左右へ身体を揺らしている。

 一つ飛ばして四人組の先頭に立つレッサーパンダ…もといレッサーパンダのような体型の青年は、スマフォに目を落としながら何事かペチャペチャと甲高くしゃべくっている。沖縄…いやもっと南方系、はっきりとはしないがポリネシアンな顔立ちだ。前髪以外の頭髪を太い三つ編みにして左側に垂らしたスタイルは昔の拳法漫画に出てきそうな格好。ちんまりと愛くるしい目鼻に戯画カリカチュアめいた太い眉。なんとなく元気一杯に日焼けした小学生を連想させる。小太りな体がまとう青いマフラーと緑のセーター…ジーンズはおそらく子供服サイズだろう(肥満児の)。

 万夏が目を奪われたのは、人種も体型もバラバラな縦一列の珍妙な四人の中で二番目の人物だった。

 麗人だ───万夏は無意識にそう評価した。少年のような乙女、いや乙女のような少年だろうか?恐らく十代後半であろうという点のほかには判然としないその中性的な外見は、美人というより麗人という言葉が似つかわしかった。

 長い前髪を遊ばせて、残りを後ろに流した栗色に近い艶のあるショートヘア。化粧っ気のない白磁のような肌。フェミニンな甘さがありながら、どこかりんとした清潔感と爽涼感に溢れた顔立ち。中央アジアのどこかの人間…もしくは混血ミックスかもしれない。

 痩せぎすではなく、手足がと長いために細く見える均整のとれた肢体。カーマインレッドのキュロットスカートを履いてファー付きのジャンバーに両手を突っ込み歩く姿がサマになっている。埋立地の一角を闊歩している現実に重なって、万夏の瞳には彼女の周囲にパリ・コレクションの花道ランウェイの幻想が見えるようだった。

 四人とも胸許にチラリと光るものを提げている。お揃いのあれは───シルバーのドッグタグ?

「おほっ?何ですかねあの可愛きゃんわいぃ〜!ヤりてぇ〜‼︎」

 櫻井が漏らした、およそ警官とは程遠い本音で万夏は我に返った。麗人のほうも凝視している万夏に気付いてにっこりと微笑む。二月の寒気すら融解ゆうかいしてしまいそう。

(いや、いや!女の子じゃないの向こうも!何考えてるのよ、私。しっかりしろ!)

 かぶりを振って雑念を取り払った。四人はもう万夏のすぐ前まで来ている。東南アジアな仔犬系青年が背伸びをしながら麗人に耳打ちし、麗人が頷いて倉庫の大きさを測るように見上げた。どうやら彼女らの用事はこの建物自体にあるらしい。

 麗人は降りているシャッターを一瞥し、迷いなく建物の側面にある勝手口の方へ爪先を向ける。

 当然のことながら、万夏はそれを遮った。麗人と横道の前に立ち塞がる形になる。デレ顔の櫻井もヘコヘコと頭を下げて万夏の隣に続いてきた。

「すいません、ここは事件現場で立入禁止です。関係者の方でしたら、身分を証明できる物を提示して頂けますか?」

 麗人は澄んだ瞳を見開くと囁くようにため息をつく。万夏はなぜか赤面してしまった。

「真没想到。脏賎人、別管我」

 ふわりとした言葉に乗せて、良い香りが漂う。切れながの大きな瞳が柔らかな雰囲気を奏でる。春の到来を告げる桃の精の化身か?

(ひー!そ、そんなつぶらな瞳で見つめないでええええ)

 先程自分を叱りつけたというのに万夏は一層どぎまぎしてしまっていた。

「日本語、分かりませんか?え、え…えーと、キャンユースピークイングリッシュ?」

「这个下属父母官没关系」

「え、ええっと…どうしよう。誰か中国語に詳しい人、いたかな…」

 麗人の語るものが中華系の言語であることまでは察せられるが、内容などちんぷんかんぷんである。そんな万夏を尻目に何かのスイッチが入ったらしい櫻井がと前に出る。

「ねぇきみ、ここは入っちゃダーメダーメよ。回れ右して、帰って───の前にぃ、僕とQR交換しない?SNSとかやってるでしょ?」

 警察官としては図々しく型の崩れた櫻井の態度も、今は助かる。

 麗人は形の良い指を唇に当てて思案する様子を見せた。そして…

「点兵点将、点到谁人♬就是我的、大兵大将…」

 麗人は辛うじて聞こえるほどの声で口ずさみ、万夏と櫻井とを交互に指差していく。

「…跟着红军打胜仗!」

 象牙の箸のような指が櫻井を示して止まる。櫻井、満面の笑みである。

「え何、何?僕?やっぱり?タイプだった?じゃあ早速今夜は六本木ミッドタウンでロブスターでも」

 ぐしゃ、と肉感のある音がした。

 櫻井の顔面に、麗人のスニーカーの踵が突き刺さっている。拳法というより体操選手のY字バランスのようなウルトラハイキック。

 櫻井の開けたままの口からポロリと前歯がこぼれ落ち、一瞬遅れて彼自身もくずおれた。あり得ない角度で空中にとどまる長い脚を、麗人はビッと空気を裂いて地面の上に戻す。どこか蛇の動きをクイックモーションにしたような軌道だった。

 一瞬だけポカンと口を開けた万夏。しかしすぐに警棒をベルトから引き抜いて上段に構える。これは只事ではない。目の前の正体不明の四人組は、公務執行妨害と傷害の現行犯に意味を変えてしまった。

「あなた!今した事は警官への暴行ですよ。よって、現行犯逮捕します。抵抗はしないで速やかに」

 言い終わらない内に次のキックが放たれた。鮮やかに警棒ごと万夏の両腕を弾き上げる、予想外に重い一撃。なんとか取り落とさずに耐えたが、警棒を支える手首を越えて肩までビリビリ震えるほどの蹴りだ。万夏が腰を入れていなければ倒れていただろう。

 拳法有段者、あるいは相当場数を踏んだ肉弾戦の手練れなのは間違いない。

「警告を無視するなら───攻撃します!」

 日本語の理解できない外国人とはいえども、言葉遣いはきちんとする。これもまた研修で口酸っぱく注意された点である。社会規範と法律の番人ともいえる官憲が、それを守るために闘う際にも丁寧語を使い倒すというのはおかしな図だが、そうでなければ日本社会は許さないのだから致し方ない。

(あー、こういうときはアメリカが羨ましいわね。こんな鉄の棒切れじゃなくて、せめてもっと頑丈な武器が携帯できれば…)

 相手は四人。万夏は一人。この現場に配属された警官が束になってかかったとしても、制圧できるか未知数だ。腰に提げた拳銃も、この近距離で警告射撃からスタートしたのでは間に合わないだろう。

 一見して華奢な麗人がこれだけ強いのだから、最後尾に居る大男が暴れ出したらどうなるか分からない。万夏が完全に意識を消失している櫻井にチラと目をやりインカムに応援を呼びかけようとした時、勝手口から…

「ぅおおい、なんか騒がしくないか?マスコミでも来たのか?」

 と現場責任者の日子くさこ警部補が万年睡眠不足の狸といった顔を出した。

「あ、日子さん!良かった、この人達がなかに入ろうとしてるんですけど、言葉が通じないし女の子がいきなり攻撃してきて」

「ふーん?そこに膝ついてる櫻井は?」

「初撃で沈みました」

 クハ、と日子は吹き出した。休憩になると小学生の長男と保育園児の次女の写メを見せびらかし半分自慢まじりの愚痴を語り出す日下は、署内の武道教官も兼ねている。古武術に分類される躰道たいどうの専門家で、蒲田の繁華街で若手の反社連中が暴れ回ったのを一人で叩きのめしたという逸話を持つ人物だ。

「だから訓練をサボるなと忠告しとったに。ぅおおい櫻井〜?寝てないで起きろぉ〜」

 櫻井を擦り切れた制服の膝で小突く日子。一見するとどこにでもいる中年太りのおっさんだが、その膨らんだ腹も胸も筋肉の凝集体である事を万夏は訓練で知っている。

だこりゃ、完全にイッてらぁ。こういうのは青天とは言わんなぁ、…正座気絶、かな」

 日子は髪の毛の後退した頭に警帽を被り直し、集団の様子を観察する。そして万夏に脇へどいていろ、と手で示した。

 助かった。普段は昼行灯な中年警官だが、やはりこういった場合には頼りになる。自分もいつか歳を食ったら、こういう部下を守れるような存在になりたいもの…

 しかし一拍置いて、万夏は自分の評価を覆した。

 日子は子犬青年にスマフォの画面を見せられると二つ頷き、どうぞお入りなさいと言わんばかりに──いや、本当にそのままおめおめと四人を通してしまったのだ。

「ちょっ、ダメよ貴方たち!」

 彼らを引き留めようとした万夏の肩を、僧帽筋に指が食い込む強さで日子が掴む。

「どうしたんですか⁉︎まだ初動調査中なのに、なんであの人達を入れちゃうんですか‼︎」

 日子は物悲しげに首を振った。声のトーンを下げろ、と指でジェスチャーする。

「…ぅ鬼本、お前は休憩に行っていた。だから何も見ていない。ここはそれで納得しろ」

 万夏の背中が粟立った。憤りを通り越した嫌悪。

「信じられない!現場保存をサボれっていうんですか⁉︎」

「ぅ俺をどんなにざまに罵ってくれても構わん。だが指示は呑み込んでくれ。そうしないと、お前も警察カイシャに居られなくなるからだ」

 日子の科白に込められた意味が汲み取れないほど万夏は頑固者ではない。しかしいち警官としては、不正行為に対して理屈ぬきに感情が爆発した。

「それって…揉み消せ、って事ですか?見て見ぬふりをしろ、と⁉︎」

「そうじゃない。そう言ってはいないだろ。ただ俺はからの指示に従っているだけだ。ぅお前は俺の指示を受けただけ。全ての責任は…ぅ俺にある」

 芝居がかったように諭す日子に万夏は尖った眼差しを向ける。何を自己陶酔に浸っている、ふざけるな!と。

「上、って…そんな事がまかり通っていいんですか⁉︎」

 万夏の肩に置かれた日下の手がズシリと重くなる。相手の食いしばった歯の隙間から話す声も僅かに震えていた。

 それは紛れもない憤怒。本物の、感情だ。

 決して悪なる行為を許しているわけではない。本気で握れば万夏の肩甲骨を煎餅のように砕いてしまえる握力を、なんとかこらえている。日下のその怒りは部下にではなく自分と、理不尽な命令を下した張本人に向けられているのだと分かる。

「いいわけあるかい。───だがな、俺は責任者。そして先輩。ぅお前らはまだまだヒヨっ子警察官だ。ぅ鬼本、繰り返すが組織上部の圧力に屈するのは俺だけだ。ぅお前はお前の正義を果たせ…そして、それは今じゃない」

 他人が出す苦渋の音を聞いたのはこれが初めてだった。日子は押し問答がしたいのではない、のだ。言葉ではなく彼の全身に表れた反応が、雄弁に万夏にその事実を伝えてくる。

 万夏は日子の手に自分の手を添えてをそっと下ろす。頷くことは、できないが…それでも、普段は子煩悩パパを隠しもせず、おちゃらけている上司の言わんとするものだけは呑み込んで。

 建物の中から他にも警官が数人出てきた。やはり若手達は先輩に肩を抱かれるようにして、納得のいかない様子を隠しきれずにいる。そして困惑した顔つきで建物の上階を何度も振り返りながら遠ざかる。…それはそうだろう。

 万夏もまた、キッと廃倉庫の最上階を睨み据える。こんな横紙破りな事態が生じたことで、より一層凶悪にして邪悪な気配を増した事件現場。まるで壁を透視して、そこにいるであろう四人組が見えているかの如く。

「ぅおら、お前も行け。ここは俺が見ておくからよ。櫻井も連れて───」

「分かって!…ます」

 語気がバランスを崩してしまう。日下に文句を言ったところで致し方ないのに。警棒をたたむのに苦労した。どんなにキツいシゴキにも負けなかった指が、なかなか動かなくて。

 自分は巨大な権力という象に両手の鎌を持ち上げる蟷螂カマキリだ。しかし絶対、このまま引き下がりはしないぞ、屈してなるものか───彼女の中に今、事件に対するものとはまた別の義憤の炎が湧き立っていた。

 

「やっぱりそうです、日本の警察が持っている情報は完全に合致がっちしてます」

 廃倉庫の四階にある奥のブース内で、やや高めの声がはずむ。

 ドアの蝶番が壊れて抜けかけの乳歯のようになっている他には、取り立てて破壊はない。この建物が貿易会社として機能していた頃には管理者専用の個室として使われていた個室に、四人は到着していた。

「早めに気付けて良かったです!少し待っててください、すぐに警察のデータを書き換えて、桃園タオイェンに通達して、このの調査もやめさせるよう要請させますからねっ」

 ご褒美を期待する子犬のような口調の青年だが、ショートカットの麗人のほうはうれいげな横顔で口許を軽く手の甲で覆う。

「桃園の老人ども、焦れて脳味噌が干上がってしまうかも。…ここは引き払ってしまった方がいいな」

 それ程にその空間は生々しい鉄の匂いに満ちていた。

 血液を入れたバケツを振り回したらこうもなるだろうか。壁、天井、そして床。両側面の壁に付けられた棚や部屋の中央に据えられた円いテーブルといった僅かな調度品など、ありとあらゆる場所に海老茶色に乾いたシミがべっとりとついている。そして縁取られた証拠や死体のアウトラインを縁取るテープが無数に貼り付けられてある。

「ニュースを見たときまさかとは思ったけれど、よりによってここで殺人事件が起きるなんて…それで?くだんのモノはどこに?青洋シャンドゥオン

 麗人の問いかけに、小柄な青年はスマートフォンの画面をうやうやしくかざした。

「日本の警察はサイバー対策が石器時代ですね。反撃防壁カウンターウォールもザル、僕にはいささか手応えがなさすぎですよ」

 そこには「廃倉庫の中で争う物音がする」という通報が入った直後、駆けつけた警察官に撮影された動画が流れている。

 超高解像度のスマフォの画面の中では、人体の残骸が…いや、肉と臓器を失った白い人骨が散乱していた。

「…プラモデルの枠だけを散らかしたみたいだな」

 簡潔に表現する麗人。青洋はぴょこぴょこと手足を動かしながら説明する。

「このテーブルの上に桃園タオイェンの担当者が封印ごと設置した五獣鏡ごじゅうきょうは現在、日本警察の保管する証拠品リストには記載されていませんね。突入時の他のカメラの動画もありますが、どのアングルでも見当たりません。どうします?鼬紅ユーホン

 鼬紅と呼ばれた麗人はスマフォを白装束の青年に渡した。その後ろから黒スーツの大男が肩越しに同じものを確認する。大男は肉片骨片が大運動会をしている状態を見て、伸びたもみあげをなぞりながら懐かしげに嘆息した。

「飢えた雪豹イルヴィスが馬さ食い散らかした跡みてえだべな」

 大男の感想に、他の三人が「うへえ」といった表情をする。

「どっちゃにしろ、モノが無ぇんじゃ仕方がねえべ。オラ達がここに入れるよう便宜さ図った依頼主がよぉ、日本の官憲に『探すだッ!』て要請すればいんでねが」

 大男は唸るような低音でもっともな意見を言うと、スマフォを洋青に返す。

「桃園と繋がりがあるのは誰?青洋」

韮城にらきです。階級は警視正、父親は国会議員。桃園が提携しているマカオのカジノでたんまり儲けさせてもらったクチですね」

 鼬紅は小首を傾げた。そんな仕草をするだけで、血みどろの殺人現場がフランス映画の一場面のような雰囲気になる。

「ニラキ?おかしな響きだな。どういう意味?」

 青洋は素早くスマフォの翻訳機能にかけて名前を読み直した。

「はい鼬紅、北京官話ですと『韮菜ヂョオツァイ』のことみたいですね。ニラの城を表すそうです」

 少しの。それから鼬紅は小首を揺らしてクスクスと笑い出す。

「まさに私達の走狗に相応しい名前じゃない」

「ねーあんたら、ちょっち静かにしてくれねえ?マジでさ」

 鼬紅と青洋の会話に白装束の男が差し挟んだ。彼は手袋を外して古代鏡の箱が置かれていたとされる丸テーブルへ近づいており、顔は天井に向けたまま掌に目があるように机の上をゆっくりと撫ぜていく。

 時折口の中で細かく真言マントラを呟きながら天板の隅々まで指を這わせていく様子は、臆病な猫を扱うよう。

「…えてきた」

 と、唐突に動きを止めて糸目を見開く。

 そこに現れたのは白眼も瞳もない、真っ黒の水晶玉。義眼というにも語弊のある球体だった。

 暗い部屋の中では薄光りして見えるほど白一色の衣服の青年の体が、真実ぼうっと輝き始める。数十秒の沈黙の後、青年は空気が抜けたように首を落とした。

「…なーんか、鶏血糸ヂィチースーで作った封印が侵入者に解かれちゃった?みたいな?」

 白装束の男は、眼窩に収まる宝石に瞼を下ろすと丁寧に手袋を嵌めた。鼬紅はその様子を鼻で笑う。

「これは異なこと。白輪カルコロ、貴方確か『魂魄清浄にして肉体は一点の曇りなき者』にしか封印は解けないと断言していなかった?」

「そのはずなんだよねー。っかしいなあ。鼬紅、アンタの対極にあるような人間っつーかぁ、徳のたっかぁい僧侶にしか無理なはず?みたいな」

「これはまた耳に痛い言葉だ」

 言外の皮肉に、鼬紅は面白がるばかりで眉をひそめることもしない。本人よりも鼬紅のそばに控えている青洋が気分を害した様子で身構えた。

「はず、はずって何なんだよ。御大層なこと言っといて結局はこの程度?子供のおまじないの方がまだ意味あるじゃないか!第一だいいちさー白輪、この建物自体にもお前の結界が張ってあったじゃん?どうして外部から易々と侵入を許したんだ?ここで聖人同士が殺し合いをしたとでも言うのかよ?」

 自分の1.5倍の上背がある相手に両手を上げてまくし立てる青洋は、それこそレッサーパンダの威嚇そのまま。対する白輪は震え上がるどころかせせら笑う。

「パクパクうるせぇくち出すなって」

「にゃにおぅ⁉︎」

 白輪は青洋に対してゆったりと、体全体をねじるように向き直る。

「結界の張り方とか手順とか俺が間違うわけねーし?想定外の事ならそもそも論で、俺にゃ責任ありませーん。…ま、結界破って侵入っつぅのが世俗の人間には無理っちゃ無理だけど」

大方おおかたケアレスミスでもやらかしたんじゃないの?巫術の描きかた間違えとかさ。白輪はいつもいい加減だもん」

「まーね、霊能のカスも持ってねぇ青洋にこんな事を言っても理解できない、みたいな?一応解説しとくけど、強力な呪物に対して禁封をミスるとか生半可なことした場合、術師に返ってくるペナルティもエグいから。下手すれば全身激痛に苛まれてー、指から腐り落ちるみたいな?だからあの鏡の無事は俺の家名をかけて保証するさ」

「実際に五獣鏡は持ち逃げされたんだよ、名門ぶるな役立たず!」

「はぁ?だっっっっっる。戦災孤児がそんなに自慢かい?みたいな?」

「僕はお前みたいに惨めったらしく先祖の名誉にしがみついたりしてない!」

「ああゴメン言い間違えた。戦後遺棄児だった、みたいな?」

 鼻で笑う白輪。無言の青洋。睨み合う二人。

「まぁまぁまぁまぁ!つまんねぇ仲間割れなんか、わぁがないべ」

 二人の間に野球のグローブのような掌を広げて割って入る大男。

「白輪は青洋さあおるでねえ。青洋もその辺にしとくだ。白輪の呪術ン腕前は保証書つきだべよ。オラ達に渡されたこいつのおかげで、気配もばっちり消せてたみてえじゃねえだか」

 大男は首元のドッグタグを摘んでかかげた。それには梵字が刻印されている。他の人間達の感覚を麻痺させ、結界への出入りを容易にする術が施されているのだ。万夏達、いわゆる『一般の人間』が四人が目と鼻の先に近づくまで感知できなかったのもこれのおかげである。

「持ち逃げされたっつーことはだ、相手は依頼主の対抗勢力ってわけだかな?それともまさかこン国の連中で実験計画に勘づいてる野郎がいるんだべか?」

 白輪は頬に張り付く笑顔をピクリとも揺らさず首を振る。

「視えた映像からだと、多少事情が違う、みたいな?」

「どういうこったべ?」

 白輪の手袋の人差し指がテーブルの中央、古代鏡の封印として祭壇がしつらえられていた辺りを示す。

「この建物に侵入して五獣鏡の封印を破った者はソッコーで出現した神獣の餌食になっちゃった、みたいな。この殺人現場の犠牲者こそがその人物。神獣本体はそののち何処いずこかに遁走とんそうブッかましてる。そんでもう一体、遅れて受肉した神獣がいた。それがなんでか…五獣鏡を持ち去ったみたいな」

 大男がそれを聞き、片手を額に当てて天井を仰いで渋面を作る。

「なんてこった。人喰いの化け物がこンげな大都会で二匹も逃げ出したんだべな!」

 白輪は大男の嘆きに唇を歪めた。冷たすぎる笑み。

「もう一体が人を喰うとは限らないじゃん、黒喜チョールヌィラドスチ。もっとえげつない奴かもよ?毒性の強い病魔を撒き散らすとかさ」

「あに笑ってんだ⁉︎オメのしでかした失敗だべ。どうすんべよ!」

「だーから俺のせいじゃないってば」

 しれっとした態度の白輪の胸ぐらにつかみかからんばかりの大男・黒喜を、今度は青洋が肩に飛び付くようにして止める。体格差もあって、その様子は高い鉄棒に宙ぶらりんになっているようだった。

 騒ぎの中、鼬紅は唇に小指の先を咥えていたが、

「───他に視えたものはない?封印を解いた者は仲間を連れていなかったの?」

 と白輪に尋ねた。

「そうだねー…この部屋の戸口の所に二人…いや三人は居たようだね。歳の頃は十代前半みたいな…」

「それって子供じゃん。なんでこんなところに深夜に入り込んだんだろ?」

「青洋、貴方ならどう思う?」

 鼬紅の質問に、四人のうちで年齢も身長も一番低い青洋はすぐに答えた。

「度胸試しとか、罰ゲームじゃないでしょうか」

 鼬紅は首肯する。

「学生ならばありがちかも。その子供達に話を聞いた方が早い。追うのは簡単ではないだろうけれど、青洋、貴方ならできる?」

 鼬紅が微笑みながら少し身を屈めて青洋の頬を手挟むと、青洋のまっすぐな目が水を注がれたようにきらきらとした。

「僕は貴方あなたの忠実無二の走狗そうくです。命令をかて万里ばんりく事だってできます!」

「青洋…」

「鼬紅…」

 鼬紅は微笑みを崩さないまま両手をぱっと離し、一歩退く。

クサいな、少し。水が嫌いなのは知っているけど、そろそろ身体を洗いなさい」

 見守っていた黒喜がゲラゲラわらい、白輪は冷笑する。青洋は火を噴き出しそうなほど顔を真っ赤にする。

「は、はい鼬紅、おおせのままに。ホテルに戻ったらすぐに水浴びをします!」

 更に笑みを深くする鼬紅。外では空にかかっていた薄雲が厚みを増し、巨大な石臼を回すような雷鳴が不吉なメロディを奏で始めていた。それはちょうど饕餮とうてつとの肉体共有をまだ知らないかたつむぐが、サッカーの授業を受けていた頃でもあった。

 

 そして同日の午後、饕餮の起こした事件の数時間後のことである。

 早春の夕陽はあれよあれよという間にオレンジ色に熟す。ビル群がつくる地平線に落ちるのもまた早い。五時前だというのに蒲田商店街の石畳舗装のストリートには濃い陰が霞のように漂う。平日の退勤・下校時刻前で、人通りもほとんどない。まるでホラー映画の死に絶えた街角そのものだ。

 そう、ホラー映画なら。登場人物は日没を恐れ、あるいはゾンビあるいはクリーチャーに怯えをなし、外の世界の危険から逃れるために建物の奥に籠城するのがセオリー。

 細ヶ谷ほそがや日郎和ひろかず、十四歳。蒲田商店街の一角に自宅兼店舗を構えるイタリアンフレンチ『オリーブの谷』の跡取り息子もまた、そういった作品の登場人物よろしく一階の磨き上げた木製カウンター奥で背中を丸め、震えていた。

 普段は校内の不良連中とつるんでいる細ヶ谷は、年齢の割にがっちりと逞しい。それは幼い頃から空手登場に通わされ、家業を手伝ううちに自然と出来上がったもの。そんじょそこらの高校生にも負けない腕っ節を誇る少年がいまは怯えて縮こまっている。

「ほーそがーやくぅーん。どーしーたのー?ドアを開ーけーてー!」

 外からは同級生の神崎かんざき柑太かんたが滑舌抜群な、よく通るテノールで呼びかけてくる。それは身を屈め頭を抱えた細ヶ谷の耳にも一言一句が粒だって響いてきていた。

「ほーそがーやくーん!どーして学校、途中で帰っちゃったのー?俺達ー、心配してるんだ、ぜー!」

 まるでありふれた日常系アニメのように無邪気な内容の科白セリフに、細ヶ谷は戦慄せんりつしていた。

 確かに彼は今日、というか今朝、登校し教室に着くなり回れ右をして帰宅した。

 否───身も蓋もない言い方をすれば、一目散に逃げ帰ったのだ。

 両親は店の仕入れ先の開拓だと言って一泊二日の旅行に出ている。咎める家族もないまま、それからずっと何時間もこうしてカウンター内に引きこもっていた。子供の頃から、叱られたり拗ねたりするとここに隠れるのが癖になっている。

昨夜ゆうべのことでー、ちょっと話したいことがあるんだけどー、出てこれなーい?」

 細ヶ谷は三白眼を見開いた。その話なら余計に出ていけるわけがない。柑太の言う昨日の深夜、目にした光景がありありと脳裏に蘇る。

 それは近しい友が、得体の知れない巨大な化物に一瞬にして斬首された惨劇。

「ぐおぇっ」

 思い出す度にぶり返してくる吐き気。またしても胃液が喉元へ駆け上がってきた。

 細ヶ谷家はお客を大事にすると同時に、食材となる生命に対しても敬意を払うのが家訓。

 小学生のうちに細ヶ谷自身も父母に連れられて、食肉加工場で行われている屠殺の現場を見学させてもらった。それは彼の中に「食事」というものがいかに多くの尊い犠牲の上に成り立つものか、「料理」という行為が食材と客に対していかに責任あるものか、敬虔な気持ちをいだかせるきっかけにもなった。

 以来、彼は食べ残しを一切せず、それを周囲の者にも許さない少年に成長した。

 人間は食べる側の生き物で、家畜は人間に命を捧げる側。尊い犠牲を受け取る事に感謝して、生きていかねばならない。

 しかし。

 昨夜に体験した恐怖は、十四年間の人生の中で教わり信じてきた細ヶ谷の全てを裏切った。人間は決して───と。

 柑太や猪俣、鳥栖とは蒲生中学に入ってからの付き合いだ。しかしかたの事は小学生の頃から見知っていた。

 細ヶ谷家のレストランによく家族連れで訪れるご近所さんであり、同じ町内の名物一家。日本人としても小柄で童顔な父親と、ウクライナにルーツを持つコテコテの金髪美女の組み合わせだ。目立たないでいる方が無理というもの。おまけに二人の息子のうち長男のほうは、小学生とは思えないほど恵まれた巨体をしていたのだから。

 細ヶ谷はなにくれとなく店の手伝いをしながら、方家御一行様が訪れるたびにちょくちょく厨房の奥から眺めていた。外見は釣り合わないものの、夫婦仲が良い両親。弟の分の料理を取り分けたり足の高い椅子に座るのを手伝ったりと、面倒を見ようとする兄(ちょっと弟に舐められてるな、と思いはしたが)。

 どちらかというと今時古風な亭主関白の自分の父親と引き比べ、お世辞にも威厳があるとは言いがたい父親と小さな雪男の居る家族…子供心にそんな連想をして、好ましく感じていた。

 中学に入学した春に柑太と付き合うようになり、そこに猪俣と鳥栖とが加わった。しばらくすると柑太が方を連れてきて、グループに入れるぞと一方的に宣言したときも、意を唱えたりせず歓迎した。

 大柄だが気が弱く、思慮深いながら仲間には言いたいことを遠慮なく言う善良な方は、細ヶ谷にとって始めから気の置けない存在だった。祖父母の家にいた大型雑種犬、川で溺れた近在の家の幼児を助けて代わりに命の灯火を尽きさせたそれと、どことなく雰囲気が重なっていたから。

 警戒心のないぽわぽわとした表情で「細ヶ谷くぅん」と呼ばれると、どこかしら心の硬い部分がほぐれていく。方はそんな良い奴だ。───いや、

 細ヶ谷とは両極端だが、同じグループで連んで遊ぶ仲間、猪俣いのまたはやけにかたを冷淡にあしらう。内心怒りを覚えていたのだが、それが昨夜ついに抑えきれず爆発した。

 暇つぶしの思い出作りに忍び込んだ心霊スポットの廃墟ビルで、何が気に入らなかったのか、あろうことか方を最上階の一室に閉じ込めてしまったのだ。

 猪俣と合流してそれを聞いた時、細ヶ谷は開口一番に

「馬鹿野郎、あいつのこと虐めてんじゃねぇよ!」

 と怒鳴りつけた。

 猪俣がいつもの冷徹な横顔で

「暫くしたら開けてやるつもりではあったんだ。いいじゃないか、あのウドの大木がリアクションして動画が面白くなれば」

 と言い訳をするのを急かして案内させ、ブースだらけのオフィス階で独立した個室に辿り着いた。

「ねえ!凄い物発見した!お宝かも!きっとそうだよ!」

 つっかい棒をされたドアから聞こえてきた、方の幼稚なほど純粋な濁りない声。ドアが開く。さしてしょげてもいない様子の丸顔を目にして細ヶ谷は心底ほっとした。

「方、待たせて悪かったな。もう大丈夫…」

 心霊スポットの一室に閉じ込められていたとは思えないほど、のほほんとした方の笑顔。

 その喉元に亀裂が走る。そして、血飛沫とともに首が飛んだ。

 頭部を失い真紅の鮮血ほとばしる噴水と化した胴体の向こう、部屋の闇から現れたのは、見たこともない存在───禍々まがまがしい化物。

 

 腰を抜かした鳥栖を肩に担いで命からがら逃げた。昔話に出てくる、山姥やまんばに襲われた僧侶のように。背後で方を、友を貪り食らう生々しい音がしていた。

 家に帰りつき自室に入ってはじめて、細ヶ谷は泣いた。

 逃げてしまった己の惰弱さと、罪なく死んでいった友を思い泣いた。空手の大会で決勝戦進出をのがした時の涙よりも、みじめで苦い涙だった。

 他人にまさっていると自負していた腕力を振るうこともなく、なぜ一撃もできずにおめおめと退却を選択したのか。結局自分は、より強い者に立ち向かえない意気地なしなのか。

 いや。これこそ卑怯そのものではないか。

(俺は、俺はとどのつまり方を見殺しにしたんだ。何が空手だ、どの口で猪俣を責めていたんだ⁉︎俺は肝心な時に友達を守れない臆病で最低な卑怯者だ‼︎)

 枕に深く顔を沈め一晩中、自分を責めた細ヶ谷だった。

 

 朝はいつもと変わらずやってきた。細ヶ谷は混乱と睡眠不足を抱え、猪俣らと実感の追いついてこない方の死をどう柑太に説明するか、今後のことを相談しつつ登校した(廃倉庫の事態については既に朝のニュースで速報に出ていた。通報したのは猪俣だったらしい)。

 そしてそこで、見慣れた二年生の教室の真ん中で、死んだはずの方が手を上げて挨拶してきて───

 再び家に逃げ帰り、もう夕方。

 方の偽物(?)を連れて、ドアのすぐ外に柑太がやって来ている。───いや、あれは本物の柑太なのだろうか?方と同じように化物の餌食にされ、容姿や声だけがそっくりなへと替わっているのでは?

「なー、いーかげんにここ、開ーけーてー!せめて顔をー、ーせーてー!」

 追い打ちをかけるように柑太の朗々とした呼びかけが伸びてくる。もう四半刻は過ぎたろうか。心が折れて顔を出したら、途端に自分も首を切り落とされるのかも。いっそ自分も罰を受けて死んでしまったほうが楽になれるかもしれない…

 そう。方は死んだ。殺された。正体不明の化け物に。かたつむぐはもう、この世のどこにもいないのだ。

 いない、はずだ。

(───それなのに、なんで…)

「そーだ!給食のシュークリームー、持ってきてあるぞー!これ好きだろー?」

 ふざけるな。いや確かに給食のシュークリームは自分の無二の好物だが、そんな甘言で釣られるものか。

(そうだ!警察に電話だ!とにかくここに来てもらって、それから…)

 開店当時からレジ横に据え付けた古い電話機がある。すっかり冷えた腰を奮い立たせ、受話器を取り上げた。

 親機にはカラフルな付箋が貼ってある。母親の丸文字でメモされた、もしもの時のために必要な緊急連絡先・取引先数件の電話番号。

 1と1と0とを細ヶ谷が押そうとした時だった。

 書体までイタリアを意識した『CHIUSO閉店中』のサインプレートを提げたドア。その向こうで、聞こえよがしに大きな溜息をつく気配。

「そうか…。ここまでしても出てこねえつもりか。それならしょうがねーなー。こっちも非常手段とらなきゃなー」

 細ヶ谷は上体を伸ばした。向こうが透けて見えるわけでもないのに、ドアのあちら側で柑太が邪悪な笑みを作っているのが分かる。

「いいか細ヶ谷?俺にこの選択をさせたのはお前だからな。後で文句つけんなよ」

 柑太に不平不満を漏らすなど土台、無理な話だ。本音を言えば付き合うようになったことを後悔している。なぜなら柑太には普通の人間とは一線を画す危うさがある。万一本気で怒らせでもすれば、良くて自分の身の破滅。悪くて家族共々にまで害が及ぶことは想像にかたくないから。

 本人は別段隠すでもなく自慢するでもないが、柑太は父親が反社会勢力の(それも恐らくラスボス級の)一員なのだ。その血は柑太の性格に如実に表れている。はじめはフィルターをかけて邪推しているのかと自分を諌めたのだが、とにかく根っこの部分で普通の人間とは違うのだ。

 純然たるエゴイズム。あるいはと呼んでも差し支えないもの。良識とか他者への共感が生まれつき欠如しているような不気味な底知れなさ。

 方という癒し的な存在がいなければ、とっくのとうに道を踏み外してとおかしくない───

 火力発電所と原発。それを足して一つの体にねじ込んだような人間。それが柑太。

 もっともが本物の柑太なら、の話だが…

「てめえのナメくさった態度を悔いてくたばれ」

 くつくつと楽しげな忍び笑いがドアの隙間から漏れてきた。

(おいおいおいマジかよ。何をするつもりだ?)

 本物の柑太なら火付けくらいは平気でやる。しかし化け物になっていたら…

 想像力の限界で頭痛がしてきた。

 背中を冷たい汗が伝う。

 次の瞬間。

「細ヶ谷日郎和のー、好きな人はー、隣のクラスのヨッシーこと遠藤芳美ちゃんでーす!きっかけはぁー、去年の運動会でぇー、二人三脚の相手が組体操で怪我して一人だけで走らなきゃいけなくなったときにー、すぐに駆け寄って急遽ペアになってくれた事ですー!それからもー、修学旅行とかでー、一緒の班じゃないのに同じコースを回ったりー、涙ぐましい努力を重ねてー、ついにー、こないだのヴァレンタインデーでー、手作りのぉー」

「わーっわーっわーっ!やめろ下さい神崎君‼︎」

 顔を真っ赤にして店から飛び出した細ヶ谷である。

 と、そこには腕組みの上にニヤついた金髪頭を乗せた柑太と。

 両手を擦り合わせ、申し訳なさげな内股で立っている方の姿。

「あ…」

 ガッ!───と、固い音。

 足元を見下ろすと、開いたドアの下で柑太のスニーカーがストッパーになっている。

「ようやく出てきたな細ヶ谷ァ…」

 柑太の凄みのある歪んだ口元くちもと。これじゃ多重債務者に非友好的な取立をするヤクザのやりくちだ。

 ああ、間違いなく本物の柑太だ。

 それは安堵か、更なる恐怖か。細ヶ谷には判別できない。

「ち、ちが、俺、裏切ったわけじゃむぎゅ」 

 狼狽する細ヶ谷を、今度は柔らかな感触が包み込む。方が、いや姿がきつめのハグをしてきたのだ。

「ゴメンね心配させて!」

「は、離せ化けモン!幽霊!ゾンビ!」

 感極まった様子の相手はしかし力を緩めない。ジタバタと手足を振り回す細ヶ谷の鼻腔にふわりと届く、甘くてかぐわしい匂い。

 思わず暴れるのを忘れ、細ヶ谷は記憶を確かめるように目を閉じる。

 いつか父親の認めるような料理人になりたい。そう願う細ヶ谷は、常日頃から嗅覚を鋭敏に鍛えていた。食材が傷んでいるかどうか、加熱が十分かどうか。それを判断するのに嗅覚は欠くべからざる能力だから。

 はたから見るとちょっと変態じみていたが、細ヶ谷は臆面なく相手のぷっくりした胸倉に鼻を埋め、と鼻を鳴らして嗅いでみた。

 鼻腔から鼻粘膜、そして嗅神経を伝い脳に届く匂い。感覚ははっきりと訴えてくる。

 常に少し汗が臭う自分と違う、甘ったるいフレーバー。

 ウクライナから日本に帰化した母親の影響か、方は感極まると学校でも道端でもおかまいなしでハグをしてきていた。おかしな癖というか個性だと思っていたが、細ヶ谷の扁桃体にはしっかりとそれが記憶されている…間違いない。

 このマシュマロのような匂いは、まごうかたなきかたつむぐの体臭だ。

(あ。こいつ本物…)

 そう思うと全身の筋肉の力が抜けた。緊張が解けた細ヶ谷を、相手───方は「細ヶ谷君、ごめんね、ごめんね」と繰り返して抱擁する。ちょっと苦しい。

「───ツムツムが謝る筋合いなんかどこにあんだよ。馬鹿じゃねえの」

 二人の横で面白くもない、と耳をほじっている柑太にも構わず、細ヶ谷も方を抱きしめた。じんわり伝わってくる懐かしい体温と男のくせに甘やかな体臭に、涙が溢れそうになる。そして方の柔らかな腹の下の方から、猫が喉を鳴らしたときみたいな音が次第に高まりながら聴こえてきた。

「ははっ。腹…減ってるのか」

「うん…」

 方の声が震えている。細ヶ谷の額の生え際に、生ぬるい涙が落ちてくる。…まさか鼻水じゃないまろうな?

「方。俺こそ、置き去りにして悪かった」

 細ヶ谷の声もかすれて震えていた。

「はーいはい、感動の再会はそこまでだ。野郎同士でベタベタしてっと誤解されるぞお前ら」

 白けきって手を叩く柑太は、なんだかサイズの微妙に合わないジャージを着ている。胸に「蒲生高校:方碧」と白文字刺繍があるということは、これは方の父親のものなのだろう。自分が卒業した地元の高校のジャージを律儀にとってあるところがまた方の父親らしい。

 方の方はセーターにスウェットズボン。いつもの私服だ。

「細ヶ谷、とりあえず俺達を中に入れろや。そしたらこれまでに起こったこと全部話してやる」

 友が生きていた。その事実に感動していた細ヶ谷は、自分の恋模様が商店街の耳ざとい皆々様に開陳された事も忘れてしまっていた。それは後日、それこそ本人が忘れた頃にからかいの種になるのだが、それは別の話。

「ああ、しっかり聞かせてもらおうじゃねえの。神崎君はエスプレッソでも飲みながらで…方、お前は“いつものやつ”でいいかな」

 柑太は偉そうに腕組みで頷いた。方はバツが悪そうに笑いながらでっぷりした腹を撫ぜた。

「んじゃ───入ればいいじゃえねの」

 わずかにはなをすすりあげながらも、いつものぶっきらぼうだが気さくな調子に戻った細ヶ谷である。

 

「もー、コテンコテンな一日だったよ。知らないうちに僕の体に変な怪物が住み着くし、そいつが学校は壊すし、高速道路で暴れたりするしカンちゃんと喧嘩するし」

「ツムツムお前、あれをって言うんじゃねえよ。血みどろ全開、るか殺られるかの瀬戸際だったろーがよ」

 “言っておくがおれの体に勝手に居座っているのは貴様の方だ。説明は一度で覚えろ愚か者”

 僕、かたつむぐはボヤいた瞬間隣にいる柑太と頭の中にいる怪物───饕餮とうてつからダブルでツッコミを食らった。思わず「ぷにゃ」と情けない顔になってしまう。

「いっけない、そうだった。僕、一度死んでるんだっけね…」

 僕の前には卵をたっぷり使ったできたてほやほやのオムのせキノコライス。ちゃんと国旗を立ててあり、しっかり火の通ったオムレツの表面にスプーンを差し込めばフワッと半熟卵が溢れ出す。バターの香りのする黄身と、パラリと炒めたエリンギてんこ盛りライスとの絡みが絶品。

 同じ皿にはハンバーグも添えてある。丁寧にこね合わせた挽肉に特殊なパン粉と玉ねぎと、細ヶ谷家直伝の調合スパイスの生み出すハーモニーは、熟練した焼き加減で肉汁を閉じ込めた宝箱。

 『オリーブの谷』でお子様ランチと注文すればこれが出てくる。僕にとって物心ついてからずうっとこれが“いつものやつ”なのだ。

 それと蜂蜜をたっぷり投入したホットラテのマグカップ。僕がこの店で注文する定番メニュー。しぼんでいた気分も、美味しいごはんでアガらないわけがない。

「でも!怪我もすぐ治るし、寒さにも強いし、トクしちゃった感もあるよ?」

 スプーンを片手に頷き、エヘヘと笑ってみた。

 そんな僕のおつむりに、またもや柑太のチョップが炸裂。

「ドたわけ。それじゃ困るからなんとか元の体を取り戻そう生き返らせようとしてるんだろ。当の本人がヘラヘラしてんじゃねえよ!」

「ぷゅにゅ〜…」

「まあまあ神崎君。方がヘコんでないのはそれはそれで良いじゃねえの。マジに死んでたらそれこそ本物のお通夜だったんだからさ」

「細ヶ谷君優しい。大好き!」

「バカのツムツムを甘やかしてんじゃねえぞ細ヶ谷。元々のバカが調子に乗って輪をかけたらお手上げだ」

 柑太は片眉を厳しく吊り上げ、フォカッチャに厚切りのベーコンとチーズをサンドしたものを勢いよくかじる。

「ツムツム、お前もな、こんなクッソ甘ぇ飲み物なんかじゃなくて、男ならビシッとブラックコーヒーすすれってんだ」

 僕と柑太、それに細ヶ谷は既に『オリーブの谷』の店内にいる。吹きさらしの外ではなく、通い慣れた店の中にいるというのはそれだけで心も体もほっと温めてくれるものだ。

 『大きなのっぽの…』の童謡に登場しそうな古めかしい時計が、テーブル席の彼方から味わいのある響きで午後の六時を告げる。

 店先で恥ずかしい秘密を暴露された後。細ヶ谷は僕と柑太をカウンターに招いて、ブラックコーヒーの飲めない甘党の僕にはラテを、自分と柑太にはエスプレッソを目にも留まらぬ速さで淹れてくれた。

 それから細ヶ谷が二人分の料理をこしらえながらの合間に、僕は自分の身に降りかかった出来事のあらましの説明をしたのだ。

 いま細ヶ谷は(さすが飲食店の跡取りで、専用の)エプロンを掛けたままカウンターの内側で天板に前のめりに肘をついて、並んで座る僕と柑太の話を聞いている。ちょうど、お父さんが好きでよくNetflixで流している西部劇の酒場のマスターよろしく貫禄のある姿勢。

 僕の実況中継のような説明は、朝からこれまでの時間経過に沿うものだったけれど、とりとめもなく冗長だと柑太に怒られた。ややもすると脇道に逸れがちなのは自覚がある。普通の中学生が体験するにはハードすぎるんだもの、しょうがないじゃない。

 途中から見かねた柑太がざっくりと事件のあらましトークを肩代わりしてくれて、それは本当に分かりやすくて助かった。

「それにしても細ヶ谷君が信じてくれて良かったよ。作り話とか言われるんじゃないかって心配してたんだ、僕。…嬉しかった。ありがとうね」

「はじめはまぁ、神崎君まで何かに乗っ取られたか取り憑かれてるのか…って勘繰かんぐったけどよ。かたの様子うかがってたら拍子抜けしちまった」

 細ヶ谷はヘヘッと鼻の下を擦り、溜息混じりに漏らす。

「ううん、すごいよ。こんな荒唐無稽コートームケーな話、普通うたぐってかかるもんね」

 感動して両指を握り合わせる僕に、細ヶ谷は料理の載っていたプレートを指差した。

「その歳でお子様ランチを注文する野郎なんか他にいねえっての」

 なんだそんな事かとガッカリする僕。さもありなん、としたり顔にほくそ笑む柑太。

「だって、中学生になってからは注文するのは控えろってお父さんから言われちゃったし。こんな機会でもなければめったに食べられないかなって」

「そーいうとこじゃねえの」

 化物に取って代わられても、そういう嗜好まで再現できないだろう…と細ヶ谷は太い腕を組む。

「テヘヘ、思ってたより僕って人望あるんだ」

『それは違う』

 細ヶ谷と柑太が声を合わせた。

 細ヶ谷はいましがた用意した自分の分のエスプレッソの残りをグイッとあおり、あらためて、と切り出す。

「二人の話を総合すると、今現在のこいつの体には二つの意識…というか魂が入ってる───ってことでいいんだよな?」

「うん、そういうことみたい」

「だな、めんどくせーけど」

 柑太は食べきったフォカッチャのパン屑を舌で舐めとり、四杯目のエスプレッソを吸い込むようにすすった。

「なるほどな。こっちは教室で方の顔を見たときマジもんで心臓が止まったじゃねえの。で?その後俺は自分ちここに帰ってきてニュースなんか見てねえけど、お前の中にいる化け物…饕餮とうてつだっけ?がひる日中ひなかに暴れ回ったのとか、世間で大騒ぎになってるんじゃねえか?」

「どうなのかな?僕とカンちゃんは知らないよ」

周囲まわりのことに気を配れる状態じゃなかったからな。俺とツムツムは。知りたきゃツイッターでも検索してみろよ」

 柑太はまるで頓着せず涼しい顔。

 たくさんの車を壊してるし他人ひとに怪我をさせてるのは確実なんだけど、そういった被害の経過について気を回せるだけの余裕はなかった。…自分達のことで精一杯だったんだもの。

「ま、俺やツムツムの責任じゃねーし?全部饕餮のやらかした惨事なわけだから」

「名乗り出たところで信じてはもらえないんじゃねえの?」

「えーと、後から大人のひとに何か訊かれたら“よく覚えてない”って言えばいいんだっけね?カンちゃん」

 僕の目配せに、柑太は金髪を後ろに撫で付けながら「そーそー」と頷く。

 方家かたけに着いてから、一番最初にしたのは風呂の自動運転のスイッチを入れることだった。

 二人して頭から東京湾の海水に浸った帰りみち。人間の柑太がガタガタ震えていたのは当然なのだけれど、不思議なことに饕餮の肉体を持つ僕までもが段々に寒さを感じるようになって、家の玄関に着く頃にはもう涙が出るほど冷気を噛みしめていた。指先が、鍵を回すのも一苦労だった(あれだけ暴れても無くさずにズボンの中に入っていたのも幸運だったと思う)。

 湯張りが完了したと合成ヴォイスが流れるまでの数分間で、僕はボロボロになった制服を脱いだり(もう使い物にはならないのでゴミ箱に突っ込んだ)、柑太のびしょびしょになった制服を乾燥まで全自動モードの我が家の洗濯機にセットしたりして。

 それから二人して風呂に浸かり、十二分にほっこりとしたところで着替え、徒歩で細ヶ谷の店を訪れたのだ。

 それも

「誤解を解くなら早い方がいいだろ。ツムツムが生きてるのも饕餮に乗っ取られてるわけじゃねーってことも、お前のノホホンづらを拝ませれば一発了解だぜ」

 という柑太の発案。

 加えて…というかこちらの理由のほうが大きいのだけれど…僕の家の冷蔵庫にはちゃんと食材があったのだけど、柑太も僕も肝心の料理の腕がちゃんとしておらずからっきしで、空っぽの胃を満たすことができないのが明白だったから。

「あ、このお子様ランチのぶんのお金は、ちゃんと払います」

「何当たり前のことをドヤ顔で言ってんだ」

 細ヶ谷は苦笑し、メインをあらかた食べ終えた僕の前にデザートのイタリア風プリンカラタナの小鉢をスッと滑らせる。待ってました!と僕は思わず拍手。ほんと、よくできた後継ぎさんだよね。

「お父さん直伝の料理の腕、また上げたんじゃない?オムライスもハンバーグもほとんど同じ味だったよ」

「よせやい。親父にゃまだまだ及ばねえじゃねえの」

 しかめっ面で鼻の下を擦る細ヶ谷。照れてるんだな。

「いやマジでツムツムに爪の垢でも飲ませてやれよ。だってこいつさぁ、炊飯器に水も入れねえで『炊き』スイッチ入れやがってさ?も・ひで有様ありさま。炊飯器の釜の底、マックロクロスケ」

 柑太が横から意地悪く頬をツンツンしてくる。それを押し返して僕も言い返す。

「だって知らなかったんだもん!先にお米いけないとかさ…それを言うならカンちゃんだって、生卵、電子レンジで茹で卵にしようとして失敗したじゃん!」

 細ヶ谷は絶望の呻きとともに首を振る。

「それって料理の…というより家事の基本だろ。あとな、米は研ぐモンじゃねえの。二人とも家庭科の授業中何やってたんだ?」

 柑太はデミタスカップを指に引っかけてプラプラさせて、

「料理を食って評価する重要な役回りさ」

 僕はデザートスプーンを咥えて俯いて、

「ぼ、僕はその、野菜とか?切る係だよ…」

 細ヶ谷、さらに猪首が折れるほどうなだれる。

「…いた俺がアホみてえじゃねえの」

 一段高くなったカウンターの内側で、細ヶ谷はがっしりした肩から力を抜いた。

「てか、その化物、意外と素直なんだな。方の従わせる力が強いのか?」

 確かに。今は僕が抑えている感覚がはっきりある。

 たとえて言うなら丁度そう───大きな動物の頭蓋に腰掛けている印象が近い。僕が眠ったり気を失ってしまったらどうなるのかな、と気になってきた。

「ねえ饕餮、そこのところはどうなの?」

 頭の中で全身筋肉と巻毛の怪物が笑う。

 “ふん。まともな疑問だな。貴様が意識のくびきを緩めれば当然、体の支配権は己に戻ってくる”

 僕は饕餮の言葉をそのまま伝えた。

「じゃあ、方が眠っちまったらヤバいじゃねぇの⁉︎」

 細ヶ谷は慌て、柑太は黙り込む。

「饕餮は暴れることが好き?」

 “愚問。己は久方ひさかたぶりの自由を楽しむぞ。まして陽界はじつに面白いもので満ちている。それを邪魔するものはこれすべからくのぞく。それだけだ”

「ふーん、そうなんだ」

 僕はカラタナへ進む前に、ラテを含んでくちの中を整える。

「ねえ饕餮、教えてくれる?」

 “何をだ”

 僕と饕餮との会話はそのままだと独り言みたいになってしまう。なるべく柑太と細ヶ谷にも伝わるように言葉を選んで…

「饕餮さ、僕を食べたんだよね」

 “くどい。愚鈍。繰り返すな”

 むっとした様子が伝わる。この怪物、頭の回転は早いけど気も短い。どこか柑太と似てる。

「美味しかった?僕のお肉」

 あれ?柑太と細ヶ谷が固まっちゃった。僕としては至極もっともな質問なんだけど。

 “───陰界の生き物はこれまで色々な種類を食らってきたが…”

「うん」

 “それらに比べてやや柔らかくあぶらがのっていたな。味については取り立ててどうというほどはない。貴様を喰らったのは、ただそこに居て己の腹が空いていたからだ”

 人間という種族は、饕餮のような怪物にとって珍しい作物とか養殖された魚みたいなものなのかな。そんなに特別でもないみたい。

「そっか。じゃあさ…」

 僕はちょっと微笑んで。

「それ、僕で最後にしてね」

 軽い調子で言いはしたけど、大真面目なお願い。

 “つまりもうお前達の仲間を喰うなと。そういうことだな”

 僕は頷く。

「この体を全部僕のものにしたいっていうのは、自分勝手かなと思う。でも僕もにいるんだから、人間を───他のひとまで君がパクパク食べちゃうのを許してはおけない」

 饕餮が、ぐるるる、と唸る。

 “これも何度も言っている。貴様の抑止力が弱まったとき、己が主導権を取り返したときに、己は自由にしたいことをする。邪魔だてなどできんぞ”

「そんなことさせないよう頑張るよ。でもさ、こうやって毎度毎度頭の中で僕と喧嘩してたら、饕餮だって疲れるでしょ?」

 柑太も細ヶ谷も固唾を飲んで僕を見守っている。人畜無害な中学生と、人智を超えた怪物の、人命についての史上初の交渉…かな?

 両手で包むように持っていた器に目を落として、僕は閃いた。

「そうだなあ───饕餮の食欲は別のものとかで紛らわせない?例えばこのプリン」

「カラタナ、だ」

「うん、ごめん細ヶ谷君。えーと、カラタナひと口あげるからさ」

 柑太の顎がガクンと落ちる。

「ツムツムお前…色々とすげえな⁉︎化物との取引にスイーツ使うとか」

「しかもほんのひと口かよ⁉︎ケチ臭えじゃねえの」

「だって僕が食べたくて僕のお小遣いから注文したんだもん!ホントならひとくちだってあげたくないんだからね⁉︎」

 柑太の感想ももっともかもしれない。異世界の怪物、それもつのから大きな雷を出したり片手で大型車をぶち壊すような相手に対して、真面目に食べ物で釣ろうと持ちかけているんだから。

 だけど、他にいい方法が考えつかない。自分だけならまだしも、友達や家族や、何の罪もない他の人をこの怪物の餌食にするなんてダメだよ。

 絶対に!

「ねえ饕餮、どう?この世にはね、僕なんかよりずーっと、ずーっと美味しくて色んな種類の食べ物があるんだよ?暴れたり迷惑かけたりしないで大人しくしてたほうが、そういうものをラクに食べられる分じゃない?」

 自分の肉体を失った僕にもう差し出せるものは何も無い。お金とかはそもそも怪物には無用の長物だろうし…お年玉の貯金はまあ…少しはあるけどさ。

 饕餮の答えはシンプル。

 “では主導権を渡せ”

 そうくるだろうと思っていた。というか、それしかない。

 “貴様の提案など検討するだけ無駄だろうが、そこまで言うならそのカラタナとかいうものを喰ってやる”

「───今だけ、だよ?カンちゃんと細ヶ谷君を取って食べようなんてしたら、また押し込めるからね?いい?分かってる?」

 饕餮がうんざりした調子になって応える。

 “本当に貴様はくどいな。───分かった”

 これ以上念を押したらブチ切れそうな気配。だけどこっちだって、引けない一線だ。

「じゃあ出してあげる。けど、今はこのプリンだけだからね!」

「カラタナだってのに」

 そして僕は目を閉じる。

 すぐに饕餮の意識が僕を押しのけて前に出てくる。お尻を鷲掴みにされズルっと引きずり下ろされるような感覚。視界は水の中のようにトロンと霞み、柑太と細ヶ谷の声が遠くなった。

「───うむ。やはり外の世界は良いな」

 首から下は人間の僕の格好そのままに、頭だけが饕餮のそれに変容する。

 細ヶ谷が「うぉっ出た!」と後ろに身を引いた。饕餮の顔をはっきり見るのはこれが初めてなのだから、無理もない。

 羊のようにひと巻きねじれた角。頭髪の代わりにモジャモジャと伸びた巻毛。獅子ライオンと熊を合成したような顔。更に横に大きく裂けた口に、上下に突き出した牙だ。びっくりしないほうが難しい。

 出陣前の戦士よろしく首を回してゴキゴキ言わせ、饕餮は二人の人間には構わずカウンターに置かれた小鉢に焦点を合わせる。

「これがか。上部は茶色で下は黄色…花のような香りがするが…あぶらの塊か?」

 僕の声とはまるで違う、低い音程の饕餮の問い。

「つ、使ってあるのは埼玉の契約農家から仕入れた地鶏の卵と、蜂蜜と…石垣黒糖にゼラチン、生クリーム、バニラビーンズとかだ」

 細ヶ谷の声は裏返り、ほとんど逃げ腰になる。まともに立っているのは勇気というより料理人の意地かもしれない。

「火山の近くで熱にあてられた化蛇かだの卵などはこんな様子になることもあるな…」

「そ、そいつは近いんじゃねぇの?自然界のものが偶然料理に近くなることだってある…と思う…」

 膝を震わせながらの細ヶ谷の解説を、饕餮は意外と素直に聴き入る。

だのだの、知らぬ物ばかりだな。どれ」

 いただきますは、勿論、ない。饕餮は天井を仰ぐと器ごと持ち上げて、柔らかな中身を大口に落とし込んだ。

 ガヅン。

 牙を閉じ合わせると、大きなかんぬきをかけたような音がした。

(あ゛ーっ!ひと口ってそういう意味じゃないよ!スプーン一回ってこと!)

 僕の抗議に耳を貸さず、饕餮は目を閉じている。

 一秒。

 二秒。

 きっちり五秒経過したところで、饕餮の金色の瞳が皿のように見開かれた。

「な、ん、だ、こ、れ、は‼︎」

 怪物の絶叫。『オリーブの谷』店舗全体が振動する。

「え、えっと…口に合わなかったのか…?」

 壁際まで後退する細ヶ谷、カウンターに置かれていたカトラリーからフォークを掴み取る柑太。

「口に合う?莫迦ばかな」

 首から下の人間の部分、肩から両腕をわななかせ、怪物の頭がグリグリと回る。

「うおおおおおおおお!これは、これはなんだ⁉︎くちどころか咽喉のどが、はらわたが溶けるようだ!いや溶けているのか⁉︎貴様、貴様がこれを作ったのか⁉︎」

 細ヶ谷は観念して目をつぶり両手を合わせた。口の中でナンマンダブとか父ちゃん母ちゃんとか呟く。

 饕餮はそんな相手の両肩をお構いなしに捕らえて引き寄せる。細ヶ谷の「ひぃやぁぁ!やっぱりキスくらいしておけばよかった芳美愛してるゴメン‼︎」という哀れな悲鳴。柑太が椅子に飛び乗り───

「もっと出せ!」

 泣き顔の細ヶ谷が、へ?と聞き返す。

「貴様はコレをどこから出すのだ、口か?この小さい耳か?この鼻か?それとも尻か?とにかく出せ!出せ!出すのだ‼︎」

「え、お、う、って、それって…お代わりってこと…?」

「オワリ?変えるな莫迦め!同じものを、ここに出せと言っている‼︎く出さねば貴様の肉片を少しずつつまんでじ切っていくぞ‼︎」

(ダメだよ饕餮、そんなんじゃ。細ヶ谷君を怖がらせてどうするの?)

「む。ではどうすればいい。どうやればこの美味を更にひねり出させる事ができるのだ」

(まず細ヶ谷君を放して。それから普通にお願いしてみて。おかわりが欲しいから、ちょうだい、って。それで通じるよ)

「本当か?嘘ならすぐさま細ヶ谷こいつ…いや、カンチャンを喰らうぞ」

 横目でぎろりと柑太を睨む。臨戦体制の柑太はその目玉にフォークの先端を狙い定めている。

(嘘はつかないよ僕は。饕餮、君のために言ってるんだ。───やってみて。それとも、そんなこともできないの?僕のことさんざん馬鹿にしてたのに?)

 饕餮、僕の切り返しに大きな牙を歯軋りさせる。

 細ヶ谷の肩に食い込んでいた鉤爪をパッと放し、一息ついてから。

「…もっとオカワリが欲しい」

(はい、そこで『お願い♡』)

 グルル、と唸って。

「…お願い…♡」

 細ヶ谷は脱兎の如く業務用冷蔵庫に飛んでいき、慌てて出してきたありったけのプリン。それを前にして饕餮は舌を出して歓喜の雄叫びを上げた。

 ご近所におすそ分けするつもりだったのか、器の数は数十個もある。饕餮は今度は一飲みにしようとせず、僕が使い方を教えたスプーンで器の中身をチマチマとすくい、ひと口ずつ宝物のように咀嚼していく。

 その様子を見ていた細ヶ谷が、まだフォークを握って用心している柑太に耳打ちした。

「…おい神崎君、この化け物なんか可愛くなってないか?」

「気のせいだろ」

「でも食い物に目をキラキラさせてるとこなんかまるで…」

 ここに至り、僕にも饕餮の顔の変化がつぶさに分かる。

 細ヶ谷の漏らした感想どおり、野獣のモチーフをかき混ぜた印象の饕餮の顔からすっかりけんが無くなってしまった。モチモチとプリンをむ姿はまるでそう、つぶらな瞳が可愛いポメラニアン(首から下は僕だけれど)。

 固唾を飲む細ヶ谷と、片手間にスマフォをいじっている柑太に見守られて怪物は大人しく人生(?)初のスウィーツを堪能する。

 怪物が全ての器を空にするまで意外と時間はかからなかった。最後の一つを底までベロベロ舐め尽くし、今度は純粋に尊敬と感慨の眼差しで細ヶ谷に問う。

「なあおい、このとやらはどうやって作ったのだ?口から吐いたのか?尻からのか?身体を裂いて出したのか?」

 グイグイと身を乗り出して矢継ぎ早にまくしたてる饕餮。若干ひきながら細ヶ谷は真面目に答える。

「い、いや、材料をまとめて、なんてーのかな…熱処理とか加えていくとそうなるんだ。割と基本的だしそう難しい技術テクはいらねえ。えーと、料理した、っていうのが簡単な言い方じゃねえの」

「料理…料理というのか。貴様はその術が使えるということだな。この世界に来て初めて己はニンゲンの技に感動したぞ」

「術?…なんか誤解がありそうじゃねえの」

 長い山羊耳をぷるぷる震わし目を細め、余韻に浸る饕餮。この怪物にも飲み物を出した方が良いのか思案する細ヶ谷。そして柑太はスマフォをポケットにしまう。

「来た」

「え?神崎君、誰が?」

 店の入口がノックされた。細ヶ谷が開ける。

「…猪俣?鳥栖まで一緒じゃねえの」

 お化け屋敷に入る時の僕みたいに真っ青になって頭を低くしている鳥栖(それでもカーシャピンクのジャージとシルバーアクセを丹念に身につけているあたり、オシャレを諦めてない)。と、無機質で冷静な表情で機能的なコートを着込んだ猪俣。

「俺が呼んだんだ。今度は逃げずにちゃんと従ったな」

「そそそそそりゃ神崎君のがお化けより怖いもン」

「そか。───猪俣よぉ、お前は?」

「…僕が神崎君に逆らうとでも?」

「ふうん。じゃドア閉めろ。鳥栖、細ヶ谷、お前らはこっちに来い。猪俣はそこにいろ」

 卑屈な笑いを浮かべ、ヘコヘコと頭を下げながら柑太の方に近づく鳥栖が、

「ひぉっ」

 とおかしな声を出す。

「かかか神崎君⁉︎そそそそそれ、そのン、そこにいるのはあの化物ばけものじゃ」

「あー説明面倒くせ。コイツは饕餮。ツムツムはコイツに喰われたけどちゃんと内側なかにいる。今んとこは大人しくしてるから害はねえよ。いいからとっととそのケツ、カウンターに据えろ」

 鳥栖はカートゥーンアニメのキャラクターのように誇張されたおっかなびっくりで、柑太を挟んで饕餮の反対側に腰掛ける。その様子がおかしくて僕は饕餮の内側でクスッとしてしまった。

 柑太は着信がきた携帯を取る時みたいな何気なさでカトラリーの詰まったかごを手元に引き寄せる。

「さて、と………」

「神崎君、僕は」

 柑太が右手をひらめかせた。先程から握っていたフォークが宙を裂き、猪俣の肩をかすめて背後のドアに突き立った。

 びいぃん…という音が消えぬ間に、柑太は次のフォークを取り出して。

「猪俣清吾。お前は頭いいじゃん」

「…」

「じゃあ、異常事態に対して警察を呼んだりする前に俺に報告しなかったのはなんでなのかな?」

 柑太は満面の笑みだった。それも、サンタからプレゼントを渡されるのを待つ小学生のようなニコニコ顔。

「…」

 また柑太が腕をしならせる。フォークは猪俣の腰をすり抜けて、背後に刺さる。

「そもそもお前、あの廃倉庫でツムツムを閉じ込めたろ?ちゃんと仲間として扱えよ、っていう俺の言いつけに背いてよお」

「…」

 柑太の投擲。今度は頭の上。きちんとセットされた髪を崩してドアに着弾。

「バレないと思ったのか?ナメくさりやがって。ツムツムが饕餮に喰われたのはてめえのせいだ。ツムツムの肉体を殺しやがったのはてめえだぞ。分かってんだろ?あ?猪俣清吾君、よぉっ!」

 次に飛んだのはナイフ。猪俣の右頬に直線の切り傷をつけ、ドアの彫刻部分に当たり小気味良い音を立てる。

「黙ったままか。なら俺はてめえを裏切者認定するけど、いいな?」

「か、神崎君!ウチの店を血で汚すのは勘弁してくれねえ?」

「どーしよっかなー。ツムツムはバカだからコイツのこと庇ってたけど、俺はそーゆーの苦手なんだよなー。ウチの親父ならエンコ詰めさせるんだろーけど、それもまどろっこしいよな」

 揉み手をしている細ヶ谷のひきつり笑いの前で、柑太は籠の中身をカウンターにぶちまける。

「ひーふーみー、の3セットか。今投げた分を差し引いても充分かな」

「か、勘弁してやってくれよ神崎君!ウチのドアが穴だらけになっちまうじゃねぇの」

「そうなるかならないかはこの腐れ野郎次第だな。で?何か弁解することは、あるか?」

 柑太はスプーンを除き、フォークとナイフだけで器用にお手玉を始めた。

(饕餮、主導権返して!カンちゃん本気だよ、止めなきゃ)

 しかし饕餮は我関せずとばかりに舌に残るプリンの余韻で陶然としている…

「もしもーし?猪俣清吾君ー?何か自己弁護してみー?」

 猪俣の頬から一滴、血が床に伝い落ちた。

「僕は…」

 グッと両手を握り、顔を上げる。

「神崎君のためを考えて行動している。それだけだよ」

 柑太の笑顔が一気に爆発した。

「そっか♬」

 目にも止まらぬ早投げ。凄腕のジャグラーのような柑太によって宙空に楕円軌道を描いていたナイフやフォークが、次々と打ち出された。それは猪俣の背後に人型を作っていく。鳥栖が悲鳴を上げ、猪俣がやめてくれと叫ぶ。

「ラス1いちいっくぞー♬」

 柑太は最後のナイフを手の中でクルクル回して大きく振りかぶり、シュパ、と投げた。

 ガッチィィン。

 僕は思わず目を瞑った(意識体のままで)。

「…なんだよ饕餮」

 不機嫌な柑太の声に視界を開く。

 猪俣の眉間を狙ったナイフは、瞬時に猪俣の前に移動した饕餮の噛み合わせた牙の間に挟まり、静止していた。

ホソガヤがやめろほそはやややへほと言っているほいっへいふ

 ぺっとナイフを吐き捨て、饕餮は食べ終えたプリンの小鉢を持ったまま猪俣の前に立ちはだかっている。僕は拍手喝采。

(えらい!えらいよ饕餮、よくやったね!僕の分までプリン食べちゃったの許してあげる!)

「勘違いするな。別にツムツム貴様のためにしたわけではない。と、ホソガヤのためだ」

 異世界の怪物にとってはそうだとしても。人に迷惑をかけたり傷つけたりする、その反対のことをしたんだから良いことなんだ。

 しかし柑太には火に油だったらしい。

「お前には関係ねえだろ。そいつはツムツムの仇だ。落とし前つけさせんだよ」

「落とし前?そんなものは知らん。ただ、この物体を傷つけたらホソガヤが困るらしいからな」

「そ、そうだぜ饕餮!神崎君も、色々ムカつくことはあるだろうけどさ、ここは穏便に済ましても良いんじゃねえの?」

「へえ。てめえいつから俺に意見できるほど偉くなった?細ヶ谷よお」

 今度は細ヶ谷が冷水を浴びたように青ざめる。

「全く貴様らニンゲンは面倒なものだな」

 饕餮は手にしていた器をポイと放る。カウンターの内側で細ヶ谷がキャッチ。

「ならばこれでどうだ」

 饕餮は猪俣の首根っこを掴み、柑太へ差し出した。

「これで殺しやすかろう」

 前言撤回。やっぱり分かってない。

 猪俣の整った顔に恐怖はなかった。ひたすら真っ直ぐに柑太を見つめ…

 そして猪俣は目を閉じる。ギロチンにかけられる昔の貴族さながらだ。

「貴様らの理屈はおれの知ったことではない。ツムツムこいつが己の中に居座る限りこの者が害をなすことはできんがな。さあ、殺せ。目障りなのだろう?」

 一瞬だった。鋭いカトラリーを切らした柑太がスプーンの柄を持ち、猪俣の眼窩に突っ込む…

 と、全員が思った。

「あー、つまんね。興醒めしちまった」

 柑太は軽くうそぶいて、あっけなくカウンター席から飛び降りる。

「俺帰るわ。あ、猪俣はこれに懲りたら二度と俺に嘘をつくなよ。針千本リアルに飲ませるより方法で殺すからな」

 僕には分かる。その場合の『楽な』というのは、相手を苦しませないという意味じゃない。

 柑太自身の手間が少ない、柑太にとって楽ちんなやり方で殺すぞ───ということだ。

(戻るよ、饕餮っ!)

 僕は饕餮を押しのけて主導権を取り戻し、お子様ランチ代とデザート(プリン一個分だけでいいのかな?でも全部とか無理!)代を急いでトレーに置く。

 いつもの顔に戻った柑太はポケットからちょっとした束が作れそうな万札を適当に引き出し、カウンターに置くと僕を引き連れて店を出た。

 僕たちは知らなかったけれど、その後の『オリーブの谷』では…

 細ヶ谷は「ぶはーっ…」と腹の底から吐息を出し切ってカウンターの中にへたり込み。

 鳥栖は色々と理解が追いつかず未だガタガタ身を震わせて。

 猪俣はギリギリと歯軋りをしながら、目に暗い光を宿らせていたのだった。

 

「あのよ、ツムツム」

「ぴうっ⁉︎なになに⁉︎どうしたのカンちゃん」

「何ビビってんだよバーカ」

 柑太のジャンピングチョップが僕のおつむりにキマる。いつもと同じ衝撃と痛み。

 下校と同じ帰りのコース。道が別れる交差点までは、一緒にたわいもないあれやこれやを話すんだけど…

 でも今日はいつもと違う。違いすぎる。色々なことがありすぎたよ。

「怒ってるのかと思って…」

「お前には怒ってねぇだろバカ。ほんとにお前はバカだな。そんでバカのつくお人好しだ」

「…そうだね。カンちゃんの言う通りなのかも」

 僕は他の人に迷惑をかけることが嫌いだ。それは優しいお父さんやお母さんの教えが、心の芯にまで染み渡った結果だと思う。

 しょうがないよ。イヤなものは嫌なんだもの。

 だけど。

「ちゃんと分かってる。自分を大切に、大事にしてこそ他の人のことも尊重できるんだよね」

 柑太は空を呑み込むように大きくのけぞって、カーッ、ペッ‼︎と唾を吐き捨てる。

「超絶くだらねー。ンな当たり前のこと復習してんじゃねーよ」

 ちなみに俺は自分を大事にするために周りの余計なモンは無視するけどな、とゲラゲラ笑う。

「そうだよね。そうなんだよ。…でもときどきは、さ。自分以外を大事にしなきゃいけないことも、あるよね?」

 柑太が僕を睨み上げる。

「それってツムツムが自己犠牲するとかいう話か」

 僕は笑って首を振る。

「全然そうじゃないんだ。むしろ逆。僕はカンちゃんが一番大事なの。自分よりも、もちろん他の誰よりも。…他の人の迷惑になったとしても、ね」

 僕にとって、柑太を失うのはどんな犠牲よりも辛い。…だから、柑太が他の誰かを傷つけたりしそうなときは止めるし、自分の中の怪物がもしまた暴れ出して柑太を傷つけたりしようものなら、すぐにでも自ら命を絶つ。

 こんなにワガママで自分勝手な考えはないよね。

 けど、それでいいと思ってる。

「何が言いてえのかよく分かんねーけど。とにかくお前は俺の目の届く範囲にいろよな。もう金輪際一人になるな。余計なことも考えるんじゃねーぞ」

「ありがと、カンちゃん」

「バーカ!これ以上面倒なことになったらダルいからだバーカ!ほんっとに、お前はクッッッソバカ‼︎」

 ガスガスと僕の腰に肘打ちをかます柑太。うまい具合に青信号が連続してくれて、僕たちは交差点につかまらず歩いていく。

 分かれ道に近くなった段で思い出した。

「そういえば、明日は遠足だよ」

「あー、朝のホームルームでそんなこと言ってたか…こんな状態で行くわけねーだろ。サボりだサボり」

「ダメだよ!」

 僕は柑太の両肩を掴んで言葉に力を込める。

「行き先は新葛西水族館なの!あそこ、イルカショーあるし今年生まれたコツメカワウソの赤ちゃんもいるの‼︎抱っこできる整理券まで配られてるんだよ⁉︎」

 お、お、おう…と柑太は若干ひいている。

「だから、ね?行こ?お昼ご飯は自由なんだって。みんなで仲直りするのにちょうどいいじゃない。僕、お母さんに頼んでキャロットケーキ作ってもらうから。ね?ね?ね?」

 僕は半ば振り回すように柑太の上体をガクガク揺らす。

「あー分かった分かった。行ってやるよ」

「そうだよ!それでなくても学校は軽い気持ちで休んじゃダメだよ。カンちゃんのお父さんやお母さんに心配されるよ。怒られるよ」

「出席日数なんか俺の親どもは気にしてねーし。それに殺されちまったお前がよく言うよな」

「別に死んじゃったわけじゃないし。ただちょっと、もとの身体をパクって食べられちゃったけど」

「なんでだろな、全然物悲しくねーぞ」

「そうだね。あははっ」

 僕は笑う。眉をしかめていた柑太も根負けして、へにゃらと笑う。…体の中では饕餮も、プリンに満足してゆったり和んでいる。

 明日は絶対に遅刻しないでねと念を押しながら柑太と別れ、自宅の前に来て犬小屋をいつもの習慣で覗き込んだ。

 どわっ、という勢いで我が家の愛犬・小武蔵コムサシが吠えたてる。

「そか、小武蔵お前、僕の中の饕餮が怖いんだね…」

 もう二度と、愛犬の小さな体を抱きしめられないのかな。そう想像したらまた泣けてきた。

 テリトリーを侵した敵のように吠えかかられながら、後ろ手に寂しくドアを閉める。

「お帰り、紡」

「玄関開けたらすぐにお父さん?」

 僕の父親、方碧かたみどりが仕事着である看護師の白衣のまま立っている。丸っこい小兵体型で、童顔だから僕と兄弟と言っても通用するぐらい若い顔は、完全なる無表情。

 そして両手を合わせ、指と指とを絡ませ合いながら関節をバキバキ鳴らしている。

「あの、どうして指グネグネさせてェッ⁉︎」

 地球が、飛んだ。

 いや、床が、回った。

 違う、僕を中心に重力が消えて、ぐるんと家が一回転した。

 どずずぅぅぅぅぅぅん。

 僕の片腕をめて見事な投げ技を披露した父は、無言で襟首を引っぱり僕を立ち上がらせる。

「おと、お父さんてば?なんでそんなに怒ってるの?」

 父はうろたえる僕に冷たい口調で静かに告げる。

「怒ってないよ?僕はただ、息子を心配してるだけだよ?」

 今度はベルトを掴まれた。スウェットのベルトループが物質的な悲鳴をあげる。

 廊下の縦長方向に見事にうっちゃりをかまされた。床板に半身を叩きつけられて痛い。ちょっと面白くなっちゃうくらい痛い。

 ふと顔を上げると、廊下の先の角からお母さんが動画モードのスマフォを構えていた。

「きゃーっきゃーっきゃーっ!流石だわカッコいいわ久しぶりだわ碧センパーイっ」

 中学生と小学生の二児の母にしては黄色すぎる声援。

 反対に冷静沈着な父の呟き。

「午前中に学校から連絡が来たよ。生物準備室で爆発事故があったと。お前は行方不明になってるし、帰ってきてみればズタズタな制服が屑籠にすててあった。電話はおろかメールのひとつもない。───なあ紡」

 ぐっ、と僕の腰の前に体を入れ、股下から掬い上げるように投げられる。

「僕と糸子さんがどんなに心配したか、分かってないだろう?」

 ズビターン!背中を廊下に打ち付けた。肺から空気が強制的に排出され、痛いけど声も出ない。

(…あー、そういえばお父さん元相撲部のエースで、お母さんが惚れ込んで付き合ったって前に言ってたよーな…)

「すごい!昔取った杵柄どころじゃないわ!キレが落ちてない!素敵すぎ♡」

 キャイキャイしている母の下から弟のむすぶと、僕より一つ歳上の従姉妹である沙撚 さよりが顔を出す。

「ねえ結君、あれ大丈夫なの?」

「あー、たまにあるんだああいうの。お父さんがガチギレする時は相撲の技かけてくんの。突っ張りテッポウとかマジで壁に穴開くレベルだし、投げ飛ばされると痛いんだよなー」

「ええ⁉︎も、勿論怪我とか」

「モチロンするよね。まー、たとえ骨折っても肉が切れても大抵のことはホラ?治療できるじゃん。お医者さんと看護師さんなんだから」

「マッドメディカルな家庭じゃない…」

 二人が呑気な会話をしているさなかにも、僕は控えめに殺意を抱いた父から思う存分ブン投げられ、張り手をかまされ、ボコボコにされていく。

「沙撚 ちゃん、かたではね、親の言うことは絶対なの。不品行ふひんこうや社会規範からの逸脱は許しません。破ったら明朗に暴力で解決するわ♡」

 母は青い目に柔らかな微笑みをたたえて、かつての憧れの先輩と健気なマネージャー時代を思い返しながらカメラで夫を追い続ける。

 哀れな僕はコテンパンにされた。それからたっぷり二時間半、廊下に正座をさせられお説教タイム。

 泣きべそをかく僕にお父さんは徹底した態度で

「今日から一ヶ月、無断外出は禁止する。外に遊びに行ったりしたら庭木に逆さにくくりつけてやる。トイレ掃除と風呂掃除、ゴミ出し当番も全部やること。いいね?」

 と言いつけた。

 すっかり意気消沈した僕だけど、この原因を作った饕餮は

 “貴様が攻撃されるのはいい気味だ”

 とニヤついている。

「ちょっとは味方してくれても良いんじゃない⁉︎」

 思わず漏らすと、

「…まだ懲りていないのかい?」

 とお父さんのヒリついた声が落ちてきたので、僕は慌てて土下座をした。

 こうして僕が怪物と一つになった一日は幕を下ろしたのだった。

 

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己の名は饕餮 鱗青 @ringsei

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