己の名は饕餮

鱗青

第1話 己の腹を満たせ

 僕は勘違いしていた。

 地震のような大災害は、同じ日本人として共感もするし再現動画に恐怖を覚える。けれどそこまで。その程度。別に自分自身が同じ目に遭ったわけでもないので三、四日もすれば完全に忘れる。

 ミサイルがたまに海を越えて翔んできたりなんかしても、それはどこに被害を与えるでもなく遠く海の彼方へ消えていく。ニュースだって騒ぎやしないし、ましてや周囲の大人達が義憤を撒き散らすわけでもない。学校の先生達だって、部活の成績や学力テストの点数向上の方が一億倍身近で重大な関心事。

 そう。僕は勘違いしていたんだ。

 この状況が、僕を取り巻く環境が、揺らめく陽炎かげろうのような不確かなもので、絶対的な約束などされていないし保証も付いていないのだということに気付きもしなかった。

 まあ気付いていたところで「ツムツムは世界の終わりが来ても普段と変わらずにあんマンを食べたりしてそうだ」と幼馴染から言われる僕なんだけど。

 僕の名はかたつむぐ。普通よりちょっとのんびり屋の、ただの中学生だ。

  

 恐怖体験してみよう、と誘ったのは僕じゃなかった。

 中学二年次ももうすぐ終わる2月の連休明け。

 まだ桜も芽吹かない肌寒さのなか、大田区立蒲生がもう中学校二年B組の教室。他のクラスメイトが帰り支度をしている中で、神崎かんざき柑太カンタが机の中身を鞄に移し替えていた僕の頭にジャンピングチョップを入れてきた。

「本日十回目!ついに二桁台だ、油断が多いぞツムツム!わっははははは」

 制服のブレザーの前をはだけ仁王立ちになって笑うと、左だけオールバックにした金髪の前髪がバサバサ跳ねる。

「ひどいよカンちゃん、筆箱落としちゃったじゃない」

「知るか。俺のせいじゃねー。それより今夜だ!十一時に例のとこに集合な」

「えゴメン、なんの話だっけ?」

 学生鞄を肩にかけ、席を立ちながら尋ねた。相手は僕の鳩尾みぞおちあたりに位置する頭の後ろで手を組んで太い眉を顰める。僕は身長百七十㎝越え、体重は(ほかの人から言われるのはイヤだけど)四捨五入すれば百kgの巨漢だ。

 一方で小学校から一緒の柑太は六年生あたりからあまり背が伸びていない。多分百四十㎝そこそこだろう。それでよく「ツムツムのせいで俺の成長パワーが吸い取られてる」と文句を言うのだ。

「憶えてねえのかよ。肝試しやるぞって話になったじゃん。大井埠頭の廃倉庫で!」

 僕は目を泳がせながら頬を掻いた。そういえば昼休み、柑太と僕も入っている男子の仲良しグループの誰かが「何か面白い事をしたい」と言って、他の人が「どうせならスリリングな方がいい」と重ねて、柑太の「それなら心霊スポット行って動画に撮ろうぜ!」という鶴の一声でそんな流れになったんだったっけ。

 ちなみにその場所は僕の住んでいる家(とはいえオンボロ一軒家)から自転車で二十分はかかる。記憶の中ではその建物は『〜貿易○○』と壁面に大書された今時珍しいトタン屋根の倉庫だ。子供の頃はその近所の公園まで出向いて、スマートフォンでポケモンを捕まえたりしていたっけ。

「しっかりしろよ?遅刻厳禁だからな。無断欠席ブッチなんか許さねえぞ!」

「うーん、自信ない…家族がいるからなあ」

「んなもん知るか。うまく抜け出して来れなかったら、これだからな!」

 と、またもやジャンプして僕のしたたかに打ち据えた。痛ぁ、とぼやく僕も柑太も笑顔。

 その数時間後。僕は家族が寝静まるのを待たずにジーンズと厚手のパーカーになって二階の自室のベランダでスニーカーを履いてから庭に降り、冬枯れた下草を踏む音にもビクつきながら抜き足差し足。

 途中、我が家のアイドル犬こと雑種の小武蔵こむさしに吠えられもしたが、

「シーっ。散歩じゃないんだよ。寝てな」

 と撫でてやったら素直に犬小屋に戻った。聞き分けが良くて助かる。

 玄関脇の駐輪スペースから自分のママチャリを、軋みひとつ立てないよう苦労しながら抜き出して、家の前を離れてから飛び乗った。一路、国道伝いに大井方面へ。

 平和島で右折して、北西へ。大橋を越えれば、そこは海浜公園を抱えた小さな島、大井埠頭エリアだ。その辺りから時刻を気にして立ち漕ぎをしていたせいで、約束していた集合場所に乗りつけた時には霜が降りる寒さの春先だというのに汗だくになってしまっていた。

 静まり返った真夜中近くの埠頭。ツンと鼻をつく磯の匂いを運んでくる潮風。廃倉庫の建物は街路灯に脇腹を照らされて、上半身はすっぽりと闇に覆い隠されている。

 空には満月。そもそも星月に頼らなければならないほどの田舎ではない。近所のイオンの照明が夜空を薄く照らしている。

 道路に面して停められた自転車の列に自分のママチャリを混ぜて、街路灯の光の届かない横道に入る。いた。闇に浮かぶ三体の鬼火のような携帯画面と、三つの顔。

「うわ。常夏の国から来たのかよ。お前の周りだけ空気の温度が高いぞ」

 額から顎から汗をダラダラさせる僕に対し、のっけから顔を背けるのは、グループで一番背が高い猪俣いのまた清吾せいご。細身で脚が長く、コートの襟を立てて佇む姿が様になっている。黒に銀メッシュ縁のメガネが似合うイケメンで、学年でも全教科満点を誇る秀才だ。父親は大学教授、母親は経産省次官とかで、小学生の頃から論文大会の上位入賞常連だったという。なんでお受験もせず蒲生みたいな公立校に入ったのか、謎しかない。

「本当に汗っかきだな。早く拭かねぇと風邪ひいちまうじゃねえの」

 言いながらもポケットからくたびれたタオルハンカチを貸してくれたのは細ヶ谷ほそがや日郎和ひろかず。メタボ体型のずんぐりむっくりにスカジャンを引っ掛けている。地黒の剃り込み坊主に吊り目をしていて、ポケットに両手を突っ込んだまま左右に肩を揺らすようにして歩くものだから、校内を歩くと女子や大人しい男子に避けられてしまう。本人は空手をやっていて、礼儀正しいし弱い者や年長者には親切な良い奴なんだけど。

「ありがと。これ洗って返すね」

「ていうかかた、神崎君と一緒じゃないん?」

 少し高い声でつつくように尋ねたのが鳥栖とす博之ひろゆき。夜目にも映えるピンクのジャージ。ドレッド頭には金ラメのヘアバンド、耳にピアス、首元にドッグタグ、手首にアッシュメタルの腕時計。足元には浅緑のスニーカー。物凄くマネーの匂いを振り撒いている。全部が全部掛け値なしのハイブランドなのは、外資系企業の極東マネージャーが父親であるおかげだろう。本人は至って平凡な面立ちなので、完全にファッションに置いてきぼりだ。

「あれ?カンちゃんまだ来てないの?おかしいな、僕の方には連絡…」

 荒い息を整えながらスマフォを取り出すと、柑太からのLINEの通知がいくつも重なっていた。

「…来てたみたい。自転車漕ぐのに夢中で気付かなかった」

「使えないな。これだからウドの大木は」

 猪俣がライターを取り出し、流れるようにラッキーストライクに火を点けた。ちょっと、こんなところでめなよと声をかけようとしたら着信があったらしく、ポケットからノキアの携帯を取り出す。名前を一目見るや冷淡な顔をほころばせ、まだほとんど吸っていない煙草を放り捨てた。

「神崎君!今どこ?…うん、うん、皆集まってるよもう。方?ギリギリだったけど遅れてはいない。あっ…そうなんだ、了解。…え?」

 笑顔が硬くなり、眉間にみるみる皺が寄っていく。表情がコロコロ変わるのが面白い。

 と、黙って僕に携帯を突き出した。ポカンとしていると、電話を代われってさ!と苛立ちながら押し付けられた。

「はいもしもし。僕だよ」

『おーツムツム!悪ぃ、今夜行けそうにないわ。ちょっと警官とバトっちまって、派出所ポリスに世話になってるとこでよ』

「え、ええ⁉︎どうしたの‼︎」

『愛車で近道して走ってたらよ…あ、安全運転だぜ?パトに呼び止められて。んで職質ってかイチャモンつけられて。“小学生でしょ?子供が夜中にフラフラしてちゃダメなんだよ”だって。バッカみてぇ』

 嗚呼、瞼に浮かぶ。中学入学と同時に乗り始めたマウンテンバイクで軽快に走っていたところを警察に見咎められ、更に歳下に見られるという侮辱にキレる柑太の暴れっぷりが。

『そんでさ、このまんま親待たねぇといけなくなったから。だからツムツム、そいつらと一緒に』

「っカンちゃんは怪我とかしてないの?」

 食い気味の僕の質問。ひと呼吸置いて『大丈夫だよ。俺は、な』という不穏な含みのある返事。

「そうかぁ。良かった」

『大体その辺警邏けいらしてるぐらいしか運動もしてない普通なみの警官にこの俺様が負けるかっての。んで本題。ツムツム、俺の代わりにそいつらと行ってきてくれよ。これ約束!』

「カンちゃん…」

 本当はすぐにでも会いに行きたいくらい心配だ。けど素直に従ってしまう。冗談めかした口調だが、僕にとってカンちゃんとの約束は絶対なのだ。  

『ほいじゃ明日、学校で報告な。怪奇現象とか起きたらバッチリ録画ってくるんだぞ』

 通話が切られる直前、電話の向こうで一悶着が巻き起こる様子が聞こえた。

「本当にもう、血の気が多いんだから…」

 でも無事で何よりだ。「話し終えたらさっさと返せよウド」と猪俣に言われ、携帯を渡すとこれ見よがしにウエットティッシュで清拭されたけど。

「よーし、ンじゃあ一丁潜入しますか!」

 若干震えた鳥栖の声を合図に、僕達はノブも千切れかけ錆びついたドアの残骸を押し開けて、倉庫の中に入る。

 懐中電灯は誰も持ってきていない。各々の携帯がライト代わりだ。その光条が暗闇を切り裂く。青白い視界には、壊れたコンテナや重機の残骸、段ボールなどなどのガラクタばかりが点在している。

 一人だけ、ライト付きの本格的なハンディカメラを持ってきた鳥栖は、「えー、僕ちんは今大井埠頭の某廃墟に侵入しています!時刻は午前…いや午後十一時二十分です。他に人の気配はありません」などと配信者を気取ったナレーションを呟いている。

「なんだ鳥栖、カメラなんか持ってきたのか。スマフォで良くねえの?」

「画像のブレ防止とか露出補正とかするにしても、カメラを使う方が良い素材が撮れるんだン。スマフォは便利なライト代わりで十分」

 こういうのが性に合うのか、カメラレンズを通すと臨場感が薄れるためなのか、鳥栖は活き活きとしている。

「お前らこっちに集まれ。案内図が貼ってある」

 猪俣の言葉に、僕達三人はゾロゾロと階段の脇に集まり雁首を並べる。壁の少し高いところには、白いプラスチックの板に簡素な案内図が表示されていた。でも何かおかしい。漢字表記なのだが所々の文字が簡略化されていて読めない。

「一階がガレージと集積所、二階は仕分作業場。三階は保管庫が主で、四階が事務所らしいな」

「凄いね猪俣君、中国語読めるのン!」

 鳥栖の感嘆で、僕と細ヶ谷は合点がいった。意味が掴めなかったのは外国語だったからか。

「面積的には大した事ないな。一階は見た感じ何もないし、二階と三階、構造の複雑な四階で二手に別れるか」

「じゃあ僕ちん細ヶ谷と組む!こん中で一番ゴリラだし幽霊が出ても物理で攻撃!」

「誰がゴリラじゃ」

「どっちかというと猪だな」

「おい猪俣!」

 自分こそ名前にが入ってるのにな。僕は微笑んでしまう。頭脳派の猪俣と肉体派の細ヶ谷という、見た目と名前を交換したような構図が面白い。

「何ニヤニヤしているんだ気持ち悪い。置いて行くぞ」

 いつの間にか鳥栖と幡ヶ谷は姿を消してしまっていた。階段の上方で鳥栖のカメラのライトがチラついている。

 慌てて猪俣の背中について階段を上る。四階まではすぐで、『○○貿易公司』とカードのついたドアを潜ると、少し柔らかなタイルカーペットの敷き詰められたオフィスのような場所に出た。

 ピタリと足を止めた猪俣のコートの背中にぶつかって、「びゃあっ」と声を上げて飛び退すさってしまった。

「先に行けデカブツ」

「え、えー?でもここ心霊スポットで…」

 はあ、と心底に侮蔑のこもった溜息。

「お前と俺の体格差を考えてみろ。どっちが先陣を切るに相応しい?」

「…僕、かな」

「神崎君にしっかり調査して報告しろって頼まれたんじゃないのか?」

「そう、だけど…」

 すい、と脇によけて道を開け、顎で先に行けと示された。僕は仕方なく、頭も肩も腰も縮めて亀のようになりながら内股で進んでいく。

 オフィスは幾つかガラスパネルで仕切られたブースがあり、恐らく偉い人の席なのだろう、立派なデスクや大きな棚がしつらえられていた。ただしどこもかしこも書類や備品が散乱していて足の踏み場もない。落ちているボールペンを踏みつけて立てた音に自分で驚き飛び上がってしまう僕の後から、眉ひとつ動かさずに携帯で動画を撮りながら猪俣がついてくる。これ、絶対逆の方がいい。

「なあかた

「びゃいっ⁉︎きゅ、急に話しかけないでよもうビックリするじゃない‼︎」

「お前はなんで神崎君に付きまとってるんだ」 

「なぁんだ、そんな事?小学校からの友達だから。幼馴染って感じだよ」

 僕の背後で猪俣は眉間を険しくして舌を鳴らした。それに続く「たったそれだけの事で…」は、僕には聞こえなかった。

 入口から奥まで、たっぷり一時間近く探索しても、それらしい現象は起きなかった。僕はその幸運に感謝しながら最後のブース、そこだけ壁に囲まれ一つの部屋として独立しているドアの前で立ち止まる。

「なんだよ。早く開けて中に入れよ」

「いやー、なんか寒くなってきちゃって。ここ奥になってるせいかな?冷気が滞留してるのかな。それか、やっぱり汗で冷えたかも」

 僕の笑いに猪俣はいちミクロンも感応せず、能面さながらの無の表情で先に進めと促す。

 そこは他のような乱雑さはなかった。むしろきちんと整頓されているような印象。

 四畳半くらいの広さの空間。両側面には棚があって燭台や壷がおさまっている。道路に面している窓ガラスはひび割れているものの、そこから差し込む僅かな明かりが部屋の中央に置かれた真円のテーブルとその上に置かれた木箱を浮かび上がらせていた。

 ゴクリ。唾を飲む音が大きく響く。明らかに意図をもって設置されている物品に、背筋の毛が逆立った。

「ほわー…なんかここ、ねえ。ねえ、猪俣く…」

 振り向いたら、誰もいない。…て、え?

 ドアも閉じている。ノブをガチャガチャさせても、押しても引いても開かない。

「え⁉︎猪俣君?どうしたの?」

 返事は無い。ただコツコツと遠ざかる無慈悲な足音だけが聞こえた。

「じょ、冗談よしてよ。開けて!ここを開けてよ‼︎」

 向こうにつっかえ棒でもしているのか、拳で叩いてもドアはピクリとも動かなかった。頭の中が真っ白になって、呆けたように床にへたり込んでしまう。

(どういう事なの。僕、何かした?猪俣君はそれに怒って僕を閉じ込めて、行ってしまったの?)

 頭の中で柑太と交わした会話や猪俣や鳥栖の顔が渦を巻く。どうしよう。ここから出ないと。もう日付も変わる真夜中なのに。

 ふと右手の小指が痛んで視線を落とす。夢中になって気付かなかったけれど、小指が切れて血が滴っている。

 涙が込み上げてきた。小さい頃、産まれたばかりの弟に両親がかまけているのに嫉妬して、癇癪かんしゃくを起こして納戸に閉じ込められたのを思い出す。あの時は必死に謝っていたら両親が許して出してくれた。それからは反省して、勿論弟にも優しくした。

 だけどこの状況。深夜に友達に廃倉庫の一室に閉じ込められるなんて。どうすればいい?このまま朝になったら家族が心配するだろう。それに学校にも行けない。せっかく皆勤賞だったのに。

 後から考えればスマフォで助けを呼ぶという事もできたはずなのだが、すっかり混乱していた僕にはまともに筋道立った思考はできなかった。

(いっそ窓から出られるかな。最上階だけど、雨樋あまどいか何かを伝って下に降りられるかも…)

 もう一度部屋の中に向き直った僕は、丸テーブルの上の木箱に目が留まった。

 平べったくて四角い。何の気なく近づいて手に取る。iPadくらいの大きさだけどズシリと重い。

 よく見ると真新しい木材で作られている。なんとなく神社やお寺の賽銭箱に似ているような雰囲気だ。違うのは、細い紐で箱全体を縛っている事。単純な縦横結びじゃなくて、亀の甲羅のような複雑な結び方だ…。

 さらに顔を近づけた。糸の色はいぶされたような茶。茶渋のような…いやもっと汚い感じのする色だ。

「ぴゃうっ⁉︎」

 いきなり糸が切れた。いや、木箱の側から外へ向けて描いた軌道は、まるで内側から空気の塊か何かが膨張して押し切ったみたいに見えた。

「何か…祟りとか呪いとか…じゃないよね…?」

 黙っていると怖いので、無理矢理笑いながら蓋を開けてみる。

 真っ黒な円い文鎮。第一印象はそれだった。

 白綿に沈んでいたそれを引き抜いて裏面を見る。磨きをかけてあって、明るい場所なら顔が映りそうだ。数滴垂れた僕の指の血が、つるりと鏡面を滑り落ちてしまうくらい。

 もう一度、表側を確かめる。真ん中に球体の出っ張り。金属製で、出っ張りの周りにはびっしりと細かな紋様と何かの象形が彫刻してあって…

「あーっ!これ‼︎」

 頭の中でおぼろげな記憶を探り、学校で使っている社会便覧のカラーページに辿り着いた瞬間僕は叫んでしまった。折しも部屋の外から三人分の足音と人声が近づいてきていた。

「猪俣、お前やりすぎだろ。方はガタイ良いけど気の弱い奴なんだからよ」「ドッキリさ」「それにしても一人ぼっちにさせるなんて。神崎君に怒られるのヤダよ僕ちん」

 ドアの向こうに皆の気配がして、身も心も晴れやかに駆け寄った。

「ねえ!凄い物発見した!お宝かも!きっとそうだよ!」

「おー、無事か方。落ち着けよ、今棒をどかすから」

 ドアが開くのを待つ瞬間も、脚をバタバタさせながら小躍りしてしまう。

(これは大発見だ。カンちゃんに良いお土産ができた!喜んでくれるかな?そうだと嬉しい!)

 僕を閉じ込めていた戸口が開放され、細ヶ谷、鳥栖、それに面白くなさそうな猪俣の顔を見た途端、僕の興奮は最高潮に昂まった。手にしたものを彼らに向かって突き出し、唾を撒き散らしながら説明する。

「ねぇコレ見て!これ古墳とかで発掘される銅の鏡───

 

 ピピピピ。ピピピピピピ。

 雀の鳴き声でも鳩のざわめきでもない。いつもの朝、僕を起こしにかかるビープ音。反射的にベッドから腕を伸ばして枕元の目覚まし時計の頭を思い切りはたいた。

 もぞりもぞり。頭まで布団を被ったまま、ベットの上で四つん這いになる。いつもの事だけど、どうして学校っていうものはこんなに早く起きなければならないのだろう?

 唸りながら名残惜しく寝床におさらばし、勢いよくカーテンを引き開けた。

 空は雲一つない快晴。パジャマの胸元に手を突っ込んで掻きむしり、大きく欠伸をぶち上げる。えーと、木曜日だから体操着を持っていかないと。着替えを手早く済ませ、登校準備をととのえて階下に降りる。

 リビングにはもう家族が揃っていた。

「おはよう、紡。昨日はやけに大きないびきをかいてたね」

 僕の父、みどりが白飯に目玉焼きと焼き鮭、サラダと味噌汁という我が家の定番メニューをテーブルの僕の定位置に並べながら言う。

「え、そう?寝言とか言っちゃってた?」

「そこまで聞いちゃいないさ。思春期の息子のプライァシーは守らないとね」

 唇を歪めてニヤッとする。でも全く迫力がない。

 それもそのはず。うちのお父さんは全校生徒の父兄の中で一番背が低い(僕調べ)。童顔だわ背は低めだわ、全身にポッチャリと肉付いているわで…おまけに年齢も34歳、若パパだ。だからしょうがないともいえる。

 ワイシャツにネクタイを締めているのに、もうなんというか───初々しい高校生のようだ。僕と並んでスーパーなんか行けば、「兄弟でお買い物なんて、仲が良いわねぇ」なんて勘違いされる。勿論、兄とは僕のほうで。

「昨夜は賑やかだったわよぉ。あなたはグーグーよく眠ってるし小武蔵はワンワン騒いでいたし」

 のんびりと紅茶を飲みながら文庫本から顔を上げる僕の母、糸子いとこ。帰化したウクライナ人でお父さんとは反対にキリッとした目鼻立ちで、身長も百七十と少しのスレンダーな体型。絹のような薄茶色の髪を三つ編みにし、さらに後ろ頭全体に巻き付けバレッタで留めている。

 スーツを身につけた様子は洋画のキャリアウーマンさながらで、子供の頃から夫婦揃って参観日には注目の的だった。童顔のお父さんは少しだけ気恥ずかしい存在だけれど、こっちは美人で自慢のお母さん。

 席に着こうとしたら、先に朝食を終えていた弟のむすぶに肘で突かれた。

「顔テカってる。あと目脂めやに。洗面所に行って来いって」 

 生意気な口調。小学校四年生、身長は家族の内ではちょうど真ん中ぐらい。痩せても太ってもいない。母親似で整った顔をしているせいか、先日のヴァレンタインには両腕に一抱ひとかかえもあるチョコレートを持ち帰り家族を驚かせた。…僕に対して反抗期のような態度は気に入らないけど。

 一応は可愛い弟の言葉通り、のっそりと洗面所に向かう。顔を洗いながら、そういえば何か大切なことを忘れているような気がするなと首を捻った。

 でも多分そのうちに思い出すさ。プッシュ式のコックを押し下げて水流を止め、顔を拭く。

 家族の中で僕が一番の巨体だ。頭髪の先端は鏡の上辺から見切れている。横幅はなんかもう広すぎて、鏡の中に肩の外側まで入りきらない。顔は父親譲りの丸顔で、瞳の色が極端に薄い点は綺麗だと褒められるけど…他にはこれといって見栄えする点はないよね。

 鏡の中の自分を見て寝癖を直そうとしたら、すぐ後ろにストレートの黒髪が揺れていた。

「ぷひゃあっ!ヨリちゃん⁉︎」

「そんなに驚かないでよ紡ちゃん。肝っ玉小さいなぁ」

 僕と同じ蒲生中学の制服の腰に手を当てて立っているのは、羽音はたおと沙撚さより。ブレザーのスカートは、三年生である事を示す緑のチェック。この子は僕の家族じゃない。というか、家族に限りなく近い存在だけど家族というには微妙な感じで…

「急がなくていいから。私はまだ余裕あるし。歯を磨くだけ」

「いや、うん、…ごめん」

「だから謝らないでってば」

 苦笑しながら髪をかき上げる。伯母さんの娘で、要するに従姉妹だが、高校受験の真っ只中に叔母さん夫婦が海外に転勤してしまったため、この冬から一つ屋根の下で同居している。勝気な性格が顔にも出ているが、そこらのアイドルよりもずっと可愛らしい造作にまとまっている。

 そそくさと洗面台を明け渡して、顎に残る水滴を手の甲でいい加減に拭いながらテーブルに戻った。病院で働く両親はほとんど交互に夜勤と日勤を繰り返している。昨夜はたまたま二人とも帰宅していたが、そこそこ大きな病院の産婦人科・小児科医であるお母さんは今日は当直だから帰らないと言って、紅茶を飲み終わるや席を立った。…で、別の病院の整形外科看護師のお父さんがいそいそと玄関先に見送りに行く。何やらホンワカした会話を交わしているのでそっちは見ないようにする僕。だっていまだに「行ってらっしゃいのキス」をしてるんだもの。(なにが思春期の…だか。自分達のほうがよっぽどじゃん)

 僕は胸の中で独りごちる。両親の仲の良さは息子としては喜ばしいけど、中学生としては羨ましいというよりくすぐったい。自分も将来誰かとあんな風にできるかと訊かれても、答えはノーだ。だって恥ずかしいもん。

 続いて弟がランドセル片手に椅子から飛び降りた。戻ってきたお父さんとぶつかりそうになりながら元気に行ってきますを叫ぶ。テーブルに残された見守り携帯に気づいた僕は齧っていた鮭の皮を口の端から垂らしながら慌てて追いかけた。

「結!忘れてる‼︎」

 玄関を出たところの弟は振り返り、うんざりした顔で受け取りながら礼の代わりに「だせぇ・うぜぇ・うるせぇ」と三単語の羅列。うん分かってる。

 廊下で沙撚 とすれ違う。軽く会釈をしてくれた。髪の方から柔らかな香り。歳上の女の子が同居している環境には、やっぱりまだ慣れないな。

 いつもならここで小武蔵が挨拶がわりにじゃれつくのだが、犬小屋の中に引っ込んでいた。様子を窺うと、奥の方で薄茶色の饅頭みたいに丸まって震えている。調子が悪いのかな。いつもなら飛び付いてくるのに。

「おっはー小武蔵。風邪でも引いた?」

 手を伸ばした。

 ───ウワン‼︎

 信じられないことに、吠え立てられた。

 子犬の頃から知っている雑種犬が、暗がりの中で目を爛々と光らせ牙を剥いて威嚇してくる。機嫌が悪い、では済まされない必死の形相。

「な、なんだよ…変な奴」

 情けない捨て台詞で食卓に戻る。お父さんはあらかた洗い物を終え、ドリップパックの珈琲をくまモンのマグカップに淹れていた。出勤前の情報収集に、テレビをつけてニュースを流している。

 画面の表示で時刻を確認。まだちょっとだけ余裕がある。僕は茶碗の飯をかきこみながら、遅刻ギリギリの線まで粘ろうと決意。

 キャスターが大映しになり、テロップが画面下を横断。頬杖をついたお父さんが読み上げる。

「大井埠頭で殺人事件、かぁ」

 パッと切り替わった画面には、僕達が忍び込んだあの倉庫を俯瞰した映像が映っていた。撮影班の飛ばしたドローンによる滑らかな空中撮影。

 そこからさらに地上のカメラが別アングルで、現場のキャスターが大袈裟に声を張り上げている様子を納める。彼のげんによれば、建物周辺の道路は閉鎖されているらしい。

 望遠に捕らえられた入口のアップ。そこには“立入禁止”のテープが十重二十重とえはたえに渡されて。

『本日未明、大井埠頭の倉庫内で激しい物音がする、と近所の住民から通報が入り、警察官が立ち入ったところ、建物の四階から身元不明の成人男性のものと思われる損壊の激しい死体の一部が発見されました。現場には争った形跡が残されており、警視庁は何らかの事件に巻き込まれたものとして被害者の身許を調べています』

「ブ───ッ!」

 僕は飲みかけていた味噌汁を、アニメみたいな見事な吹き出し方をしてしまった。そしてこれでもかとむせこむ。

「大丈夫か紡⁉︎喋らないで、気管に詰まったものを吐き出して」

 差し出されたティッシュにケホケホと食べ粕を出した。大丈夫と返そうとしても言葉にならない。涙目になりながらニュースの続きを凝視する。

 落ち着きを取り戻したお父さんは、僕が汚したテーブルを拭きながら横目でしっかりテレビ画面を観ていた。

「それにしても“死体の一部”かぁ。紡、この意味分かる?」

 僕は首を振りながら胸元をどんどん叩き、食道の入口で引っ掛かっていたものを嚥下する。

「身許が割れたものが『遺体』で、そうでないのは『死体』なんだ。このニュースの内容だと『一部』って呼んでるから…『身許不明のバラバラ死体』ってわけだね」

「へ、へえぇ⁉︎そうなん、だ」

 挙動不審になってしまう。それはそうだ。なんたって僕は昨夜あそこに猪俣達と侵入したばかり。そこで身許不明のバラバラ死体が見つかるなんて、偶然にしても怖すぎる。

 だって僕達が行った時にはそんなものはどこにも無かった。だだっ広い建物を探検して、そして…

「───あれ?」

 額に手を当てた。記憶がすっぽり、と抜け落ちた穴がそこにある。

「紡、時間はいいのかい?もう大分押してると思うけど」

 お父さんに言われ、ハッと我に返った。テレビの時刻表示が八時を回っている。ヤバい。

 最後の悪あがきで残りのおかずとご飯を口に放り込む。欲張りな栗鼠の頬袋状態になりながら鞄と体操着袋を引っ掴んで家を飛び出した。

 外の風は頬を切り裂くような冷たさ。マフラーを口許まで巻き付けて、うむむと目を細める。

 いつもと少し時間がズレただけで、通学路にすれ違う人の顔ぶれまで変わる。なんだかんだ皆、毎日同じルーティンで生活している証拠だ。

 冷気で頭がハッキリしたら、昨夜の記憶の欠落が鮮明になってきた。

 倉庫の四階、奥の部屋に置いてあった骨董品?を見つけたところまでは順序立てて思い出せる。…しかしその後どうやって帰ってきたのか?

 まるで白いスプレーをぶちまけたように、頭の中の映像に靄がかかってしまっている。グループの皆と別れたり、徒歩で帰宅して家の玄関から入ったりした筈のデータが不鮮明なのだ。

 そう、されたのではなく、「そこにあるはずの記憶」は感覚的に把握しているのだが、なぜだか記憶野にうまくアクセスできない…そんな状態だ。

「ま、いいか」

 家から学校への道。一番はじめの信号に捕まり足を止めて独りごちる。と、すぐ後ろから快活な声が降ってきた。

「なんも良くねぇぞコラッ」

 後頭部にガツンという衝撃。鞄の角がぶつかったのだとすぐに分かる。なぜなら、背後に学生鞄をブンブン振り回して再びスウィングする準備のできた柑太が仁王立ちになっていたから。

「寝坊でもしたのか?遠くから呼んでんのに返事しねえし、このバカツムツム!」

「あ、ご、ごめんカンちゃん。考え事してて」

「下手の考え休むに似たりってやつ!」

 再び鞄を振り上げる柑太の金髪に染めた生え際に、生々しい人差し指大の切り傷があるのに気が付いた。ちょっと待ってと手で制し、鞄の中から絆創膏(大)を取り出す。

「ジッとしててね。動いちゃヤだよ」

 こんなものなんでもない、舐めんな!とぶうたれる相手に屈み込み、丁寧に傷を覆った。

「以前にも喧嘩して、その時は化膿させちゃったでしょ?本当はすぐに水で洗い流してたら安心なんだけど」

「俺の為に一々いちいち絆創膏携帯してんのかよ」

「そりゃ看護師と医師の息子だもん。あったりまえでしょ?ちなみに消毒液も綿棒も爪切りもあります」

 幼馴染とはいえ、手当てされるのが気恥ずかしいのか唇を尖らせて紅くなる柑太。どうやら鞄で攻撃するのは諦めたらしい。

 湯沸かしポットより沸騰しやすいのが柑太の欠点だ。彼自身は額に絆創膏で済んでいるが、さて相手の警官はどれほど痛めつけられたのやら。

「大人ってきったねえよな。学校でもTVでも『人を見た目で判断してはいけません』なんつーくせに、自分達はやりたい放題だもんな」

「そうだね。…でも、その人が偶々たまたま残念な人だったのかもよ?カンちゃんを見た目で判断しない人の方がきっと多いよ」

「そーかぁ?」

「そうだよ。君みたいにまっすぐな人のほうが世の中多いはずだってば。…そうだったら僕も嬉しいし」

「出たよツムツムの必殺技!希望的観測」

 柑太は照れたように笑って眉の上を掻いた。そして「あ痛」とこぼす。

「お巡りさんとやり合うなんて危ないよ」

「うっせ!お前俺のなんなんだよ」

「んー、近いとこだとカノジョなんじゃない」

「うえっ。冗談にしてもやめろ!」

 信号が青に変わって僕と柑太は並んで歩き出す。待ち合わせをしているわけではないけれど、いつも二人で一緒に登校している。小学校の頃から、もう何年になるのだろうか。

「で?心霊スポット探検、どうだったんだよ」

「それなんだけど…よく分かんないや」

 あ?と片眉をしゃくらせる柑太。僕は昨夜の記憶が曖昧になっている事を手短に伝えた。

「…誰か酒とか持ってきてたか?それか、変な匂いのするモンとか飲み食いとか、吸ったりなんかしたか?」

 質問の意図が掴めずポカンと口を開ける。柑太は真剣な表情。

「そんな事はないと思うけど?あ、でも猪俣君は煙草吸ってたかな。カンちゃんの電話がきてすぐに消してたけど」

 そっか、と柑太はホッとした様子で両手を上着のポケットに突っ込んで肩をいからせる。視線は僕の方ではなく明後日の方角を差す。思案しているのだ。彼は僕よりずっと頭が良いから。

「あ!そういえば録画を鳥栖君が持ってるはずだ!自分のカメラでずーっと撮影してたもの。途中一旦別れたんだけど、僕が閉じ込められ…」

「何だって?」

「…なんでもない!とにかく教室に着いたら見せてもらおうよ」

 猪俣に奥の部屋の中に閉じ込められた事。直感だけど、それは話したらいけないと思う。カンちゃんに心配させるわけにはいかないし。

「それよりさ、カンちゃんの方はどんな感じだったの?早く帰れた?」

「まーな。お袋が迎えに来てくれた」

「お父さん忙しかったんだね。なら仕方ないか」 

「ちょっと頭貸してみツムツム」

「こう?」

 背伸びした柑太に首根っこをホールドされた。そのまま歩きながら僕のつむじに拳骨ぐりぐり。

「痛だだだだだ」

「おっ前っは!本当にのんびり野郎だな。俺が警察に厄介になってるところに、ヤクザの親父が保護者ヅラ下げてきたら益々こじれるだろーがっ⁉︎」

「ゴメンゴメンもう許してえ」

 相手の腕をタップしながら、僕は自分の手先を眺めた。

「あ?手がどうかしたのか?」

「どうかした…ような、してないような」

 何だか変な気分。いつもの自分の手じゃないか。

 チリッ。

 頭に映像が浮かんだ。右手の小指。指紋のところがざっくり切れて、血が滴っている…

「あれ?」

 解放されて、じっくり右手を観察する。拳を握ったり開いたり。そこには傷などはじめから無かったように、僕のぷっくり丸い小指がある。

「げっ、校門が閉じかけてる!走るぞっ‼︎」

 柑太の指差した先で、登校する生徒に挨拶をする風紀委員会の人達が鋳鉄の門を三人がかりで引いている。そちらへ向かって駆け出した時、もう指のことなんか忘れてしまっていた。

 二人してざわめく教室に入ると、もうホームルーム寸前だった。見回してみても猪俣達はいない。柑太も怪訝な顔をしていたが、僕達は別れてそれぞれの席についた。

 教科書や筆記用具を机の中に移していると、閉じた戸の向こう、廊下を歩いてくる三人分の話し声がやけにクリアに聞こえてきた。

「学校にそんな物持ってくるな馬鹿。大騒ぎにしたいのか」「ンだって証拠だよ?これがなきゃ誰にも信じてもらえないじゃない」「俺達がに居たって事が問題だっての。それに神崎君にはなんて説明すんだ?あいつを一番気にかけてるんだぜ」

 お決まりの三人の声。渡りに船だ。昨夜の詳細を教えてもらおっと。

 ガラリと戸が開いた。

「おはよう!猪俣君、細ヶ谷君、鳥栖君」

 右手を挙げて、元気に挨拶。

 いつもならここで返事がくるはずだった。

 しかしそこには、氷の彫像のように戸口に固まった三人がいた。

 瞼が千切れそうなほど目を見開いた顔が、みるみる白くなっていく。髪の毛すら震えて逆立ち、鳥肌が顔面を覆う。…そんな人間を見るのは生まれて初めてだった。

 耳をつんざくような金切声。鳥栖だ。最後尾にいた彼は腰を抜かしながら這いつくばるように逃げ去ってしまった。

 次に細ヶ谷。横幅の広い彼は、顔面が蒼白になっても色黒が中和されるくらいだが、のっそりとサイドに移動しそのまま視界から消えた。

 最後に猪俣は───

「…あはっ、どうしたんだろね、二人とも?」

 挙げていた手を中途半端に下ろす僕の愛想笑いに何も返さない。眉間にはアイスピックで刻んだような皺を寄せ、穴が開くほど睨みつけてくる。

 予鈴が鳴った。長閑のどかなキンコンカンコン。タスタスとスリッパを鳴らしてB組担任の田島先生がやって来た。

「何やってんだ猪俣?早く教室に入らんと遅刻にしちゃうぞー」

 田崎先生が戸口に立ち尽くす猪俣の肩を鷹揚おうようにどやしつける。ハッとした彼は僕を貫いていた焦点をほどくと、素早く眼鏡をずり上げて頭を振った。

「…先生、僕早退します」

「あんだってぇ?まだ出席も取ってないぞ?何の冗談だ?」

「家の事情です。急用が入りまして。申し訳ありませんがこれで帰ります」

 まくし立てるように言うと、律儀に頭を下げただけで踵を返してしまった。

 田島先生も、僕も、教室の皆も学年一の優等生の突然の行動に唖然としていた。

 …いや、柑太だけは違った。僕からは見えない教室の後ろの方の席で机に足を組んでいた幼馴染は、三人の様子を感情のない目で眺めていたのだった。

 ホームルームは釈然としない空気を緩和しようと駄洒落を連発した田島先生がダダ滑りしたお陰でグダグダに終わった。一時間目は体育。女子が別の教室に移動する中着替えをしていると、いつの間にか柑太の姿がない。席には着替えた後も残っていない。

「ねえ、カンちゃんどこに行ったか知ってる?」

「トイレじゃないか?それより早く行こ、体育の先生を怒らして連帯責任にされたらイヤだぜ」

 うちの学校の体育教師はしなやかな筋肉を自慢する元体操選手で、集合や礼儀にはことのほか厳しい。生徒がふざけたり私語などしようものなら腕立て数百回かグラウンド数十周という刑罰を平気で課してくる。柑太もそれはよく弁えているはず。

 僕は同級生の返事につられてグラウンドに向かった。やはり見慣れた金髪頭がない。

 その日の体育はサッカーだった。二チームに分かれての試合形式。見かけ通り鈍足で運動が苦手な僕は自分からすすんでゴールキーパーの役に名乗り出る。ぶっちゃけ動き回らずに済むし、ちゃんと参加してる感じになるから気に入ってるんだよね。

 中学生の授業だからキーパーグローブなんかつけない。ゴールポストの中央で踏ん張り、両腕を構えたまま柑太はどこに行ったのかな…とぼんやりするくらい暇なポジション。

 と、いきなり「いったぞ!」という声。瞬きした僕の顔の前いっぱいに、白黒模様のボールが迫っている。あ、これ鼻血コースだな。何回か顔面でボールを受けた経験から瞬時に悟った。

 ぱいん───

 痛快な音を立ててサッカーボールが弾けた。

 ヘロヘロと落下していくゴムと皮革の残骸。

「大丈夫か方?ボールが破裂したのか?」

 目を怪我していないかと心配して駆け寄ってくる体育教師に、僕は曖昧に頷きを返す。でも…

 僕の背中をひとすじの汗が伝った。勿論、身体を動かして暑くなったからなんかじゃない。

 僕は自分の右手を見下ろした。今の一瞬で起こった出来事を反芻はんすうしながら。

 胸の中に言い知れない不安がドス黒く広がっていった。

 

 ここから少し、僕の知らない話を挟もう。

 柑太は体育の授業にははじめから出ないで校内をうろつき回っていた。その理由は───

「こんな所でサボりなんて良いアイデアじゃん」

 言うなりベッドを四角く囲っていたカーテンを引き開ける。保健室のベッドの上で頭から尻の先まですっぽり布団にくるまっていた塊が、びくりと震えた。

「おい鳥栖。いつまでそうやってんだ?ヤキ入れられたいのか?」

「…神崎君?」

 布団の中から鳥栖が顔を出す。その格好は亀そのもので、柑太はプッと吹き出した。

「猪俣と細ヶ谷はマジに帰っちまったらしいな。下駄箱にも靴無かったし。そんでお前はここで引き篭もってっし───」

「助けて神崎君っ」

 鳥栖がいきなり布団を跳ね上げて柑太に飛びつく。が、小柄な相手からひらりと体をかわされた。そのままベッドからずり落ちて、床にキスをする形になる。

「おっと抱きつくなよ気持ち悪い」

ひゅどいよン…」

 柑太はふうと息を吐き、ぞんざいにベッドに腰を下ろす。

「───お前ら昨夜何かやったのか?態度めちゃめちゃおかしいぞ。話せば許してやらんでもない…俺をシカトして報告もしなかった点についてはな」

 鳥栖はかすれた息を喉から吐き出した。唇を何度も舐め、目をキョロキョロさせて保健室の内を確認している。ようやっと発したのは、

「…あ、アイツは一緒にいないよね?」

 だった。

「は?アイツ?誰だよ」

「アイツだよ!方、っていうか、本当はどうなんだかも分からないンだけど…」

「ンだよ?ツムツムが一緒じゃマズい事があんのか?お前らまさかツムツムのことハブってんじゃ」

はそんなんじゃないっ!ヤバいんだよンっ‼︎」

 渾身の叫び。耳がキーンとして、柑太は顔をしかめる。

「あーうるせー…何ビビってんだ?あの人畜無害な巨大ドラえもんがどうしたってんだよ。喧嘩でもしたのか?なら心配すんな、アイツはいつもとおんなじ。天下泰平、のほほんほんだぜ」

 鳥栖はもどかしそうに違うんよ、そうじゃなくてね、と繰り返しながら、ふと思い出したように懐をゴソゴソとやって小さなカメラを取り出した。

「これ、これ見てっ。口で説明するより見た方が早いんよ‼︎」

 何度も取り落としそうになりながらサイドにある録画確認画面を開き、わななく指先で電源を入れる。「一体全体なんだってんだ」と鼻白みながらも柑太は鳥栖の差し出す画面を覗き込んだ。

 

 

 サッカーボールを替えて授業は続行。僕達のチームが勝った。負けた側は罰ゲームでサッカー用品の片付けで残る。

 結局柑太は来なかった。体育教師はサボったのだと決めつけて激怒し、見かけたらただじゃ済まんぞと両拳を打合せていた。

 楽だ得したとはしゃぐチームメイトにまざり、僕はぼんやりと校舎に入った。朝からの晴天がにわかにかげり、空の上では急速に雲海が波打ちはじめていた。

 先程の一瞬、ボールが顔にぶつかる間際。黒い光のようなものが視界をかすめた。

 確かに見た。あれは、爪だった。それも、僕の…

 でも、あれは確かに自分のものだったろうか?色は暗色で醜く太く鉤を巻いていた。

 手が勝手に動いてボールを切り裂く。そんな事とても信じられない。目の錯覚だ。

「おう、グッドタイミング!丁度ええ奴が来てくれたな」

 一年生の教室の前を通り過ぎようとしたら、開け放した扉の向こうから呼び止められた。理科の眞崎先生だ。ヒョロリとした体格に白衣と眼鏡、後ろに束ねた長髪は生徒から「案山子かかし先生」とあだ名されるに相応しい。

 その眞崎は、両肘に紙袋を提げ、脇に長い巻物を挟み、両手でうず高いプリントの山を抱えている。

「眞崎先生、大型同人誌イベントの帰りのオタクのコスプレですか?」

「そうそう新ジャンルに追加されたタコ娘のブース巡ってたらこないな事に…って違わい!ちょっと手伝ってんか。ってかコレ生物準備室に戻してくれん?トイレ行きとうて辛抱たまらんねや」

 眞崎は他の男子にもウルウル眼を向けた。しかし「あっ頭が痛い」「腹がピーですぅ」などと誤魔化しながら素早く散っていく。要領がいいなあ。

「いいですよ。早く先生の膀胱を助けてあげてください」

 素直に頷く僕に、感謝するわ大きに!と全部の荷物をまるっと預け、スリッパをやかましく鳴らしながら廊下を駆けていく。愛嬌がある先生だなあとホッコリしながら僕は校舎の別棟に急いだ。着替える時間を考えると急がなくてはいけない。

 生物準備室を開ける時だけは両手が塞がっていたので苦労した。なんとか全ての荷物を適当な場所に下ろし、さて教室に帰ろうと振り返って生物部の飼っている兎のケージに目が引き寄せられる。

「メルシーちゃん、今日も元気でちゅか〜?」

 ホーランドドロップの雌で、少し困ったような愛くるしい顔と垂れた耳がチャームポイントのメルシーは、僕が近づくと前脚を交差して顎を乗せる微睡のポーズから立ち上がった。その仕種しぐささえも胸キュンもので…ああもう、顔がとろけちゃいそう!

 かくいう僕も生物部。家には小武蔵が既に居るので、他に哺乳類のペットが飼えない欲求不満をメルシーを可愛がる事で発散しているところがある。怯えさせないように静かにゆっくりと歩み寄って、しゃがみ込んだ。

「ん〜やっぱりキュートだなぁメルシーは。昼休みになったらいっぱい餌をやるからね〜」

 あれ、いつもと違って落ち着かないなあ。ソワソワしてる。おまけにいつもならケージを出て僕の足元に来たいのだとアピールしてくるのに、あべこべに反対側に引っ込んでしまった。

「どうしたのメルシー?調子が悪いのかな〜?」

 もしそうだとしたら。次の授業の準備どころではない。眞崎先生に相談して獣医さんに診せてもらうようにしなければ。兎はとってもデリケートな生き物なのだ。

 僕はケージを開けた。少しだけ。様子を見てみてあげるだけだし。抱っこは嫌がるだろうから、近くで観察するだけにしておこう。

 ああ、それにしてもなんて可愛らしいんだろう。フワフワで、モチモチで、丸っこくて。栄養もたっぷり、運動もしっかりだから毛並みもすべすべしていて。噛んだら気持ちよさそうなライトブラウンの耳。

「ん?」

 今、何か妙な事を考えたような…まあいいや。

 メルシーをそっと持ち上げた。僕の腕の中で細かく震えて耳をぴくつかせている。

 うん、体温も異常なさそう。下痢もしていない。それより良い匂いだ。こんなに良い匂いだったっけ?独特の兎の体臭が僕の鼻腔を押し広げ、目の奥まで充満する。美味しそうだ。

「あれ…?」

 真っ白な胴体。柔らかそうな肉。いや、確実に柔らかい。指で引き裂けそうだ。簡単に。その下には肉と、内臓が詰まっている。口の中いっぱいに唾液が溢れてきた。噛めば噛むほど味が染み込んでくるような旨味のあるはらわた

「痛っ‼︎」

 僕は目を見開いた。メルシーが、おとなしくて人懐っこい性格の兎が、キリキリと僕の手の甲に歯を突き立てていた。

 僕は思わず両手を開いていた。メルシーは一目散に逃げて机の下に潜る。

 頭がガンガンする。さっきから、おかしな思考が僕の脳の中で飛び回っている。

「教室に…戻らなきゃ……」

 よろけた拍子に壁にぶつかった。メルシーに噛まれた手の甲。血が溢れて流れている。なんでこんな事に。

 鮮紅色の紐のような血液は掌まで廻り、指先から床に落ちる。僕はゆっくり手首を持ち上げると───傷を舐めた。

 その瞬間、外で雷鳴が轟いた。高いところから水の中に飛び込んだように、僕の意識が薄くなる。

「ツムツムっ!いるかっ⁉︎」

 急に聞こえた柑太の声。振り向くとき、僕のブレザーの上着がミチミチと音を立てて破けた。

 生物準備室の戸口に立つ柑太。軽く息を切らして僕を見上げる金髪の頭が、どんどん顎の角度を上げている───違う。

 。それを見上げているんだ。

 僕を見上げる柑太の顔が、遥か下に見える。挑戦的な瞳が驚愕に見開き、かつまなじりが抑えられないいきどおりで歪んでいる。

「お前…なんなんだ」

 増大した肉量で腹囲が広がり、ベルトのバックルが耐えきれずに弾け飛んだ。僕の腕が勝手に身体からだを掻きむしり、上着もワイシャツも鋭い爪で引き裂かれていく。裸の上体の大胸筋は一瞬で山のように膨らんだ。腕の太さも大人二、三人分の胴体くらいに変わり、指先までびっしりと羊のような縮れ毛が生え揃い、振りかぶった頭にはこめかみの後ろの肉の下からじくれた角が生えてくる。ズボンは膝から下が引き裂け、靴の先端を突き破った爪は恐竜のそれのよう。

 更に背中の肩甲骨から一対の長い突起が伸び、尾骶骨からズボンごと貫いて短い尻尾が現れた。

「───お前が…ツムツムを食ったのか‼︎」

 水の中のようにぼやけた視界の中で、柑太が叫ぶ。

 そして見た。幼馴染の悲痛な、今まで見たことのない表情を。

(僕が?食べられる?何言ってんのカンちゃん。そんな事ないってば)

 僕の声は身体の内側で留まり、代わりに大きく裂けた口から出てきたのは。

 ───ゴアォォォォォン。

 百匹のライオンと千匹のゴリラをかけ合わせたような咆哮だった。

 そして僕の身体は窓に向かってジャンプした。窓枠…どころか壁に大穴を開けて、外の空中へと飛び出す。

 背後で「ツムツム───ッ」という柑太の声が細く長く尾を引いて僕の耳──もはやそれは山羊のような形だ──に絡みついた。

(お、落ちるう!)

 校舎脇に地響きを立てて降りた僕の身体。今はもう怪物の肉体。手足が自重でコンクリートにめり込むが、傷一つない。その周囲にガラガラと建物の残骸が降り注ぐ。

 怪物となった身体は僕自身のコントロールを離れ、勝手にたけった。それに呼応するかのように、曇天の雲海が荒く乱れ、雷鳴が轟く。

 暗天に塗り替えられた空の下、怪物は四つん這いで走り出した。

 校舎の敷地の外へ。より広い道へ。より広い空間へ。横断歩道の白線が、何度も後方に飛んでいく。太い国道にぶち当たるとその本能的な移動はより勢いづいた。走行中の車をものともせずに流れに飛び込み、さらに加速していく。

(やめて!止まって!僕の身体なのになんで勝手に動くの‼︎)

 僕は重苦しくてまどろっこしい意識の底から叫ぶ。それに応えるように口が動いた。

「やかましい」

 太い、ひび割れた銅鑼どらのような響きだった。まさに獣というに似つかわしい、異形のみが放つ低音。

 怪物は法定速度を守って走る車の横をすり抜け、先へ先へと駆ける。一体今どれほどの速度が出ているのだろう?

 横の車線からけたたましいシャッター音の連続。怪物の横目がギロリとそちらを向く。

 鋲打スタッズだらけの野球帽を被り、金属アクセサリーをジャラジャラつけたラッパースタイルの男がハンドルを握る横から、スパンコール生地のスウェットを引っ掛けたほとんど水着のような格好の女が身を乗り出してスマフォを構えている。

「すっごいですねー!それどこに乗ってるんですかー?」

 止まらないフラッシュとシャッター音。どうやら特殊な車輌と勘違いしているらしい。四つ足で走行する機構の車なんか道交法で許されるのだろうか?…馬はいいらしいけど。

「目線を下さーい!」

 叫ばれて、怪物はそちらを向く。

 と、信じられない事にニッと笑った。

(意外に愛想がいいんだなあ)

 などと思っていると、急にスピードを上げて前方のトラックに追いつき、その屋根に飛び乗りざま踏みつけ、運転席の鼻先に躍り出る。大口を開けて仰天したトラック運転手のおじさんが思わずクラクションを鳴らす。

「爽快だ!爽快だ!爽快だ‼︎なんという自由、これが外の世界というものか‼︎」

 愉悦に浸り、悶え喜んで走る怪物は上機嫌だが、先の方の立体交差点に軽い渋滞が生まれていた。僕は恐る恐る、意を決して、本当に漏らしてしまいそうになりながら(意識だけなのにおかしな感覚だけど)も声をかけてみる事にした。

(あの…ちょっといいかな) 

「なんだ!おれはやかましいと言ったぞ!」

(それはそう…かもしれないけど…注意したほうがいいかなって。その先に車が詰まって渋滞してるからさ…その…避けないと)

「ふん?」

 怪物の目が車列をちゃんととらえた。規模は大体三十メートルくらいの、信号の切替待ちの車列。

「この牽引無しに動く輿こしで道が塞がれている事を、ジュータイと呼ぶのだな」

(そうそう。輿…クルマの事か。理解が早いね)

「見ていれば分かる。簡単なものだ。ふむ、クルマというのかこの乗物は」

 猛スピードで進む怪物。渋滞の最後尾はどんどん近づいてくる。そろそろ勢いを落とさないと、まずいんだけど。

手応てごたえはいかなるものかな」

 楽しげにつぶやくと、怪物は右腕を大きく後ろに引いた。力を溜めた筋肉がビキビキ音を立てながら倍以上に大きく硬くなっていく。

(まさか、ちょっと?何をするつもり…)

 怪物の右腕が、低いところから道ごと抉るように拳を突き上げた。

 最後尾の車が紙の箱のように空に舞い上がる。次の車も、その次の車も順を追うように怪物によって撥ね飛ばされた。

「グバッバババババ!もろい!軽い!愉快なり‼︎」

 笑う。わらう。あざける。

 怪物は四つん這いで進みながら、腕で、脚で、尻尾で邪魔っけな車を押し退け、蹴りよけ、吹き飛ばしていく。恐るべき怪物の筋肉と質量にかかれば、軽乗用車も4WDもワゴンも華奢なハリボテのようだ。

 その様子は幼児おさなごが床に広げたオモチャを蹴散らして喜ぶ姿そのもの。

 僕は怪物の目玉の奥から見た。悲鳴を上げる運転席の人間を乗せたまま、車がすっ飛んでいく状況を。

 僕の心の中の何か重いものが、プツンと切れた。

(な───なんて事するんだバカぁぁ‼︎)

 自分を取り込んでしまった得体の知れない怪物。それに対して抱いていた恐怖も気遅れも、真っ白にたぎった怒りに燃え尽くされる。僕は意識だけで相手の意識にぶつかっていった。

「うお───っ⁉︎」

 怪物は顔をしかめてよろめく。高架になっていた広いコースを突っ切るように外れ、勢いのまま空中へ飛び出す。ゆったりと空中を泳ぐようにもがきながら落ちた先は、すぐそばにあった建設途中の機械式立体駐車場タワーパーキングの屋上。

 ドッシン、ゴロゴロザザザ───…

 出来上がったばかりのコンクリに削り痕をつけながら、怪物は屋上の端で止まった。

「貴様…よくも邪魔を」

(なんて事するんだ!なんて事を!酷すぎる!)

 喉をグルグル鳴らしながら怪物は身を起こす。

「己が何をしようが自由であろう」

(自由だって⁉︎違う!そんなのは違うよ!他の人にいっぱい迷惑をかけて、可哀想な目に遭わせて、それで自由なんて乱暴だ!ただの、暴走だ‼︎)

「…貴様の理屈はよく分からん」

 地面に打った首を左右に倒しながら怪物はのっしのっしと屋上のヘリに向かう。

「貴様の仲間どもがどうなろうと、この己には関係ない。そも、責める事自体が理不尽だ」

(人間は、人間をっ…なんとも思わないの⁉︎車に乗ってた人達が怪我をしてるか、もしかしたら死んじゃってたりするかもなんだよ⁉︎)

「人間とは傷を負わねば死なん生き物なのか」

(そ、それは違うけど…病気とかあるけど…)

「人間は生きる間に他を害さぬのか。喰らわんのか。微塵たりとも傷付けず生きているのか」

(それは…小さな生き物とか虫とか殺すし…食べるために牛や豚とか殺すけど…)

「では何が違う?この己にとって貴様らは存在だ。貴様らがそうであるように、己も他を殺し、喰らう。邪魔なれば排除もしよう。それを己にだけ、己がする事にだけ難癖をつけようというのか?」

(それは…)

 僕は昨日の事を思い出した。夕食は確か親子丼と、明太子だった。あれも命。季節遅れの蚊が出て、僕が代表して叩き殺した。あれも命。

「そらそらどうした?理屈に合わんではないか?おかしいなあ。其方そちらの判断基準ばかりを押しつけて此方こちらを糾弾しようというのか?それが貴様の考えか?」

 怪物の楽しげな声がしゃくさわる。確かに言われてみればその通りで、人間同士の間であれば通じる不文律も、それ以外の生き物からしてみれば理解不能な得手勝手えてかってに過ぎないのだろう。

「己はただ楽しみたいのだ。やっと陽界そとに解放された。くも爽快な自由。無辺の広大さ。今はそれをこの身の限り楽しみたいだけだ」

 怪物は屋上の縁に足を掛け、眼をすがめて見渡した。相手の感じている高揚がジワジワと僕に浸透してくる。

(…そのために僕の身体に入り込んだの?)

「む?なんだと?」

(だから…自由になるために僕に取り憑いて、身体に入り込んで乗っ取ったのかって訊いてるの)

 乗っ取る、取り憑く。その二つの言葉を口の中で噛むように呟く怪物は。

 やがて笑い出した。ゴボゴボ、ぐつぐつ───煮立っている大鍋みたいな音で。

「大仰な口を叩くでないわ。それは全くの反対であろうが」

(───え?)

「己が入り込んだのではない。

 もし喋るための口があれば、咽喉があれば。間違いなく僕は息がつまり見苦しく喘いでいただろう。

 僕の存在は現在、怪物の頭の中でただ響くだけの「声」───つい先程まではちゃんと五体を持った人間の形をしていた自分。それが、そもそも自分のものではないなんて…?

 熊のような鼻面を持ち上げて、はるかな海風を胸一杯に吸い込みながら怪物は伸びをする。

「この身体も魂魄も己の物だ。昨夜己は封印が解けると同時に外に出て貴様を喰った。だがなぜか貴様は吸収されず、あべこべに己の身体に寄生してしまった…」

 ゾッとする内容。僕は無いはずの腕で頭を抱えた。間違いない。この、太くて低くて地の底から湧いて響くような声は、。この怪物は暴虐だが、嘘を吐くような不純さは微塵も持ち合わせていない。それだけはよく分かる…

「全くせんな。これまで斯様な事はなかったぞ。僅かなときといえども、食した獲物が反対に己の身体を奪うなど」

 そうだ。ぼんやりと記憶が浮かんできた。僕はあの夜、あの時、皆に発見したばかりの古代鏡を見せつけようとしていて───

 

「ねぇコレ見て!これ古墳とかで発掘される銅の鏡じゃない⁉︎歴史の授業でやったよね⁉︎」

 僕は猪俣、細ヶ谷、鳥栖の三人に両手に持った鏡の表の面、彫刻されている側を見せつけた。得意満面で。

 柑太もきっと喜んでくれる。ベタ褒めしてくれるかも。心霊動画とは違ったけれど、こんな思わぬお宝を見つけたんだから。

 不意に眩しいな、と感じた。

 鏡面に視線を落とすと、そこには仄かな燐光がじわりと湧いている。不思議な光りかた…

 もっとよく確認しようと顔を近づけた。そして───

 黒い閃光が斜めによぎった。世界がスローモーションでくるくる回転。

 ああ、違った。これは、だけが勝手に回っているのだ。そう思うのも一瞬だった。

 鏡を両手に支えたままの僕の肉体。その首から噴水のように───掛け値無しにあかい噴水そのものの勢いで───血潮が噴き上がる。首だけになった僕は不思議と冷静にそれを眺める。

 そして、鏡面からが姿を表した。はじめは爪と手首。続いて腕。風船が一気に萎む映像を逆再生したかのように、小さな古代鏡がムクムクと巨大な怪物をひり出していく。

 僕の首が地面に着地。恐怖に凝固している三人と、首を失って膝をつく僕の肉体。それと、と大きく溜息を漏らす怪物が視界に入っている。

 はじめに叫んだのは鳥栖だった。そしてそのまま腰を抜かす。猪俣と細ヶ谷は我に返り、細ヶ谷は気丈にも鳥栖を肩に担ぎ上げ逃げ出した。

 猪俣はコンマ数秒佇んでいた。もしかしたら脳だけが高速に回転して、予想外の状況と不可解な相手を分析していたのかもしれない。が、彼もまた全速力で駆け去った。

 後に残された怪物は、天井を擦るほど高い頭でゆっくり自分の周囲を睥睨へいげいする。そして足元にある僕の身体をまじまじ眺めた。

 首を失った僕の体は赤黒い沼と化した自分の血液の中に、丁度正座している姿勢になっていた。怪物はその前にどっかと座り込むと…器用に衣服をひん剥き、美味そうに音を立てながら喰らい始めた。

 瞬く間に胸が牙で切り裂かれ、心臓やその他の内臓が神経や血管の糸が巻き付いたまま噛み砕かれていく。柔らかな腸をのようにと啜り込む。肋骨と背骨、それに骨盤といった外殻を残して綺麗に胴体を空にしてしまうと、今度は手足の肉にかぶりつく。原始人が獣の手脚を齧るのと同じ構図。

 四肢の肉がこそげて骨だけになるまでむしゃぶりつくすと、おもむろに僕の首を持ち上げた。ここまで数分もかかっていない。手際がいいなあ、なんてぼんやり感じていた。死を目前にして痛みも恐ろしさも感じなかった。

 怪物とが合った。僕の意識がある事を知ったのか、それともこのご馳走に満足したのか───熊か獅子…大型の猫科動物のような顔面が大袈裟に笑った。上下にばっくり開いた黒い生臭い口の中へと、僕は真っ逆さまに飲み込まれていった…

 

「それにしてもここは見晴らしが良いな!世界のどこまでも見えるようではないか」

 怪物のウキウキした言葉で僕は自分の意識を取り戻した。

 そうか。僕はあの時こいつに殺されて、肉体を喰われたんだ。でも、その後なぜか僕の方の意識がこいつをこの身体を支配して、家に帰った…

(…だから小武蔵も、メルシーも僕を怖がっていたんだ)

 全てが付合した。普段なら懐いてくるはずの動物達が、どうして今日に限って怯えていたのか。どうして昨日一緒に廃倉庫を探検した友達からそっけなくされたのか。どうしてボールが面前で弾けたのか。どうして、切ったはずの指の傷が跡形も無くなっていたのか…。

(理由は全部…怪物になっていたから…)

齟齬そごなく表すなら貴様が魂魄だけとなって尚、己の身体にしがみついているからだな」

 怪物がさかしらに言うのが憎たらしい。何もかも、こいつのせいじゃないか!

「ふむ、離れた島同士を橋で繋いでいるのか。ここは外海そとうみではなく湾なのだな。なんとも樹々も草も少ない。これだけ発展した道ややぐらを造っておるのに、貴様らはこういった岩土いわつちばかりを好むのか?」

 怪物は手近にあったコンクリート煉瓦をポイポイと片手でジャグリング。その視力はいくらあるのだろう、こんなに距離があるのにレインボーブリッジもお台場も、千葉県側の岸辺まで焦点が届いている。

「───道の方が騒がしくなったな。なんだあの、甲高い法螺貝や鳥の啼き声のようなは」

 聴力のほうも良いらしい。山羊のような靴べら型の耳を動かし、自分が走り抜けた惨劇の後片付けに駆けつけた消防車と救急車、それにパトカーのサイレンを聴き分けているようだ。

(パトカー…そうだ!お前なんか、警察にやられちゃうぞ!もうおとなしく観念しろ!)

「観念?この己が、薄い板で出来たクルマ程度しか持たぬ貴様らの仲間に敗けるとでも?」

 救助の様子を面白がりながら眺める怪物。ひっくり返ったりひしゃげた車の何台かがエンジン部分から黒煙を上げている雑然とした現場を眺めやり、低く深く笑う。

「ケーサツとは、あそこでみみっちく動いている者達か…あれがこの世界の番人か?貧弱な手脚をしておるなあ。それで?斯様に弱そうな貴様の仲間が、この己に何ができる?」

(お、お前がいくら強くったって、銃とか撃ってきたらひとたまりもないんだからな!)

「ほう…ジュウとな。面白そうだ。『撃つ』という事は弓矢の類か?」

 怪物は仁王立ちで腕をこまぬき、何やらニヤニヤしている。僕は不安になった。この巨大な野獣の色々な部分を寄せ集めたような生き物に、果たして銃が効くのだろうか。集まってきた警察官がただ怪我をしたり、死者が出るとしたら…

 怪物は完全に楽しんでいる。警察官が猛獣用のライフルを持ち出しても、きっと力比べ気分で戦いを始めてしまうだろう。どの程度の武器が有効なのか、現段階では想像もつかない。

 幸い緊急車両はどれも被害を受けた車と被災者の救助に忙しく、立体駐車場の屋上にポーズをとっている怪物には見向きもしない。いやもっとも、彼らが気づいたら捨て置いてはおかないだろう。放っておかれるほうがいいのか、それとも早く始末されるほうがいいのか…

 そこまで考えて僕はハッとした。

 この怪物が死ぬ。命を絶たれる。そうしたら、僕はどうなるのだろう…?

「己の身体に寄生した時点で貴様の命脈は尽きている。脳味噌も内臓もししむらも、全てこの胃袋で溶かしてしまったからな…そうさな」

 思案げな太い鉤爪で、怪物は顎を掻く。

「そのうちクソでもひれば、ついでに貴様の魂魄も押し出されて雲散霧消するかもしれぬな」

 グッバッバ、と大笑。

 僕はなんとか打開策を考えようとした。ダメだ。どう転んでも悪い方にしか思案できない。僕の身体に悪い奴が入ったのならともかく、その逆なのだ。僕の方がこいつの、この怪物の身体に間借りしているのだ。それもいつまで続くのかも分からない。肉体が完全に消化されたらそれまでなのかも。

 なんで?どうして?よりによって僕が、こんな酷い目にわなければならないの?

 僕が何か人道にもとる悪行あくぎょうをしたっていうのなら納得もできる。だけど、生まれてからこれまで悪い行為だと自覚できるような事はしていない!…少なくともその自覚は、ない。親への反抗だって、教師への反発だって、友達への嘘とか意地悪だってした事がないのに。

「おい貴様。教えろ、あれは何だ」

 怪物が見上げた上空に、報道関連のものだろう、数台のドローンが飛翔していた。チカチカと発光しながらさらに数を増やしていくそれは、事故現場という巨大な死骸に群れなしてたかってくる蝿のようだ。

 そう感じたのは怪物も僕と同じだった。いや、筋力だけでなく感覚も鋭敏なのだ。プロペラの立てる響き、それにモーター音が大耳に刺さるらしく大袈裟に渋面を作り唸りを上げる。

「この世界の虫は金属製なのか。ワンワンとうるさいぞ。おまけに妙な雷気らいきの波まで出しよる」

(あれはドローンだよ…感じてるのはきっと電磁波だね)

 この怪物、理解力というか順応力がずば抜けて高いんじゃないか?僕の心に希望の火が灯る。もしこちらの世界の理屈やルールを理解してくれるなら、少なくともこれ以上の災害を引き起こしたりはしなくなるかも。

 しかしかすかな光明はすぐ打ち砕かれた。

「滅する」

 怪物の両側頭部、耳の上から生えた羊そっくりの波状の凸凹の刻まれたふたつの角。その先端に怪物は意識を集中する。すると全身のエネルギーがじんわりとに引き寄せられ、淡く光り始めた。

 やがて白熱した角はパチパチと火花を散らし、怪物の周りだけ明るくなっていく。

(───何をするつもりなの⁉︎)

 黒々とした暗雲が渦巻く下で、角から太い樹状の電撃が放出された。怪物はそのまま首を一回転。青白い光の束を広範囲に渡って鞭のようにしならせ、立体駐車場の上から目も眩む円の軌道を描く。

 一拍遅れて、十数体は飛んでいたドローンがあっけなく爆散。

「見たか我が雷槌らいていの威力を」

 ガッバッバ、と胸を反らして笑う化物の中から、僕は呆然とその光景を眺めていた。

 …ダメだ。こいつは、とは話し合いなんかできない。は通じるけどが通じない相手だ。

 ドローンの残骸の灰と部品が哀れっぽく風に乗ってこちらにも降り注ぐ。ヴェクシ!とくしゃみをこぼし、怪物はぼやいた。

「しかしこの技にも欠点があるのだ」

(な、何⁉︎これだけ迷惑かけてまだ何かあるの‼︎)

 怪物はシュンと眉を下げてふさふさとした毛の密集する腹部を撫ぜる。

「腹が減るのだ。物凄く」

(アホなの⁉︎やらなきゃいいじゃない‼︎)

「むっ。貴様に阿呆と言われる覚えはない」

 この馬鹿げた破壊の衝撃に、道路にいた人達も現象の中心に立つ怪物に気が付いたらしい。こちらを指差し、何事か叫んでいる。

 それを見やる怪物の金色のまなこ。そこに食欲の鈍い輝きが浮かぶ。

 ああ、どうしよう。こいつを止めないと。どうにかしないと、あの人達まで僕みたいに食べられてしまう。そんなの、ダメだ。だけど本当にどうしたらいいの───

(神様、助けて‼︎)

 僕は冗談抜きで、本気で心底願った。情けないけれど、もうそれしか手段がなかった。こんな時に助けに来てくれる、この怪物をやっつけられる人なんてどう考えてもいやしない…

「ゴラァ見つけたぞ化物ぉっ‼︎」

 聴き覚えた声。忘れられない口調。

 僕は───振り向いた怪物の中から───を見た。

 撫でつけた頭半分のオールバックを乱し、肩を激しく上下させながら歩いてくるブレザーの制服。顎からぼたぼた汗を垂らし、それをグイと手の甲で拭う不敵な表情。その右手には大きなサバイバルナイフが握られている…

(カンちゃん‼︎)

「ツムツム、かたき、俺がとってやるからな」

 僕の声など届いていない。当たり前だ。この怪物の身体はもう僕の意識ではコントロールできないのだから。

 それでも…会話が成立しなくても。僕は嬉しくて泣きたくなった。ううん、意識だけだけど、僕は涙を流していた。

「おう化物。よくもツムツムを食い殺してくれたなぁ。あぁ⁉︎」

 ナイフの切っ先を向けられ、怪物はゆっくり体を翻す。

「これはこれは。美味そうな孺子こぞうではないか。自ら己の腹の足しになりに来たか」

 柑太はナイフを構えたまま、少しサイドに移動した。闇雲やみくもに突っかかるのではなく、怪物の全身をくまなく観察しているのだ。

 大人と子供どころか、熊と兎ぐらいの体格差をものともしない。動じず、焦らず、勝機を見定めるために集中しているのが分かる。

(カンちゃん…やっぱりカンちゃんは凄いよ…)

 僕の親友。僕のヒーロー。無二の幼馴染。大切な存在。

 でも今は感動している場合じゃない。

「その木端こっぱで己をほふるつもりか?」

 怪物は喉を鳴らす。嘲笑が屋上のコンクリートを舐めるように広がっていく。

此奴こやつは貴様の知己か。共に己の腹に収まる、と。殊勝だな」

(うるさい!カンちゃんはな、お前なんかよりずっと頭がいいし運動神経がいいんだ!それにこの世で一番勇敢なんだからな!)

「ほう?すると…此奴が貴様のほざいていたこの世の番人、ケーサツとかいうものなのか?それにしては眼下したで騒いでいる貴様の仲間達よりも小さく幼いではないか」

「何をブツクサ言ってやがる。図体はともかくアタマはイカれてんのか」

「カンチャン───というらしいな、貴様」

 厳しく固まっていた柑太の表情にヒビが入った。

「…なんで化物が俺をそのあだ名で呼ぶんだよ」

 怪物は柑太に向けて笑顔で自分の頭を指差す。

「己にもよくわからんのだが、己が喰らった者がな。未だに己のなかで騒がしいのよ。貴様に会えて嬉しいらしいぞ」

 構えたナイフがびくりと震える。柑太の顔から死を覚悟した上で特攻に臨んでいる戦士の仮面がずり落ちた。そこにあるのは僕の見知った普段の顔───

「ツムツム…お前…まだに居るのか…?」

 歓喜に重なる悲嘆を露わにした柑太に、僕は引き裂かれそうな気持ちになった。もう僕は、怪物にしがみついてるだけの哀れな存在なのに。そんな風に切ない顔をされたら、たまらない。

「よしよし。仲良き者同士、一息に頭からかじってやる。運が良ければ痛みも感じぬだろうて」

 怪物は余裕綽々しゃくしゃくに前進する。ずしん、ずしん。コンクリートをひと踏みするごとに怪物の足元から亀裂が走る。地震のように屋上が揺れ、柑太の小さな体も僅かに浮く。そして。

 怪物は柑太の前に立った。

 ゆっくりと毛むくじゃらの腕が伸びる。柑太の胴体より太いそれが、鉤爪を制服にかするかかすらないかの瞬間。

「───ッだらぁぁぁぁ‼︎」

 鋭く気合を放ち、柑太は跳んだ。怪物の腕を踏みつけて軽やかに躍り上がり、ナイフを両手で掴んで振りかぶる。

 そして思い切り怪物の首筋に振り下ろした。

「アグォォォォォン‼︎」

 大音声。怪物はよろける。柑太は腕の力を緩めず、力の限り刃を突き立てる。

「この…孺子がぁぁぁッ」

 怪物は右手の指を手刀の形に揃え、残忍な一撃を放つ。手刀は柑太の胴体を刺し貫いて…

 しかし、そうはならなかった。

 怪物の右手は柑太の胸元、その寸前で止まる。鉤爪をビリビリと激しく痙攣させた後にフッと力を抜き、反対に自分の首に刺さったナイフの柄を握る柑太に手を添えた。

 柑太が目を見開く。そこに映ったのは。

「…ツムツム?」

 僕だった。

 正確には、怪物の鼻面のちょうど半分を占拠した、片方だけの僕の顔。

「このまま刺して!首筋を切るんだよ!多分それで殺せるから!」

 頭の中で暴れ回る怪物の意識にも構わず、僕は怪物から奪い取った右腕の主導権にさらに意識を集中させる。ズブズブと鋼鉄の先端が喉笛に侵入しはいってくる感覚。痛覚も少し復活しているのだが、死に物狂いで他のことは何も考えられない。

 僕の顔の反対側で怪物も吠える。

「ぐおぉっ貴様!おのれ貴様ぁぁ‼︎」

「カンちゃん!ちからゆるめないで!」

 僕の叫びに柑太の眉がハの字になる。引き結んだ口の端からスルリと血潮が伝う。唇を噛み破ってしまっているんだ。

「ツムツム…俺殺すなんて…」

 僕は我知らず微笑んでいた。

 満足だ。そう、殺すより殺される方がずっと良い。それに相手が柑太なら、僕は自分のこの行動も運命も受けれられる。

「カンちゃん…ありがとう…」

 僕は乗っ取れた右腕に一層力を込めた。もうほとんどナイフの半分が首の肉に埋まっている。あと少しだ。この怪物自身の力で、横一文字に掻っ切ってしまえ。いくら縦横無尽の筋力と不思議な能力ちからで雷を操るような存在でも、首を落とされたら生きていられないだろう。

「止せ!貴様気が狂っているのか⁉︎そんな事をしてみろ、貴様も死ぬぞ!よいのか⁉︎」

 僕の頬にさらに深い笑みが浮かんだ。自棄やけっぱちだ。強がりだよ。

 でも、とっても清々すがすがしい気持ちだ…

「いいよ。他の人に迷惑をかけて、傷つけたり殺したりしてしまうより、よっぽど良いよ」

「───愚かな‼︎やめろ!やめろやめろやめろやめろぉぉぉ」

「早くやってカンちゃん。僕を───助けて」

 大好きだよ。ありがとう。僕の親友。

 片方だけの僕の目から一滴だけの涙。頬を伝い、滑り落ちる。

 同時に柑太が両手をナイフの柄から離した。

「できるわけ…ねーだろ」

 柑太の両目にも溢れんばかりの涙が盛り上がっていた。

「カンちゃん…?」

「化物ならともかく…ツムツムをるなんて…そんなのできるかよ、馬鹿野郎…………」

 手負い、生死の瀬戸際に立たされた怪物。柑太の迷いによって生まれたすきを見逃すわけがなかった。

 顔面の半分を奪われた怪物は爆発的な吐息を噴出させ、体を回旋。左腕をほとんど脱臼させるほど素早く一閃した。

 柑太が投げられる。さしもの怪物も振り払うのがやっとだったらしく、うまく力が乗せられていない。ゆっくりと放物線を描いて大きな人形のように落ちていく柑太の姿は特撮のようで、体重を感じさせなかった。

 しかし楕円の軌道のその先は屋上のきわ。というか、もう建物の外、足場の無い空中…

「ダメだ‼︎」

 僕の心の中の何かが急に熱く弾けた。点火したジェットエンジンのように、僕は怪物の意識の中で一気に前に出る。がむしゃらな叫びを上げながら、泥沼となって僕を沈ませようとする怪物の意識に対抗し、抵抗し、前進する。

 頭側一方だけしか出入り口のない狭苦しい寝袋に詰められた二人が、闇の中で自分が先に出ようと相争う。そんな状況だ。

 怪物の意識の爪が、牙が、僕を切りつける。僕も負けじと殴り返し、蹴ったくる。負けてなんかいられない。負けるわけに、いかない‼︎

 生まれて初めての感情だった。これまでこんなに他人を憎み、腹を立てた事もなかった。

 けど、今は。今だけは。

 怪物の表面で、人間のパーツと怪物のパーツがボコボコと浮き沈みを繰り返す。

 全ては数秒間の出来事。柑太が制服をはためかせながら、屋上の縁の向こうへ吸い込まれるように…

 僕と怪物が、同時に最大の力を出した。

「己の身体の主導権を───

      主導権を、僕に寄越せ‼︎」

 僕の意識は柑太の上着が見えなくなる寸前に膨れ上がり、闇の中で化物の顔面に強烈な頭突きを見舞ってやった。千体もの野獣が斃されるような呻きを上げ、相手がへと退しりぞく。そこにすかさず尻を向け、強く押し込むように自分の意識でをした。全ては本能的に、咄嗟の感覚で起こした行動だった。

「カンちゃん‼︎」

 僕は身体も顔も所々が化物のまま、屋上の端へと四つん這いで走る。恐れず躊躇ためらわず飛び降りて、むしろ靴から爪を突き出した足で建物の側面をキックした。グンと加速し、重力に引かれ真っ逆さまに落ちていく柑太に追いつきその腕をとらまえる。

 気を失ったのか目を閉じている柑太を、包み込むように抱きしめる。下方には青い波間。そうか、建物の裏側はすぐに海だったのか…

 水面に激突する前、つい僕は目を閉じた。忘れていたけれど、僕は小さい頃から金槌で、プールも海も大嫌いだったんだ。

 爆弾の炸裂音にも似た衝撃が、あたりに響く。巨大な槍のような水柱が立体駐車場の裏手に逆立ち、高々と空に伸びる。

 海水がシャワーとなって一面に降り注いだ後は、静かな細波さざなみが広がるだけだった。

 

 なんだか顔と胸だけ温かくて、体のその他の部分がやけに冷えているな。時々パチパチと頬にぶつかってくる感触もうざったい。眠くてたまらないのだから、このまま放っておいてもらいたい。

 そう思っていたら、頭蓋の頂点にゴス!と痛々しい衝撃が襲ってきた。

「ふわぁっ?」

 ジンジンするつむじ辺りに手をやって、僕は身を起こす。すかさず咳き込むように咽喉から胃に溜まっていた海水を吐き出した。

 鼻水と吐いた水とでぐしゃぐしゃになった顔を手の甲で拭った。寒いと思ったら案の定、ほとんど裸に近い状態だ。腰に制服のズボンと下着の残骸が巻き付いている他は、素肌を冬空の下に露出してしまっている。

 周りは見慣れた風景。天空橋に近い海浜公園。かつてオリンピックのトライアスロン用に運び込まれた砂で造成された人工の砂浜だ。

 ピチョン。前髪から鼻に滴が落ちる。ぼやけた視線を回していくと、右横に両膝をつく柑太がいた。

 柑太は僕と同じく濡れ鼠で(制服は上着を僕のお腹に掛けてくれていた)、上半身を起こした僕を半ば呆然と眺めている。染めた金髪はセットが崩れて、唇がド紫色になっている。

「あっ、カンちゃんだ。おはよう。どしたの?唇青いよ?あとここ海浜公園だよねでッ」

 柑太の渾身こんしんのグーパンを、頬っぺたにモロに食らった。

「うひゃわ、にゃに、にゃんで突然殴ったりなんかするひょ」

「うるせえ!」

 涙目になりながらも僕は「ハイっ」と背筋を伸ばす。柑太が冗談でなく本気で怒っている時は、僕が間違っているときだけ。条件反射がすっかり身に染み付いてしまっている。

 柑太がもう一度拳を構える。僕もギュッと目を瞑った。しばらくの静寂。どうしたのかと薄目を開けると、柑太が自分の頬を自分で殴っていた。

「な、何やってんのカンちゃん?どうして自分で」

「黙れ!」

「ひゃ、ぴゃいっ」

 定規じょうぎを呑んだようにしゃっちょこばる僕。

 柑太はうつむいて、深く息をつく。深海から上がってきた鯨のように、長くて重い溜息だった。

 それから顔を上げる。それはいつもの不敵な顔。懐かしい、僕の昔から知っている親友の顔。ただ一つ、今しがた自分の拳を打ちつけた頬の腫れ以外は。

「ツムツム。なんともないか?痛く、ないか?苦しくないか?」

 僕は笑って返そうとした。けれど柑太の研ぎ澄ましたような真剣さに、ゴクリと唾を飲んで真面目に答える。

「えーと、寒いかな。あと…お腹すいたかも?」

 プッと柑太は吹き出した。そのまま天を仰ぎ、けたたましく笑う。

「そっかそっか!そりゃいいや。俺も気絶してるお前を抱えて泳いで、浜に引き上げたら人工呼吸…もうヘロヘロだぜ。んじゃあ、とりあえず着替えてそれから…お前んで飯でも食わせてくれよ」

 立ち上がって改めて自分の様相を確認すると、じわじわと恥ずかしさが湧いてきて、僕は空気の冷たさにも関わらず火照ってしまう。

「なんかお前、エロい感じになっちまったな。うわ、乳首まで真っ赤じゃん」

「や、ば、バカっ!言わないでよそんな事!」

「俺の上着…は、まあ小さいけど無いよりマシだろ。肩に羽織っておけよ」

 言われなくともそうした。歩き出しながら振り返ると、対岸の立体駐車場の方に飛んでいるドローンやヘリコプターがトンボのように見えた。あれほど曇りよどんでいた暗雲が消え去り、空はターコイズ・ブルーにひたって冬の午睡ごすいを楽しんでいる。

「そんで、覚えてるか?何があったのかをよ」

 柑太の言葉に僕は頷く。頭に血が上ってきたおかげで、怪物の暴れっぷりも、その後の事もクリアに思い出せる。今朝のような記憶の欠落はない。

「あの怪物は、僕の中にいるよ。…っていうか、僕の意識があの怪物の意識を漬物石みたいに押さえつけてるっていう感じだけど」

と話せるか?」

 柑太の意図は汲み取れなかったけど、僕は心の中で呼びかけてみた。

“…なんだ”

 意外にも怪物は素直に応答。僕はそれを柑太に伝えた。

「じゃあ聞いてみてくれ。お前はどこから来たのか。目的とか狙いは何なのか」

 その問いに、怪物はせせら笑いで答えた。

“愚かの極み。貴様らは生まれ出でた時に理由など一々いちいち考えていたのか”

 ちょっとムカつくな。何様のつもりなんだろう。

“己が元いた世界ならば陰界いんかいと向こうでは呼んでいたな”

「じゃあ───お前はあのに封印されてたってわけじゃないのか?アレは一体何なんだ?どうしてツムツムと同化するみたいな事態を引き起こした?ツムツムとお前を分離する方法は?向こうの世界…陰界とかにはどうやって戻るんだ?」

 矢継やつばやの柑太の質問。僕の頭の処理能力がついていかなくて、しどろもどろになりながら怪物に伝える。

“鏡とはの事だな。己を解放するきっかけを作ったのは、このツムツムとかいう頭と心の弱い者の血液に相違なかろう。分離が叶うのならば此方も望むところ。陰界には戻りたくもない”

「するってぇと…ひとまずは化物を暴れさせない事が第一目標、だな」

 柑太は金髪を撫で付けて嘆息する。

「それにしても化物、お前って名前とかあるか?ツムツムに向かって『化物』って言ってるみてえで気分悪りぃんだけどよ」

「あはは、僕は構わないよ。それにさ、だいたいこんな得体の知れない別の世界?からの生き物に、こっちの世界での名前なんかあるわけが」

“───饕餮とうてつだ”

「はゃ?」

“間抜けな反応は止めろ。かつて、己をそう呼ばしめた者がいた。それが己の名といえるものだ”

 頭の中には音の響きと共に漢字が浮かぶ。字の方を柑太に伝えるのにはものすごく手間取った。

「へえ、『饕餮』か…いっぱしにカッコいい感じじゃん」

「それって誰がつけた名前なの?友達?それともお母さんとか?お父さん?」

 頭の中で怪物…饕餮がうるさいぞ!と牙を剥いた。

「ボチボチやってくしかねぇか。他の連中にも説明しなきゃなんねえし…鳥栖の奴なんかすっかりビビっちまってるからな。あの倉庫の事もその鏡の事も洗いざらい調べてみねえと…」

 倉庫。倉庫といえば。

「カンちゃん大変だ!あの倉庫でね発見された死体っていうのはね、実は僕なんだよ!僕の体なの!警察に行って、ホントは事件じゃありませんって言って、道路で暴走したのは饕餮ですよって事も教えてあげて、ああ、あと学校の生物実験室の壁が壊れたのも弁償しなきゃいけないの⁉︎っていうか授業もサボっちゃったよぉ!僕せっかく皆勤賞だったのにぃ!制服だってこんなズタボロにしちゃって、特注品だからすぐには新しいの来ないし、あーでもそれはスペアもワンセットあるにはあるんだけど…」

「落ち着けこの小心者」

 柑太のジャンピングチョップ。ギャフンと僕はぶちのめされた。

「いいか?これから警察とか教師とか親とか、色んな大人がお前にてんこ盛りの質問をぶつけてくる。そんな時に困らねえよう、とっておきの呪文を教えてやる。これを信じて唱えてりゃ一切合切の問題はチャラにできるんだ」

 僕は顎に力を入れて頷いた。柑太の言う事は過激な事もあるけれど、大方は正しく合理的なのだから。

 そしておもむろに、不肖の弟子に奥義をさずける老子のように勿体もったいぶって柑太が言った。

「『残念だけど、憶えてない』だ」

「───そんないい加減な⁉︎」

「いい加減でいいんだよ。そもそもお前、饕餮にむさぼり食われてあべこべに相手に寄生して…なんてトンデモ話を、どうやって大人に納得させられる?いいぜ、お前にそんな芸当ができるんならやってくれよ」

 ひと呼吸置いて、僕は結論づけた。

「ゴメンなさい、できません」

「うむ、それでよろしい」

 まあしょうがないか。午後の授業だって、ここまできたらブッチするしかないよね。これから家に帰ったらもう学校に戻るには中途半端だし。家にはこの時間誰も帰っていないから、文句は言われない。何よりも最初に風呂を炊いて入ろう…このままじゃ風邪をひいてしまう。それから冷蔵庫の中身で何か温まるような料理を作って、二人で食べよう。

 べっくし!と、柑太が男らしいくしゃみを放つ。僕は信号待ちをしながらトントンと小刻みにジャンプをしている幼馴染の横顔を見下ろした。

「うぃ〜クソ、寒ぃ〜!小便したくなっちまったぜ〜」

 呟く柑太の頬にも首にも手にも、ワイシャツから見える素肌はどこも傷だらけ。僕はといえば裸の皮膚のどこをとってもつるんと無傷、首筋を撫でても饕餮の状態の時に受けたナイフの跡は微塵みじんも残っていない。

 もう、僕は完全な人間ではなくなってしまったんだな…

「しょげてんじゃねえよ。今更こうなっちまったもんは仕方がねえだろ?」

 信号が青になる。柑太が僕の腕を強く引いて歩き始める。

「お前がこの先どうなろうと、この俺がついててやる。感謝しろよ」

 声にビブラートがかかってめっちゃ震えてる。寒いんだろうな。ちょっと可笑しくなって、プゥッと吹き出してしまった。

「あンだよツムツム。落ち込んだかと思えば笑ったりしやがって。変な奴」

「エヘ、そうだね。カンちゃんもだけどね」

 眉をねじって、あぁ?とオラついてくる柑太に僕はそっと気になっている事を耳打ちした。

「ところでさっき、僕が溺れた時に人工呼…」

 柑太はみなまで聞かずに僕の腕を突き放し、道を駆け出した。

「ちょっとカンちゃん⁉︎」

「あー、あー、あ〜‼︎聞こえねー聞こえねー聞ぃこえねーなーぁ!」

 歌うように怒鳴り散らす柑太の科白。僕は肩にかけたサイズ違いも甚だしい制服の上着が飛んでいかないよう、しっかりと掴んでその後を追う。

 子犬と大型犬の追いかけっこのようにじゃれ合う僕ら。そんな様子を観察して、僕の中で饕餮がぼやいた。

“何でもいいから、く己の腹を満たせよ…”

 

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